芸能界は常に行事を先取りしている。テレビやラジオは放送日の何ヶ月も前に録ることもざらにあるから、季節の巡りがカレンダーよりも先走っているように感じてしまう。
バレンタインデーの特番収録をこなしたのが先月のこと。ファンのみんなからのチョコは連日事務所に届いていて、だから今日が二月十四日当日だということも、きっとコイツは忘れているに違いない。レッスンからの帰り道、来るかと訊けばのこのこと家へついてくるのもただの気まぐれなんだろう。
コイツにとってバレンタインデーは特別な日ではない。それはわかっているけれど、それでも。カバンの中に忍ばせたチョコレートを、渡すタイミングを見計らっている。
ちゃんと綺麗な箱に入った、コイツのために用意したチョコだ。小さくて量は大して入ってないから、果たしてコイツが喜ぶのかは想像できない。買った直後もここ数日間も、やっぱり渡すのはやめておこうかと何度も何度も思ったが、買う時にどれだけ恥ずかしかったかを振り返ると悔しくて、諦めきれずに持ってきてしまった。そのくせまだ渡せずに持ち歩いているのが情けない。
今、渡してしまおうか。しかしそれだとこのまま家までの帰り道が気まずすぎる。家に帰ってから渡すか、いっそバレンタインのことには触れずただテーブルに出しておけばコイツは勝手に食うかもしれないが…いや目的は渡すことであって、食わせることじゃないんだ。考えすぎてわけがわからなくなってきたところに「チビ」と短く声がかかる。
「寄るとこあっから、来い」
「え?」
ふらりと方向を変えるとそのまま歩いていくから、慌てて俺も追いかける。行先も告げられないまま辿り着いたのは、商店街の入り口。移動販売のたい焼き屋の前だった。こんなところにいつからキッチンカーが来ていたんだろう。ぼうっとその車を見ていると、ついてこさせたくせに「そこにいろ」といい残してアイツは一人で窓口へ注文を伝えに行く。ほどなくしてずっしりとした紙袋を抱えてきたやつにかける言葉は、少し呆れが混ざってしまった。
「オマエ、さっき弁当も食べてただろ。もう腹減ったのか」
「オレ様の腹を満たすのに、あんなんじゃ足りねーんだよ」
「それにしても買いすぎだ。全部食ったらさすがに太るぞ」
「あーもう、うるせーなァ」
そしらぬ顔で、コイツはたい焼きに齧り付く。今になって、俺の口ぶりはとてもじゃないがチョコを渡そうとしているやつの言い分ではなかったと気がついた。失敗した、コイツ相手だとつい俺もいらないことばかり口走ってしまう。こっそりしょげていると、目の前にこんがりした黄金色の鯛が差し出される。
「どうした?」
「…やっぱりちょっと多かったから、チビにも恵んでやる」
「は?…オマエが? 俺に? 食べ物を?」
「っンだよ文句あんのか!黙って受け取りやがれ!」
コイツが他人に食べものを寄こすなんて、雪でも降るんじゃないか。しかしやたら強情に押し付けてくるから、信じられない心地のままに受け取った。雪は冗談だとしても二月の寒さにかじかんだ手に、たい焼きの温かさはじわりと広がってなんだかほっとする。ほかほかの湯気に混じって食欲をそそる匂い、しかしこの香りは馴染みのあんこではないような。
「…中身、チョコ味か?」
「……キカンゲンテー、とか、あったから。買ってみただけ、だし」
ごにょごにょと珍しく歯切れの悪い口ぶり。寒さのせいだけではない赤い顔を見れば、コイツが今日という日を特別に意識していたのは明らかだった。思わずじっと横顔を眺めていたら、チッと舌打ちされた。
「なに見てんだ。食わねーなら返せよ」
「いや、食う。…サンキュ」
たい焼きをひとくち齧る。とろりとしたチョコレートのクリームは、甘くて、温かくて、うれしくてドキドキする。視線を感じて隣を向くと、コイツはあからさまにフイと顔を逸らした。
「うまい」
「あっそ」
食べている間は、言葉少なでも気まずくない。すでに半分ほどになったたい焼きを、しっぽの先まで平らげたら、俺からも伝えたいことがある。
なあ。俺もオマエに、渡すものがあるんだ。