月花前日譚 九街の至るところに生える桜の木は妖怪大桜の分枝、言わば手足のようなもの。だから桜雲街では大切に感謝を忘れず慈しむように誰もが言い聞かされている。
幼い妖狐のリケとミチルもそれに倣って、桜の世話に勤しんでいた。特にこの街に住み始めて間もないリケはミチルからやり方を教わりながら熱心に手をかけている。今も如雨露を手にふたりで街路樹に向かっていくところだった。
「ではシャイロック、行ってきます!」
「あまり遅くならないように。行ってらっしゃい」
ふたりの小狐を見送ったシャイロックは、そのまま茜に染まり始めた空を見やる。そろそろ酒場に客が集まり出す頃合だ。昼から飲んでいるような客も一定数はいるけれど、やはり酒場は夜の方が賑わう。対してリケの相談所は昼間しか営業しないことにしている。
「やぁシャイロック、こんばんは。ここからは大人の時間かな?」
「おや。いらしてたんですか、ムル」
店の陰の薄暗闇から浮き上がるように、不意に姿を現したのはシャイロックの知己、ムルだった。急に声をかけられてもシャイロックも驚きもしない。彼の唐突さは今に始まったことではないからだ。
「リケに酔っ払いの相手はさせられませんから。お酒目当てならもう少し待って貰えますか」
「違うよ? 今日の目的はこっちだったんだけど、今の俺はお尋ね者なんだ!」
「こっち、というと…薬種問屋ですか」
立派な店構えの隣店を眺めたシャイロックは、そういえば昼ごろに隣りの用心棒達がピリピリと辺りを警戒していたのを思い出した。内容は聞いていないが、ムル本人がお尋ね者と言うからにはなにかろくでもないことを仕出かしたのだろう。美しいが気の弱そうな薬種問屋の坊ちゃんを気の毒に思い、シャイロックは細く溜息を吐いた。
「まさか犯人がすぐ隣りにいるとは思わないでしょうね」
「かくれんぼは得意!」
目立つことばかりする一方でこの言葉も嘘ではないのはシャイロックが一番よくわかっている。「ほんとうに食えないひと」と親愛と苛立ちの混ざった評価にムルは満足気に目を細めた。
「自分目当てじゃなくて拗ねちゃった?ちゃんとシャイロックにもおみやげがあるよ。はい、これ」
「誰が拗ねるものですか。これは?」
ムルが差し出したのは小さな鈴を紐で連ねたものだった。根付にしてはかさばるから、室内や軒先の装飾品らしい。しかしシャイロックが軽く揺すってみても鈴から音はしなかった。
「その鈴は俺の発明品。強い妖気や瘴気の気配を感知すると鳴って教えてくれる優れものさ!」
「要するに、関わると厄介な客を事前に知らせてくれるわけですか」
「便利でしょ?」
「どうでしょうね」
目の前のムルにも反応しない鈴にシャイロックは苦笑を漏らす。彼以上に厄介な者などそうそういるまい。
「あまり期待はしていませんが、有難く頂戴しておきます」
「きっと役に立つ。そう遠くないうちにね」
「今度は予言ですか?」
「俺に神通力は無いよ!ただの予感さ」
大袈裟な身振りで肩を竦めて見せたムルは踊るような足取りで歩みでると、その場でくるりと回る。回りきる瞬間、ムルの姿は夕闇に溶け込むように消えた。
「そろそろ行かないと。次はゆっくりお酒を飲みに来るよ。またねシャイロック!」
声だけのムルがシャイロックの耳をくすぐって逃げていった。シャイロックが大きく尻尾を揺らすと、残っていた気配も霧散する。
道の向こうからぱたぱたと軽い足音がしたかと思えば、リケとミチルが駆けるようにして帰ってきたところだった。
「ただいま戻りました。シャイロック、聞いてください! 桜が…」
「あれ…。シャイロックさん今、誰かとお話ししていませんでしたか?」
待ちきれない様子で話し出すリケの隣で、ミチルが不思議そうに首を傾げる。消える直前のムルが遠目に見えていたのかもしれない。
「ええ。ついさっきまでムルが来ていたので。もう行ってしまいましたけれど」
「そうだったんですか?」
「あ、じゃああの桜はきっとそれを教えてくれてたんですね!」
「桜がどうかしました?」
問いかけに子供たちはぱっと顔を明るくして、興奮気に喋り始める。
「桜に水をあげていたら、風もないのに急に花びらが舞い上がったんです」
「ひらひら、飛んでいくのを追いかけてみたらこの店に戻ってきました。きっとムルが来ていることを伝えてくれていたのでしょう」
「せっかく伝えてくれたのに間に合わなかったのは残念ですけど…。もっと速く走ってきたら良かったのかな。リケ、明日からかけっこも練習してみましょうか」
「かけっこですか? 楽しそう!やりましょう、ミチル」
奮起して明日からの予定をたてるふたりなら、いつか本当に、ムルの尻尾を捕まえるかもしれない。その光景を想像して、シャイロックは思わず笑みを漏らした口許を袂で隠すのだった。