おとなになれない「北村。目を」
閉じちゃくれないか、と雨彦さんが言い終わる前に瞑ってしまった。期待していなかったと言えば嘘になる。
僕と雨彦さんはお付き合いをしている。告白して同意を得て、たまに見つめあったり、手を繋いだり。成立してから数ヶ月経つけれど至って折り目正しい交際。お互いアイドルなので世間の目には大変に気を遣う必要もあり、ろくにデートにも行けない。だから僕らの密会場所は専ら、僕の帰宅を送ってくれる雨彦さんの車の中だ。
今夜も例に漏れず雨彦さんに兄さんのマンションの近くまで送ってもらって、でもすぐに車を降りたくないななんて考えながらサイドブレーキに置かれた雨彦さんの手に自分の手を重ねてみたりして。そうしたらその手を雨彦さんにとられて、顔を上げたらびっくりするくらい優しい目をした雨彦さんに、そう、せがまれた。
目を閉じてすぐに、唇が合わさる。ほんとうに、触れるだけ。3秒も掛からず離れていった。僕はゆっくり目を開ける。
「……これだけー?」
期待していただけに。なんだか拍子抜けするくらいの軽いキスに素直な感想を述べるけれど、雨彦さんは笑って頷く。
「ああ。これだけさ」
「僕の歳わかってるよねー?こんな子供騙しみたいなキスで満足すると思ったのー?」
「今日のところはこれで勘弁してくれ。先の楽しみをとっておくのも悪くないだろう?」
「まあいいけどー。とっておきすぎて機を逃さないようにしてよねー」
それじゃあ、と車を降りたら雨彦さんも降りてきた。
「マンションの前までお供しよう」
「どうしたのー?珍しいねー」
「なに、歩きたい気分だったのさ」
いつもなら車に乗ったまま僕を見送るのに。2人並んで夜道を歩く。といってもすぐそこなので、あっという間に着いてしまうんだけど。
「じゃあねー雨彦さん。また明日ー」
「ああ。おやすみ、北村」
マンションの入り口で手を振って雨彦さんと別れる。その後部屋に戻るまで、実を言うとあまり覚えていない。地に足がついていないようなふわふわした気持ちのまま自室にたどり着いて、鞄も下ろさないままどさりと床に座り込んだ。薄くて、でも柔らかい唇の感触をまだ覚えている。
雨彦さんとキスした。キスした。キスした!
その場で跳び跳ねたいような、膝を抱えて枕に埋もれたいような、乱高下する気持ちを持て余す。はたと気づいて洗面所へ駆け込み、鏡を見ると目も当てられないくらい真っ赤な自分の顔があった。
待って、いつから、あんな生意気な口を叩いておいて、ああだから雨彦さん付いてきてくれたの。
思わず鏡の前で蹲る。演技のお仕事も最近はそつなくこなせていたというのに、雨彦さんの前ではこんなにも格好がつかないなんて。
「……『かくばかり恋に沈まぬ手童のごと』」
『古りにし嫗にしてや』ってほど年嵩ではないけど。この歌に共感できる日がくるとは想像もしていなかった。
ねぇ雨彦さん。やっぱり大人のキスはもっと先延ばしでお願いしていいかなー?