フラれモブ子のお話 クラスどころか学校の有名人。自分には勉強しか出来ることがないと言い聞かせるように打ち込んで合格した進学校は、頭だけでなく顔まで良い人達で溢れていた。綾辻さんは美人で優しい才色兼備の女の子。奈良坂くんは綺麗すぎて逆に現実味が無いように思えてしまうほどの美男子。ボーダーに所属しているという彼女達は、勇敢なだけでなくすべてが優れているようだった。そして同じクラスのボーダー隊員、辻くんもまた綺麗な顔をした男の子だった。あまり表情を変えることなく淡々と過ごす彼は、なんだかまるで精巧に作られた人形のようだ。自分は元々男子とは関わりが無かったけれど、辻くんとは本当に縁がないのだろうなぁ、と漠然とそう思った。生きている世界が違いすぎると、そう思ったのだ。六頴館の中にヒエラルキーがあるとしたら、その上位は間違いなくボーダー所属の美男美女達。辻くんはまさにそこに位置する人間で、自分は正反対の最下層。特に思いを寄せているわけでは無いけれど、それでも早々に未来を否定するくらいには次元が違いすぎていた。
けれど、意外にもそうではないかもしれない、と思ってしまった。辻くんが自分にも、他の可愛らしい女の子達にするように頬を赤らめ吃りながら話をしてくれたのだ。辻くんが女の子が苦手だというのは、入学後しばらくしてからわかったことだった。いつも男の子とばかり話していて、辻くんに気のある女の子が話しかけに行ってもちらりとも目をくれず、いつも隣にいる片桐くんに相手をさせる辻くん。てっきり顔だけの嫌な男だと思っていた。けれど、戻ってきた女の子は悲しむでも怒るでもなく驚いた顔をして戻ってきたのだ。辻くん、女の子が苦手なんだって、と。嫌いとかそういうのじゃなくて、なんか、恥ずかしいんだって。それを耳にした女子は一斉に辻くんを見て、それを察した辻くんは片桐くんに隠れるように移動したけれど、さらさらな黒髪からのぞくまぁるい耳は真っ赤に燃えていた。それ以降辻くんに話しかけに行くのはクラスの中でも可愛い子達ばかりで、その度に辻くんは困ったようにお人形のようだった顔を歪めて真っ赤になっていた。女の子が苦手とは言うものの、寄っていくのは自分に自信のある可愛い子ばかり。だから、なんとなく、自分が行っても辻くんは案外普通に接してくるのではないかと思っていた。多少吃りはしても、真っ赤になって耳まで燃やすことは無いだろうと思っていた。けれど、違った。辻くんはわたしと話しても顔や耳だけでなく、細っそりとした首筋まで染めていたのだ。
「ぁ、あ、の、……ょ、よろしく、……ぉ、おねがぃ、……します」
差し出された震えるプリントを、わたしも思わず震える手で受け取ってしまった。辻くんが。クラスどころか学校の有名人の辻くんが、可愛くも、綺麗でも、愛嬌があるでもないわたし相手に女の子として接してくれた。それが衝撃で、ぶわわと胸が熱くなった。周りは辻くん可愛かったね、と笑っていたけれど、わたしは、つられて緊張しちゃった、とわざとらしい笑みを浮かべるので精一杯だった。
その日以降、少しでも辻くんのいる世界に近づきたいと、興味がないふりで逃げてきた自分のコンプレックスと向き合うことになった。自分は可愛くないから、と見て見ぬふりをしてきた自分の顔を毎日鏡で観察して、目が小さい、睫毛が短い、眉の形が悪いと頭を抱え、必死に研究した。まずは出来ることから。肌の調子を整える。ドライヤーはかける、のではなく、ブローする。肌が綺麗になって髪に艶が出るだけで何もしなかった時よりも綺麗になれた気がする。その小さな一歩が嬉しかった。辻くんが外見に無頓着だったわたしにも女の子として接してくれたことが原動力になっている。可愛くなりたい。綺麗になりたい。辻くんを囲む、片桐くんだけでなく、奈良坂くん、氷見さん、金髪の先輩達と並んでも変だと思われないくらい、綺麗になりたい。辻くんにとっては特別なことではなかったとしても、わたしは嬉しかった。今では、前よりも自分に自信が持てて俯く機会も減ってきている。皆当然のように押しているリンパとやらを素人が刺激しても良いのだろうかと恐る恐る押して、カクンとならないように睫毛を上げ、目尻と二重のラインの交差する場所を必死に探してアイラインを引く。前よりも好きになれた自分の顔。さすがに元の顔は変えられないから辻くんの隣に行こうとまでは思えないけれど、それでも、クラスで話せる人が増えてきていた。今まで敬遠していた女の子達とも男の子とも話せるようになって、嗚呼、少し、変わったな、と思えた。もうこれだけで十分幸せなんじゃないかと思っていたのに、わたしは自分が思っているほど勉強が出来るわけでも頭が良いわけでもなかったようだ。
「……辻くん。……好き、……です」
放課後、職員室から自分の教室に戻ると、そこには辻くんだけが残っていた。課題でもしているのか、背の高い辻くんには手狭だろう机に教科書やノートを広げて、真剣な顔。いつも真っ直ぐに伸びた背中がしなやかに曲がって、さらりと落ちた前髪が綺麗だと思った。やっぱり、格好良いなぁ。全然隣になんて並べそうにないや。そう思って、無意識に零れ落ちたのが、よりにもよって告白の言葉だった。それは誰もいない教室には嫌になる程よく響いて、辻くんはガタ、と大きく体を跳ねさせてこっちを見ていた。
「ご、ごめんなさいっ! あの、これ、無意識で、そのっ、今、職員室から戻ってきて、それで、あのっ、……い、言う、つもりは、……無かったんだけど、……その、……ごめんなさい」
教室に足を踏み入れることも出来ず開けっぱなしの扉の横で俯くわたしは、何も変わっていない。いざ本人を目の前にしてしまうと、今までの努力なんて努力ですら無かったのかもしれないと思えてしまう。それでも、辻くんはあの時のように、感情の乗らない綺麗な顔に困惑と羞恥を乗せて言葉をかけてくれる。
「ぁ、の、……こっち、こそ、……ご、ごめ、ん」
綺麗な顔だと思った。揺れる黒い瞳に紫が混じっていると、この時初めて気がついた。
「ううん、良いの、あの、ほんと、……ごめん。……辻くんが、……わたし、全然可愛くないし、女の子っぽくもなかったのに、他の女の子の時みたいに話してくれたから、……それが、……嬉しくて、……だから、……単純だけど、……その、好きに、……なっちゃって、……付き合ってほしいとか、そういうのとは、違うんだけど、……でも、……うん。……わたし、……辻くんのおかげで、……少し、自分に、自信が持てたよ」
言うな、止まれ、そう思うのに口は余計なことばかり言葉にしてしまう。不思議と頭の中は冷静なのに口ばかりが先走って、まるで頭と心が繋がっていないみたいだ。返事なんて貰えないんだから、早く自分の席から鞄を取ってこの場を去らなければ。ふんわりとしたなんとも覚束ない感触で床を踏んで教室に足を踏み入れると、ガタリ、と辻くんは立ち上がって、そして、嗚呼、まるで都合の良い夢を見ているみたいだ。
「……ま、待って。……ぁ、ぃゃ、あの、……ぇっ、……と、……その、……ぁ、……さ、最初から、……ぁの、……か、……かわっ、……っ、かわい、かった、……ょ」
ヒエラルキー最上位、ボーダー所属のイケメンの辻くんは、普段は凪いだ綺麗な顔を真っ赤に染めて、眉を力無く下げてわたしにそう言った。好きだとか、付き合いたいだとか、そういったところには反応しないくせに、一番やわらかなところを必死に教えてくれる。きっと触れることはないだろう大きくて骨張った手で顔を覆う辻くんは、やっぱりわたしとは違う世界に住んでいて、そして、不思議と近いところにいるみたいだ。
「……ありがとう。……ふふっ、辻くんだけだよ、そう言ってくれるの」
初めて合った視線は深い紫で、今度こそ踏みこんだ床はしっかりと硬かった。出来る限り自然な動作で鞄を持って、そして、初めて言った。
「……また、明日」
普通の挨拶。さようならだとか、バイバイだとか、そういったものはまだ言えないけれど。
「……うん。……また、……ぁ、あしたっ」
手を振ろうとしてくれたのか、半端に挙げられた手が広がって、閉じて、指が長い。泣き出しそうなくらい真っ赤な辻くんを見て、こっちもつられて泣いてしまいそうだ。綺麗な顔。小さくてまぁるい頭。さらさらの黒髪に、黒と紫の不思議な瞳。背が高くて、やさしくて、穏やかで、女の子が苦手で、でも、大事な場面では逃げずに向き合ってくれる。最初から可愛かったよ、だって。廊下を抜けて、昇降口に辿り着いた時。ようやく涙がぽろりと落ちた。
「辻くんのこと、好きで、よかった」
覚えたマスカラはもう落ちない。少しでも、辻くんの世界に近づきたいからだ。