一歩前を歩く雨彦さんの背中をぼんやりと見つめている。足元がふわふわしている気がして、危うく躓きそうになるのを何度か踏ん張って堪えた。雨彦さんの自宅、アヤカシ清掃社にはクリスさんと一緒にお邪魔したことはあるけれど、泊まる目的で訪れるのは初めてだ。
雨彦さんは叔母さんと暮らしているはずなのに僕が行っても大丈夫なのかと尋ねたら「今夜は留守にしてるから問題ないぜ」と、さすが抜かりがなかった。誘われたからといってのこのこと彼についてきてしまっている自分を罠にかかる獲物のようで愚かしいと感じる反面、捕食されるのを期待してしまっているのもまた事実。雨彦さんと恋仲になってから、たまにちょっと自分の性癖の歪みを感じることがあって恐ろしい。
足を運ぶまま着いた清掃社は、明るい内に見る分にはレトロモダンな煉瓦壁の外装だったけれど、夜に見ると少し不気味な雰囲気がある…と言ったら失礼か。以前通された応接室は一階だったが居住スペースは二階にあるらしく、雨彦さんの体つきだと狭そうな階段を登る。開かれた扉の先の部屋は、片付いているものの若干の生活感があって、雨彦さんがここで暮らしていると思うとなんだか落ち着かない。
「さて、シャワーはお客人からどうぞ。それとも湯を張った方がいいか?」
「シャワーで大丈夫ですー。それじゃあお借りしますねー」
「場所はそっちだ。あとでタオル置いておくから」
人の家のお風呂場なんて足を踏み入れる機会はないと思っていたけれど、何が起こるかわからないものだ。雨彦さん家の浴室はさすが掃除が行き届いていて年季がありそうな割には綺麗だったけれど、こじんまりしていて、浴槽なんて雨彦さんじゃ縮こまっても収まらないんじゃないのかななんて余計なことを考えてしまう。
今度大きいお風呂とか誘ってみたら喜ぶかな。銭湯とか...アイドルが銭湯ってちょっと変だろうか。それなら温泉、でも、恋人同士で温泉ってなんだかベタというか、あからさまというかー。
「赤ら顔、火照りをお湯のせいにして...」
まだ誘ってもいないのに気の早いことを。ピチャンという水滴の音で我に返って僕はそそくさとシャワーを終えた。
浴室を出ると、脱衣所にはいつの間にかタオルが重ねて置かれていて、使わせてもらうと自分の家とは違う柔軟剤の匂いがする。というか、このタオルすごくふかふかだ。雨彦さんて掃除だけじゃなく洗濯も上手いんだろうか。
「ん...あれ?」
ふかふかのタオルに包まれながら見回す。僕が脱いだ服は消えていて、代わりに見慣れない服がこれみよがしに置いてあった。着替えを貸してくれるってことなのかな、と畳まれていたその服を広げてみる。
...この服って、もしかして。
***
「お。着たな」
部屋に戻った僕を雨彦さんはじろじろと眺めながら満足そうに頷く。ご期待に添えたようでなにより、だけど。
「...雨彦さん、この衣装買い取ってたんだー」
「わざわざ俺のサイズに合わせて作ってくれたって言うからな。もったいないだろ?」
以前の撮影で使った、まるいしっぽの付いたもこもこのルームウェア。あの時は僕もクリスさんも同じものを着たけれど、また着ることになるとは思いもしなかった。雨彦さんの体に合わせて作られたウェアは僕には大きくて、肩も袖も余ってブカブカだしズボンも押さえていないとずり落ちてしまう。
「着替え貸してくれたのはありがたいけどー、なんでこれなのー?」
「撮影の時、北村も似合ってたからな。着てた服は洗濯するから明日まではそれで我慢してくれ」
ルームウェアのもこもこ具合を確かめるように僕の背中あたりを撫でてから、「俺もシャワーを浴びてくる」と雨彦さんは出ていった。
一人になった僕はしゃがんで余ったズボンの裾を折り返す。わざわざこれを選んで着せてるということは、今日はこれ着たまま、するのかな。タオルと同じ柔軟剤の匂いがするルームウェア、もしかして雨彦さんも普段から使っているんだろうか。そんな考えが浮かんだ途端、身にまとっている布を妙に意識してしまって、なんか、今日の僕、性欲有り余ってないー?
「北村? 蹲ってどうした」
「......なんでもない」
一人で悶々してる間にカラスの行水の雨彦さんが帰ってきていた。まだ少し濡れている髪は額に下りていて、下はスウェットを履いているけど上半身は裸のままで、ああもう、今の僕には目に毒だ。
「そんな格好してたら風邪ひくよー?」
「今夜はお前さんが一緒だからな。これで丁度いいくらいだ」
「......そうかも、ねー」
たぶん、暑くなっちゃうから。
しゃがんでいた僕は立ち上がって、雨彦さんの腕を引く。「もう寝るかい?」と訊かれて黙って頷いた。寝室は、すぐ隣の部屋だった。
雨彦さんのベッドに、二人並んで寝そべって。立っている時より近くなった顔に向けて、キスを仕掛けたのは僕の方からだった。しっとりした唇の感触に酔いしれていると、雨彦さんの腕が僕の背に回され、ぎゅうと抱きしめられる。そしてそのまま、そのまま...。
「......あの、雨彦さん? いつまで、このままなのー?」
「ん? いつまで、か...。一晩中、ってとこかな」
「え...えぇー...?」
なんと、雨彦さんは言葉通り今夜は寝るだけのつもりらしい。僕はこんなにムラムラしているというのに。そんなの、我慢できるわけないよー!
抗議しようともがいてみても、ぎゅうぎゅう、苦しくないのに強い力でホールドされて身動きがとれない。
「なんだい北村。なにか不満でも?」
「不満というか...ええと、今日、しないのー?」
「俺としちゃあこのまま眠るのも悪くないね。せっかく抱き心地良く整えたしな」
首の後ろに付いたフードを軽く引っ張って被らされる。もふもふになった僕の頭を撫でる雨彦さんは愉しげだ。こんなのぬいぐるみを抱えてるのと変わらないんじゃないの、と雨彦さんに目で訴えてみる。
「...もの足りないって顔だな?」
「...わかってるなら......」
「そうさな。北村からおねがい、されたら断れないかもな」
わざとらしく強調された言葉に、ぐぬ...と奥歯を噛んだ。頭の中でプライドと欲が天秤にかけられてぐらぐら揺れる。はしたなく乞うくらいなら黙って添い寝に甘んじようか。それとも恥を忍んで快楽を得るか。
僕の苦悩を面白がっている様子の雨彦さんに腹が立ってきた。頭にくる、けど、それ以上に。
僕はもこもこのズボンに包まれた足をするりと雨彦さんに絡め、耳の端を柔く甘噛みしてみせた。
「抱きしめられるだけじゃ嫌だ。雨彦さん......、おねがい」
途端、くるりと視界がひっくり返る。押し倒された僕の上で雨彦さんがニヤリと微笑んだ。
「お前さんから言ったんだ。後悔するなよ」
もこもこのルームウェアのファスナーが開かれていく。待ちわびた時間の始まりに、晒された素肌がぞくりと震えた。