じわりじわりと明るくなる照明。暗闇から引き戻されて、僕らは映画から現実に戻ってくる。人混みが流れてくる前に最後列の席から僕らはひっそりと抜け出した。
「面白かったねー」
「はい。 とても引き込まれるお話でした」
映画館から少し離れたカフェで、僕とクリスさんはお茶している。今観てきたばかりの雨彦さん主演の映画の感想会だ。
報酬さえあればなんでも引き受ける“何でも屋”の主人公が秘密組織の依頼を受けてトラブルに巻き込まれる、アクションありコメディありのエンタメ映画。悪役じゃないのは珍しいって、雨彦さんは自分で言いながら少し嬉しそうだったっけ。
「アクションシーンは圧巻でしたね。特に雨彦のキックで敵役が弾き飛ばされていくところは、イルカが魚を尾びれで叩いて捕食する様を彷彿とさせました」
「そのイルカの動画見たことあるよー。確かにそれくらい飛んでたかもー。ワイヤーアクションってわかってても驚いちゃったよー」
映画を観た直後、その熱が冷めやらぬまま感想を言い合えるのは楽しい。はじめはひとりで観に行くつもりだったけれど、たまたまオフが被っていたクリスさんを誘ってみて正解だった。
「あと印象的だったのはやっぱりハニートラップのところかなー。雨彦さんの得意分野って感じでー」
僕がそう口にすると、正面のクリスさんは戸惑ったような驚いたような、なんとも言えない表情で口ごもったから「どうしたのー?」と首を傾げる。
「いえ…。想楽からそこに触れてきたので、つい。てっきり、雨彦のああいったシーンは気にするのかと思いまして」
クリスさんは、僕と雨彦さんが付き合っていることを知っている。恋人と他の人とのラブシーンに抵抗はないのかということだ。まあ今回の映画ではラブシーンといっても色っぽく体を密着させている程度で、濡れ場というほどではなかったけれど。
僕はクリスさんの心配を軽く笑い飛ばした。
「仕事なんだから気にしないよー。ただでさえ雨彦さんはそういう役が多いんだしー。それに…」
「それに?」
半端に途切れた発言の続きを、クリスさんはじっと待っている。僕はアイスティーのストローを弄りながら、声を潜めて呟いた。
「……僕の方が雨彦さんに愛されてる、って自信が、あるのでー」
クリスさんの顔がぱぁっと輝く。すごく恥ずかしいことを言ってしまった。ごまかすようにアイスティーで喉を潤してみても火照った頬を冷ますには至らなかった。
「それを聞いて安心しました!雨彦は愛情表現が苦手だと以前に言っていたので」
「そんなこと言ってたのー…?」
「はい。それに、恋愛シーンを見るのが複雑というのも雨彦の方です。少し前に想楽が出ていた学園ドラマがあったでしょう?」
「ええー?だってあのドラマ、そんなに過激なシーンなかったよー?」
クリスさんの言うドラマは、ヒロインが学園の王子と恋に落ちる王道ものだが、僕は準主役。ヒロインに片思いして迫ってみるが結ばれない幼なじみ役だった。原作漫画では人気のあるキャラだったが、ヒロインとの接触は壁ドンくらいでキスシーンすらない。
「一度だけ事務所で雨彦と並んで観た回がありましたが、観終わる頃には口元がこう、ボラのようにムッと」
「そ、そんなに…?」
「ええ。ですから、想楽。雨彦にももっと自信を持たせてあげてくださいね」
にっこりと、クリスさんの笑顔はまぶしいほど。クリスさんの口から聞く雨彦さんは僕が思うよりずいぶん素直で、おそらく僕もそうなんだろう。僕らはお互いよりもクリスさん相手に正直なのかもしれない。
クリスさんがいてくれてよかったな、なんて考えながら。僕はいつも通り海の話にすり替わっていく彼の語りにほどほどに相槌を打っていた。
***
講義が終わり教室を出た人たちがぞろぞろと廊下を歩いていく。僕はその中を縫って外へと向かった。今日は大学の授業の後で仕事に向かう予定だったのだが、雨彦さんが車で迎えに来てくれると連絡をくれた。自然と歩みが早まるのは、これはもうしかたがないことで。駐車場に見慣れたバンを見つけるとそそくさと乗り込む。
「お迎えどうもありがとうございますー」
「よう北村。お疲れさん」
助手席に座ると隣りからかすかに鬢付油が香る。映画のスクリーン越しでは感じられなかった雨彦さんの香りに、幸福が補充されていく心地がする。ここ数日は個人の仕事ですれ違っていて会えていなかった。
久方の 逢瀬このまま 続けばと…なんてねー。行き先はいつもの事務所だから、二人きりの時間はそんなに長くはないけれど。
なかなか車は動き出さなくて、どうかしたのかと雨彦さんを窺う。目が合うと、雨彦さんは躊躇ったように一度唇を結んでから、「北村」と僕を呼んだ。
「…? なんですかー?」
「……この前の休みに古論と出かけたらしいじゃないか」
「うん、そうだよー。雨彦さんの出てるあの映画観に行ってきたんだー」
やはり主演俳優として映画の評価が気になるのだろうか。僕が感想を述べようとすると、雨彦さんはふいと視線を外して車のエンジンをかけた。
「……無理にとは言わないが。次のオフは、俺にも時間を割いちゃくれないか」
ゆっくりと、車が動き出す。ハンドルを握る雨彦さんの横顔はなんだか少し拗ねているみたいで、僕は思わず笑ってしまった。
「笑いごとじゃないんだがな」
「あはは。ごめん、そうだよねー」
クリスさんからも言われていたんだった。案外やきもち焼きで心配性なこの人を不安にさせないように、もっともっと伝えてあげなくちゃ。
「心配しないで。僕、雨彦さんが一番大好きだよー」