猫になっちゃった犬飼先輩と辻ちゃんのおはなし ……はぁ。なんかよくわかんないけど、トリオン兵の攻撃当たったら猫になっちゃったんだよね。
別に舐めてかかってたわけじゃないし、でもだからってめちゃくちゃ格上の相手ってわけでもなかったし、民間人もいなかったから誰かを庇ったり動きに制限があったわけでもなかった。でも、レーダーにも反応しなくて、しかもトリオン体の能力をもってしても目視不可能だったそれをすんでで躱わせただけでも正直頑張ったほうだと思ってる。左の上腕部のスーツがピッと引っ掻かれたように破れていて、ほんの僅かだけれどトリオン漏出の淡い煙が上がっていた。ぎりぎりアウトだったかぁ。そう思って、駆けつけてくれた辻ちゃんがすごい速さで対象を切り裂いて、それで、うっわ、なんか目の前ぐらぐらする、なんて思っているうちに、おれ、多分、猫になっちゃったんだよね。意識も知識も情報も今までの延長線上にあるのに、体だけが猫。白い前脚に、わ、可愛い、ピンクの肉球。おれの髪色に似た燻んだ金色の尻尾。新しいトリオン体だと思えば、まぁ、悪くないか? なんてちょっと首を傾げて考えていると、珍しく辻ちゃんが大きな声で犬飼先輩! って叫んで、おれの前に膝をついて驚いた顔をしていた。これは珍しい、辻ちゃんでもこんな顔するんだ。辻ちゃんはすぐに冷静な顔に戻って、離れた場所にいる二宮さんとひゃみちゃんに連絡を取り始めたけれど、おれはなんでかそんな辻ちゃんの斜めになった長い膝上に乗りたくて仕方なかった。それどころじゃないだろうに、あはっ、おれ、意外と楽観的かも。うける。どうにも抗えない本能のまま辻ちゃんに近づいて、うろうろして、体でも擦りつけてやるか、なんて思っていると、犬飼止まれ、って二宮さんの鋭い声が体中を駆け巡った。うわぁ、二宮さん、声でっか。思わず体をぶるりと震わせると、なんだかぶわっと、おれ、大っきくなってる気がする。なぁに、もしかしてこの体、膨らんだりする? たっのしぃ。猫になった自分の体をきょろきょろ眺めてはおもしろがっていると、上から辻ちゃんのやさしくて、なんだか申し訳なさそうな声が落ちてきた。
「犬飼先輩、すみません。これの上に乗ってもらえますか?」
これ。辻ちゃんのジャケット。比較的平らな地面に置かれたそれは、ついさっきまで辻ちゃんが着ていたジャケットで、嗚呼、そういえば一枚くらいなら脱げるんだっけ、と思いながら、了解、といつもの調子で答えた。つもりだった。実際はなかなか愛嬌のある、にゃぁ、という猫らしい鳴き声で、白シャツにベスト姿になった辻ちゃんはやっぱり少し悲しそうにおれを見ていた。なになに、辻ちゃん、おれ、結構平気よ? そんな悲しい顔しないで? 猫語はビギナーだけど、それっぽく聞こえるようにころんと首を傾げてみれば、辻ちゃんの眉は下がる一方だ。
「……許可が下りてからでないと、触れられないんです。……すみません。……包みますね」
辻ちゃんは本当にやさしくゆっくりとおれの体をジャケットで包むと、最後に袖の部分を縛って、暗闇に包まれる前に、怖がらせてごめんなさい、と苦しそうに謝った。んーん、大丈夫、問題ないよ。ちょっとでも伝われば良いなぁ、と思って出した声はやっぱり、にゃぁ、で、これもうちょっとバリエーション無いもんかね、とそればかりが気になって仕方なかった。真っ暗になって、上下にふわふわ揺れて、確かにこれは説明が無ければ少し怖かったかもしれないな、と思った。でも、おれを運ぶ辻ちゃんの腕がトリオン体なのに温かかったから、嗚呼、これはまずい、おれ、ついつい寝ちゃったんだよね。
おれが思うに人間の時よりマイペースになってしまった、猫かっこ仮のおれは、起きると鬼怒田さんや冬島さん、技術系の皆様方に囲まれていて、うっわぁ、絵面きっつ、と正直に口に出してしまっていた。犬飼、言ってること全部バレてるよ、と可笑しそうにおれに声をかけてきたのは寺島さんで、え、なになに、どうして、と体を起こして周りを見ると、どういう仕組みなのかスクリーンにはリアルタイムにおれの言っていることが文字におこされていた。なるほど、これなら会話が出来そうですね。一瞬で自分の置かれた状況を理解すると、猫語の中でも丁寧語に当たりそうな言葉を選んで、にゃあ、と鳴いた。ほら、おれ、可愛いでしょ? さっきのチャラにして? ね? と、ついでに首を傾げて見上げることでアピールして、もういい、わかった、と鬼怒田さんが許してくれたから、良かったぁ、おれ、可愛くて。鬼怒田さんの説明によれば、やっぱりおれは猫になっていて、おれからの発信こそ猫語で通常では伝わらないものの、文字におこせば伝えられるし、おれ自身は相手の言葉が理解出来るから、少しの間であればそこまでの問題は起きないようだ。ただ、さすがに猫のまま帰宅するわけにもいかないから、おれは本部にお泊まり。その際、なんでも辻ちゃんも付き添いで一緒にお泊まりしてくれるんだって。感染したり被害を増やすような症状ではないみたいで、え、触っても大丈夫なの? やった、おれ、辻ちゃんの脚登ってみたいんですよね、ラッキー。なんだかいつもりより落ち着きない子供みたいなおれは、鬼怒田さんの話をすべて聞き終わるよりも先に机の上から飛び降りて、ねぇねぇ開けて、と扉の前でにゃんにゃん鳴いて猛アピール。寺島さんはカップ片手に、もうちょっとだけ待ってよ、猫の犬飼くん、と笑った。おれは辻ちゃんが迎えにくるまで部屋の中をうろうろ、ちょろちょろ。なんとなく暖かくて落ち着くキーボードの上でまったりしたり、よくわからないけれど良い感じの箱に体を捩じ込んだり、線を引っ張ったり、まぁまぁ楽しんだ。でも、なんとなく辻ちゃんの足音が聞こえた気がして、今まで遊んでいたものをすべて放り投げて扉の前で待ち構えていると、辻ちゃん、ちょこんと座るおれを見て、お利口さんですね、って笑ってくれたんだ。そうでしょ、おれ、良い子でしょ。さっき触れなかった分、おれは辻ちゃんのなっがい脚に体をすりすり擦りつけて、脚の間を八の字に歩いて、見上げて、歩いて、擦りつけた。鬼怒田さんは疲れた顔でおれを見送ってくれて、それで、あれ、此処どこだっけ、知らない部屋だ。辻ちゃんはさっきと同じようにスーツのジャケットにおれを包んで部屋まで連れてきてくれたけれど、あれ? おれ、辻ちゃんに触っても良いんだよね? 入ってすぐにバリアフリーな三和土(たたき)があって、そこからはフローリングの床とシングルのベッドがあるだけの至って簡素な部屋。そこに辻ちゃんはゆっくりとおれを下ろして、滑るかもしれないので気をつけてくださいね、とジャケット越しにおれの体をそっと撫でた。おれはなんでか辻ちゃんのジャケットの上から動こうって気にならなくて、正座しながら心配そうにおれを見つめる辻ちゃんを見上げては、にゃあ、と鳴いた。ねぇ、辻ちゃん、おれ、大丈夫だよ、そんなに心配いらないよ。そう言ってるつもりだったけれど、辻ちゃんにはどう伝わったんだろう。知らない部屋、やっぱり怖いですよね。困ったようにそう言う辻ちゃんに、ちがうちがう、そうじゃなくて! とおれは慌てて声を上げて、近くにあった辻ちゃんの掌に自分の顔をぎゅむ、と押しつけた。トリオン体だけど、なんか、あったかい。それに、えぇ、辻ちゃん、手ぇ大っきい。これは、ちょっと、押しつけ甲斐がある。ぎゅむ、ぎゅむ、ぐり、ぐり。辻ちゃんが抵抗しないのを良いことに、自分でもよくわからないけれど納得いくまで頭を押しつけた。はぁ、満足。辻ちゃんの掌を堪能しきると、どこからか、ごろごろころころ、不思議な音が鳴っていて、え、なにこれ、もしかしておれから鳴ってる? と視線を下にさげて確認すれば、ふわ、と頭につい今までおれが楽しんでいた辻ちゃんの掌が乗せられていた。おれがあまりに小顔なせいで、親指ですりすり撫でてくるのがかえって気持ち良い。
「……犬飼先輩。……猫だと随分甘えん坊ですね」
辻ちゃんの手があまりに大きくて温かいから。辻ちゃんの声があまりにやさしくて寂しそうだから。おれ、頭上げられないよ。辻ちゃんの手がおれの頭から離れて背中に移ると、ようやく辻ちゃんを見上げることが出来た。おれの知らない、やさしい顔をしていた。ううん、辻ちゃんはいつだって優しいし、良い子だけれど。でも、後輩でも年下でもない、なんだかまるで兄のような顔でおれを見ていた。うっわぁ、イケメン〜。やばっ、おれ、メスだっけ、オスだっけ。辻ちゃんが飼い主だったら、おれ、間違いなく辻ちゃんのこと好きになるし、辻ちゃんが別の猫の匂いつけて帰ってきたらめちゃくちゃ嫉妬して怒ると思う。そのくらい好き一択の顔して辻ちゃんはおれを見ていて、やわらかく、やさしくふわりと笑った。
「お膝、乗りますか?」
うっわ、乗る乗る! 喜んで! おれの知ってる辻ちゃんは、普段あまりその綺麗な顔を動かしたりしない。もちろん笑うし、拗ねたりちょっと怒ったりもするけれど、でも、基本はポーカーフェイスで、クールな子って思われてる。でも、今、胡座をかいておれを膝に乗せてくれる辻ちゃんは、すっごくやさしい顔をしていて、あぁ、なるほど、これがお兄ちゃんの顔かぁ。安心するし、それなのにかっこよすぎてどきどきもする。わぁ、だからおれ、どっちだっけ、メス? オス? これは惚れる。おれはてっきり、胡座をかいた時に出来る真ん中の三角に座らせてもらえるのかなって思っていたけれど、辻ちゃんの長い脚が作る隙間は谷のようで、ダメだ、さすがに猫のおれでも座れない。思ってたんと違う、って顔で辻ちゃんを見上げれば、辻ちゃんは不思議そうに首を傾げて、なんか低いですね? っておれのことを引っ張り上げた。いやそれ違うし、低いんじゃなくて、辻ちゃんの脚が長すぎるのがいけないの。それに、結構遠慮なく掴むじゃん。おれ、ほらぁ、体伸びちゃってんじゃん。辻ちゃんのえっちぃ。前脚の脇を両手で掴まれて、おれの体はみょん、と伸びる。辻ちゃんは、わ、伸びる、ってびっくりしていて、でも、背中を丸めておれと視線を合わせると、楽しそうにこう言った。
「毛並みは先輩の髪の色に似ているのに、目の色は違うんですね。でも、金色の目も綺麗です。似合ってますよ、犬飼先輩」
にこっと音が聞こえるくらい、辻ちゃんは綺麗に笑った。はぁ〜、これはずるい。至近距離でその笑顔はダメでしょ〜、惚れるわぁ〜。めろんめろんになって体は余計に柔らかくなって伸びていく。辻ちゃんは、太刀川さんの食べてるお餅みたいですね、となんかちょっと気に入らない例えをしながらおれの体を組んだ脚の上に乗せ直して、左腕全体で支えてくれた。うん、なかなか良いかんじ。おれはまさに辻ちゃんに抱かれるかたちになって、うわぁ、まさかこんな風にイケメンの顔見上げる日が来るなんてなぁ、と妙な感動を覚えながら、へらっと笑った。猫だけど。そう、猫だけど。なんかゆ〜っくり目を閉じて、しばらくそのままで、またゆ〜っくり目を開けると、辻ちゃんのやさしい顔が見られて、へへっ、なんかしあわせ〜。辻ちゃんは相変わらず優しい顔で笑ってくれるから、なんかほんと、おれ、別に猫のままでも良いかもしれない。ころころごろごろおれの喉元からは不思議な音が響いているけれど、まぁ、それも対して気にはならないし、ね? 辻ちゃんもそうでしょ? おれは辻ちゃんにそう聞いたつもりだったけれど、なんでかこれは猫語のにゃあ、にはならなくて、音にならないままおれはにゃあと鳴いていたようだった。あらら、鳴き声って空振りすることあるんだ? ほ〜んと、猫って不思議。でも、辻ちゃんはそんなおれを見ても嬉しそうに、恥ずかしそうに笑って応えてくれるから、そういうものなのかもしれない。その後も辻ちゃんは、先輩が暇しないように借りてきたんです、と猫じゃらしで遊んでくれて、おれは、マスタークラス攻撃手の猫じゃらし旋空と存分に戦い、良い感じの疲労を感じ、そして、寝た。辻ちゃん、遊んでくれるのも上手なんだもんなぁ。おれ、猫になって初日だからもう疲れちゃった。辻ちゃんは、ふかふかのクッションやタオルを重ねて作ってくれた寝床におれをそっと寝かせて、おやすみなさい、と囁くように声をかけてくれた。声だけ聞いても辻ちゃんは優しいしイケメンだってよくわかる。ほぉんと、おれ、辻ちゃんに飼ってもらいたいなぁ。でも、現実と夢とをふわふわ行き来している中で、辻ちゃんが寂しそうに溢した独り言を思うと、おれ、やっぱり人間に戻りたいかも、って強く思ったんだ。
「……犬飼先輩、……猫になった途端、甘えてくるなんてずるいですよ。……俺は、……少し意地悪でも、青い目の先輩とお話したいです」
薄っすら目を開けて辺りを見渡せば、換装を解いてベッドに横たわる辻ちゃんの姿があった。部屋の電気は消えていて、シャワー浴びたのかな、さっきまではしなかった甘い香りがする。おれに背中を向けて横向きで寝ている辻ちゃんの髪から漂う知らない香りに、おれは、ふんふん鼻を鳴らして近づいていってしまう。猫になったおれを運んでくれた時の隊服のジャケットからも、膝に乗せて遊んでくれた腕からも感じられなかった辻ちゃんのにおい。今ならわかるんじゃないかとベッドに飛び乗って、静かに眠る辻ちゃんの髪や服のにおいをふんふん嗅いだ。人間だったら変質者だけど、今、おれ猫だし、何も問題ない。シャンプーは、これ、きっと普段の辻ちゃんとは違うと思う。でも、この白いシャツは知ってる。いつ泊まり込みの任務があっても良いようにって、隊室に置いてある予備の着替えだと思う。辻ちゃんのお家の洗濯用洗剤と無香料の柔軟剤のにおいだ。無香料って言いながらも、無香料の香りってあるよね、って笑いあったの、おれ、覚えてるよ。柔軟剤をとるか香水をとるか、姉ちゃん達と揉めたんだよねって話をした時に、犬飼先輩はいつも良いにおいがします、って真顔で言ってくれたの、実はめちゃくちゃ嬉しくて、でもなんでか恥ずかしくもあったの、今になって思い出しちゃった。香り付きのハンドクリーム、今度一緒に見に行ってみる? って言っておいて、そういえば、まだそれ出来てないね。嗚呼、そうだ、戻らなきゃ。猫になって辻ちゃんにずっと可愛がってもらうのも最高だと思うけど。でも、やっぱり。
「おれ、辻ちゃんのこと可愛がるの、結構好きなんだよね」
いつになったら人間に戻れるかな。勝手に辻ちゃんの腕の間に入って寝たおれが、狭いんですけど、と嫌そうな顔で起こされるのは、もうあと数時間後の話。