犬辻 おれは多分、辻新之助に好かれている。
年齢は一歳下で、ボーダー歴では一年近く先輩にあたる辻新之助。二宮先輩に紹介されて初めて知った彼は、なるほど、先輩が好みそうだ、と思うくらい容姿も優れていた。当時としては希少な攻撃手の一人で、こんなに大人しそうなのに危険な前衛を張るのか、と驚いたのを覚えている。年齢以上に大人びた雰囲気で、でも、ほんのり丸みを帯びた頬のラインが幼く可愛らしい、おれの大切なチームメイトで、先輩で、弟分。そんな存在が辻新之助だった。それが少しずつ変化していったのは、おそらく高校進学後。学校でも顔を合わすようになって、はたと気がついた。おれは多分、辻ちゃんに好かれている、と。もちろん、彼はおれに限らず誰にでも丁寧に接する子で無闇に人を嫌ったりしないから、元々好かれていたのだと思う。でも、そういうのとは違う、どちらかと言うと恋慕に近い感情でおれを見ていた。勘違いだとか、自惚れ、自意識過剰。何度もそう思って考え直したけれど、おれは人の好意を察するのが得意なほうだったから、多分これは間違っていない。犬飼先輩、とおれを呼ぶその声が、おれを見る黒い瞳が、どうにも甘くおれに届くのだ。
「犬飼先輩、おはようございます」
ほら、今日もその顔をする。もうお昼でおはようと挨拶する時間ではないけれど、食堂近くの廊下で鉢合わせた辻ちゃんは律儀におれにそう挨拶し、やわらかく目尻を下げた。ほら、それ。クールだとかポーカーフェイスだとか言われがちな辻ちゃんがふにゃりと笑った。辻ちゃんだって笑わないわけではないから珍しいとまでは言えないけれど、それでもおれは、片桐や奈良坂相手にこんな風に笑っている辻ちゃんは見たことがない。辻ちゃんに一番懐いていて、辻ちゃん自身も可愛がっている後輩の日佐人くんにだってこんな風には笑わない。辻ちゃんの黒く涼やかな瞳が紫色の熱を灯して光っていた。
「おはよ、辻ちゃん」
今までおれに好意を寄せてくれていた女の子達もそうだった。好意で瞳孔が開き、光を多く反射する。それが、辻ちゃんにも起こっている。ただ挨拶だけ交わして別れる時もあったし、その後話し込むことも、なんなら一緒に昼食をとることだってあったけれど、いつだって辻ちゃんの黒い瞳は鮮やかな紫に輝いて見えた。可愛いな、と思った。辻ちゃんは上手く接することが出来ないだけで女の子が好きなストレートだし、だからこそ同性が好きなんじゃないかって周りに言われる度に隠しもせず怒りを顔に乗せていたくらいだもの、おれを好きになるなんて到底あり得ない話だ。でも、それでも、無自覚なのかおれを見る目はいつだってとろりと甘い熱を帯びていた。辻ちゃんは初恋も気になる子もいないって言うし、多分勘違いしてるんだと思う。優しくされて、これは辻ちゃんにだけだよ、なんて特別扱いされて、それで、おれに絆されてしまったのか。だとしたら、なんて可愛くて、可哀想な辻ちゃん。おれは普通に辻ちゃんのことが好きだし、初めて出来た弟みたいな存在だし、大切にしたい。辻ちゃんが本当に好きな子が見つかるまで、良い先輩でありたい。そう思って過ごしていた。でも。でもね。
「犬飼先輩」
「今日はよく会いますね」
「ふふっ。俺、先輩に此処で会う日は、ついてる日だなって思ってるんです」
「本当です。最近気づいたんですけど、俺、先輩に会えないかなって期待してるんです」
「え? 理由? そうですね、……それは」
犬飼先輩に会えると嬉しいですから。
恥ずかしそうに眉を下げて。はっきり言葉にしたくせに言い終わってから思い出したように染まる頬。今年の一年はレベルが高いと、中等部の頃から圧倒的な人気を得ていた奈良坂と並んで名前が上がる辻ちゃん。奈良坂が洋風な美人だとしたら、辻ちゃんは和風美人。クールなイケメンだって、清涼感が凄い、だなんて言われてるのに、笑えば可愛いし、照れた顔は庇護欲や無いはずの母性すらくすぐる破壊力。それで、おれに会えると嬉しい、って、それはさすがにえぐいって。こっちまで照れるし、その感情に引っ張られてしまいそうだ。それに、辻ちゃんがそういう顔をするのはやっぱりおれにだけみたいで、スン、と澄ました綺麗な顔は今も崩れることなく後輩攻撃手達に向けられている。辻せんぱーい、なんて名前を呼ばれて腕を引っ張られても何の感情も浮かばないその顔が、なんだか最近はおれに妙な優越感を与えている。あの辻ちゃんが好きなのは、おれ。そう思うと経験したことのない甘くて強い熱が体をちりちりと焼いていく。しまったな、これは、まずいことになった。そう気づいた時にはもう遅い。おれは多分、辻新之助に好かれている。そして、おれ、犬飼澄晴も辻新之助に惹かれてしまっている。こんなはずじゃなかったのに。勘違いしちゃって可哀想、なんて思っていたのに。用事なんて無いくせに、後輩に腕を引かれる辻ちゃんの背中に抱きついて引き止めるおれは、もう元には戻れない。
「ダメだよ、辻ちゃんは渡さない」
驚いたようにおれを振り返る辻ちゃんの瞳はやっぱりとろりとした紫色。でも、おれ、今辻ちゃんを抱いてようやくわかってしまった。辻ちゃんが先だったわけじゃないって。これは、情けない。おれが辻ちゃんの淡い気持ちに期待してどんどん熱を上げるから、だから辻ちゃんの瞳はおれを受けて溶けて光って見えたんだ。なぁんだ、全部、おれのせい。だったら、もう引く必要ないわけだ。
「辻ちゃんは、おれのパートナーだよ」
冗談のように言って笑うことは出来るのに、ほんと、だっさいな。目は隠せない。無自覚なのは、おれのほう。