舞台俳優犬辻1
約二週間、全十六公演最後となる大千穐楽を迎え、メイクを落として着替えも済ますと、気持ちはもうすっかり次の舞台に向いていた。重複する舞台スケジュール、どれ一つとして疎かにしたつもりはないけれど、それでもおれは次の舞台に賭けていた。
おれが舞台俳優の世界に足を踏み入れたのは三年前。幼い時から姉達を真似て雑誌モデルやちょっとしたエキストラとして撮影に参加させてもらっていたけれど、当時アイドル界の異端児として活動していた二宮さんを見て、嗚呼、おれもあのキラキラした世界で輝きたい、とアイドルを目指すようになった。二宮さんの所属する事務所の訓練生として少しずつ成果を上げていっていたある日、転機が訪れた。二宮さんがある番組のオーディション番組の審査員として参加することになった。それは、日プ、と呼ばれる国民プロデューサーによる投票でメンバーが決まるアイドルオーディション番組だ。事務所関係なく現役アイドル代表として二宮さんや、ライバル事務所所属のグループのリーダーも審査員として参加する、かなり大がかりなイベントだった。おれは正直、まずは事務所の直接の後輩にあたるおれ達訓練生から見てほしかった、なんて思っていたけれど、オーディション参加者の一人を見て考えを改めることになった。一目見てわかった。推し、だ。推しが出来た。彼しか目に入らない。イケメンなんてこの業界にいればいくらでも見るし、おれだってその自覚があるからこうしてアイドルなんて目指してるわけだけれど、それでも、これは、顔が良い、と思った。まだ成長途中だってわかる薄い体は幼いけれど、それでも細身の長身、長い手脚、小さな顔、少し吊り目気味の涼しげな目は時に妙な色気を生んだ。他の応募者のように自信に満ち溢れているわけでも愛嬌があるわけでもないけれど、それでも淡々と、いつか二宮さんと並んでお仕事がしたい、と語る彼の黒目は鮮やかな紫色に輝いていた。書類審査はもちろん、二次審査、三次審査と危なげなく合格していった推しは、次のグループ課題でおれを完全に沼に落としていった。自分の合否がかかっている場面でも躓く候補者を懸命にサポートしグループの底上げに貢献し、メインのカメラには映らないところで自分の課題に静かに取り組み、そして、アイドルとしては致命的な表情の薄い顔をやわらかにゆるめてグループの成功を喜んでいた。顔が良くて、優しくて、サポート上手。それでいて控えめな性格に似合わず大胆なアクロバットが得意だという意外性。グループのセンター、顔には厳しいかもしれないけれど、彼みたいなメンバーがいればなんと心強いだろう。二宮さん、ねぇ、二宮さん、彼、最高ですよ、選んで、二宮さん、おれ、彼を推します。でも、おれがグループのセンターには厳しいと感じたことは審査員も同じだったようで、あんなに懸命にグループに尽くしてきた彼は四次審査でとうとう不合格となってしまった。合格者の名前に自分の名前が無いとわかっても彼は合格者を讃えて、小さく笑っていた。おれは自分の部屋で見ていたから良かったけれど、ぼろぼろ流れる涙もぐずぐず落ちてくる鼻もアイドル訓練生らしからぬ汚さで、とにかく、嗚呼、推しの悲しみが自分のことのように悲しかった。ぶーぶー鼻をかみながら配信を見続けると、審査員からのコメントとして二宮さんがマイクを持った。
「お前には才能がある。勝ち上がってこい、舞台で待ってる」
おれの推しに向かって真っ直ぐ放たれた二宮さんの言葉は推しの真っ黒に沈んだ冷たい瞳に熱を生んだ。ぱっ、と光って、じわりと濡れて輝く紫の瞳。はい! と今までで一番大きな声で答えると、彼は大きな透明な涙をそこで初めて流した。舞台で待ってる。舞台。そう、舞台。二宮さんの最近の主戦場。きっと推しはそこに必ず来る。じゃあおれがやるべきことは一つだ。おれも舞台を目指す。
それが三年前の話。周囲の反対を振り切っておれは舞台俳優としての道を歩み始めた。彼はきっと来る。二宮さんと彼と三人で共演だってきっと出来る。そう信じて、おれはこの厳しい世界で生きてきた。そして、次の舞台、とうとう彼と直接会うことが出来る。本当に彼はこの世界にやって来た。
「犬飼先輩、初めまして。辻新之助です」
あの日、画面越しに一目惚れした彼は、辻新之助は、遅れて稽古入りしたおれに丁寧に挨拶しにきてくれた。相変わらず綺麗で整った美人顔。番組では一七五センチって言ってたけど、おれより大きくなってんじゃん。さすが成長期。それに、本物のほうが、嗚呼、もっと綺麗だ。
「初めまして。これからよろしくね。……辻ちゃん」
おれはこの舞台に賭けている。最推しの辻新之助と最高の舞台を作り上げて、評価を上げて、それで、ねぇ、もうちょっと欲張っても良い?
「おれね、辻ちゃんと共演出来るの楽しみにしてたんだ。このメンバーの中で刀の演技が一番上手いの、辻ちゃんだと思ってる。おれ、いっぱい練習するから、だから、辻ちゃん、おれに指導してくれませんか?」
「……ふふっ。……はい、……俺で良ければ喜んで」
たくさん笑ってほしい。まだ世間に知られてない顔をおれにたくさん見せてほしい。おれの推し。最愛。辻新之助。一緒にキラキラした世界で輝こう。
2
おれの推し、辻新之助はオーディション番組で見た印象以上に真面目で、可能性を秘めた男の子だった。
最初の約束通り、少し躊躇いながらではあるけれど、辻ちゃんはおれに刀の扱い方を教えてくれた。あのオーディション後、辻ちゃんはダンスだけでなく殺陣の稽古も相当積んできたらしく、俳優歴はまだまだ一年にも満たないというのに、その腕前はおれ達に指導してくれる先生を唸らせるほどだ。今回の舞台は時代劇ではないから着物は着ないけれど、辻ちゃんはきちんと基礎を身につける為に本来の姿である和装で稽古を積んできたらしい。だから、今おれ達が着ているジャージやスニーカーとは勝手が違うから、本来の動きとは異なるんですが、と前置きをした上でおれに殺陣を教えてくれた。足捌き。距離感。そもそも刀の持ち方からしてなっていないおれとは違って、辻ちゃんのそれは軽やかなのに力強さもある。剣舞ってこういう感じなんだろうな、と一瞬本気で見惚れてしまう辻ちゃんの動きにおれは役者としても魅せられてしまった。すごい。すごいや、辻ちゃん。さすがおれの推し。そう思っていたのに、辻ちゃん、打ち込みは体全体に力を乗せてこういう感じに、なんて涼やかな顔でおれの待つ木刀に見本を打ち込むと、バキッ、ってとんでもない音を立てて木刀を折ってしまった。しっかり握っていたはずのおれの木刀は一瞬で弾かれ飛んでいってしまったし、ビリビリとした手の痛みと衝撃、そしてそう簡単には折れないはずの木刀の無惨な姿。え、なに。嘘。折れた? おれが驚きで上手く声を出せずにいると、辻ちゃん、何でもないような顔でこう言ったんだ。
「……全力でやれば、……木刀も、……折れます」
「いやいや、折れないよね?」
真面目で、努力家な辻ちゃん。感情の薄い顔はこんな時でもポーカーフェイスを保っているけれど、そっと口元に寄せられた左手の下。お前、今絶対、やべっ、って顔してるだろ。初めて見る辻ちゃんの姿に、おれはそんな場合じゃないのに笑ってしまった。二人で一緒にスタッフさんに謝りに行ったけれど、後にも先にもあんなに怒られてる辻ちゃんは見たことがない。それが、ねぇ、おれ、辻ちゃんには悪いけど本当に嬉しかったんだよ。おれのSNSに載せた辻ちゃんとのツーショット。折れた木刀を申し訳なさそうに握る辻ちゃんとニヤケ顔を隠しきれないおれ、っていうなんとも不思議な写真。
「こんなに良い子で綺麗な辻ちゃん、実は木刀折っちゃうくらいのパワー剣士! おれの師匠してくれてます! 格好良いよ♡ 辻ちゃん♡」
ただの推しから、同じ世界で切磋琢磨する仲間にもなった辻ちゃん。世間より先に、おれにたくさん色々な顔を見せてくれる辻ちゃん。もっともっと魅せられていく。夢中になっていく。おれも辻ちゃんを同じように魅せられるように頑張らなきゃ。
3
そこまで狭い劇場ではないけれど、それでも通常よりも低めに設定されているステージは観劇するには困難な造りになっていた。出演が決まってから真っ先に確認した会場に、おそらく二階席、特に後ろの席の人には厳しいだろうな、という感想を抱いた。だからこそ、放っておけないとも思った。客降りの多さから運営側もそこを何とかしようとしているのを感じて、じゃあ、おれがちゃんと仕事しないとね、と自分の役割を理解した。
ファンの子はみんなおれのことを、ファンサが神、なんて大袈裟に褒めてくれる。これでも二宮さんの事務所で訓練生してきたんだ、それなら任せてよ。どんなに広いコンサート会場でだって、おれの名前を見つけたら真っ先にアピールしにいく。その子が自分にされてるって気づいてくれるまでずっと。だから、こんな、少し動いただけで触れてしまえる距離、なんてことない。いくらでも笑顔にするよ。二階席の最前列におれは立って、おれの担当色のペンライトを振ってくれている子や、半分だけのハートを作っておれにアピールしてきてくれる子に笑顔で手を振って、重なるようにハートを作り返していく。メッセージボードに、ウインクして、なんて書かれていれば、ぱちり、とゆっくりした上で投げキスまで飛ばす。時間いっぱいファンの子に応えて、もう捌けなきゃってタイミング。ちょうどおれの立った位置に座っていて、逆に足元になって応えることの出来なかったおれのペンライトを持った女の子。彼女に腰を屈めて視線を合わせて、人差し指と親指で小さなハートを作って、ゆっくりと片目を閉じた。そして、ありがとう、と伝えれば、彼女も隣の子達も真っ赤になって泣きそうな顔でおれを見ていた。本当は笑ってほしいんだけどな。でも、喜んでもらえて良かった。おれはもう一度全体に向けて手を振って、ステージまでの道を走った。一番大切なのは舞台の質だけれど、おれは客降りの時のファンサも同じくらい重要だと思っている。演者と観客という一方通行な関係が唯一交わる瞬間だからだ。スミくんのファンサは神。大袈裟にも思えるその表現が、おれの最大の武器だ。でも、逆に客降りの時のファンサが苦手な俳優もいる。例えばほら、辻新之助。顔も良くて、スタイルも良くて、殺陣もダンスも上手い、クールなイケメン役なら辻新之助ってくらい舞台ファンの間では定着してきているのに、ふふっ、ほぉんと、不思議なくらい客降りするとぽんこつになっちゃう辻ちゃん、おれ、すごく好きなんだ。元々はアイドル目指してたっていうのに、実は女の子が苦手なんだって。こんな、女の子相手の仕事してるっていうのにだ。恥ずかしくなって、どうしたら良いのかわからなくなるんだって。なにそれ、可愛い。でも、ファン食いまくってる勘違い俳優より何倍もそのほうが良い。だって、可愛い顔して、ってメッセージボードに真剣に悩んで、グリーンのカラーコンシーラーを仕込んでるはずなのに真っ赤になった顔で、たどたどしくハート作って、これで良い? と言わんばかりに上目で小さな頭傾げちゃうの、最高すぎるじゃん。二部公演の後半、今もお客さんの希望にほとんど応えられず消化不良起こしてる辻ちゃんがいて、おれはなんだか愛しくてたまらない。少し出来の悪い弟を可愛がる兄の気分だ。おれは、ヒールのある靴を履いておれよりも十センチ近く身長差が出来てしまった辻ちゃんの腰を抱いて引き寄せると、辻ちゃんが応えられなかったボードに勝手にウインクを飛ばして、女の子達に半分のハートを返していった。辻ちゃんはそんなおれを見ていて、ちらりと見上げると本当なら格好良い顔を困ったように幼くふにゃっと歪めていたから、おれはたまらずに抱き寄せて濃い紫色のウィッグを崩れない程度に撫で回してしまった。可愛い。可愛いなぁ、辻ちゃん。こんなに格好良くて美人で、ハッとする程凛とした空気を出せるのに、本質はこんなに純粋で可愛いんだ。直接のファンサが無くたって、このギャップが見られるだけで最高のご褒美だ。辻ちゃんは終劇後に、情けないです、と落ち込んでいたけれど、そんな姿すらおれには愛しく見える。これはおれの勝手な考えだけど、たぶん辻ちゃんはまだ自分の魅力がわかっていないんだ。全然落ち込むことなんてないし、誰も辻ちゃんの客降りの態度を咎めたりしていない。というか、辻ちゃん、おれと一歳しか違わないくせにSNSとか全然見てないからなぁ。エゴサすれば、今日も辻くんギャップが可愛かった、ってたくさん出てくるのに。ちょっともったいない。そう、もったいないと言えば。
「辻ちゃん、ウインク出来るんだし、それくらいなら応えられるんじゃない?」
辻ちゃんのSNSにあがっている写真は、辻ちゃんの事務所の敏腕マネージャーが更新が滞りがちな辻ちゃんに変わって撮ってくれているものか、共演者と一緒に撮ったものばかりだ。そのどれもがスンと澄ましたいつもの人形のような綺麗な顔か、うっすらと微笑んでいるものばかりだけれど、過去に一枚だけウインクしている写真があった。デフォルトがキメ顔みたいなものだからかあまり気合いの入った写真を撮らない辻ちゃんが唯一バッキバキにきめて撮った写真。高そうな黒のスリーピーススーツを着て、長い腕を手前側の壁に突いて、やわらかな顔で微笑んで、右目をそっと閉じている。アシンメトリーな前髪とちょうど重なったそれは、あまりにも貴重な辻ちゃんのウインクだ。おれは内心緊張しながら話を振ったっていうのに、辻ちゃんは、あぁ、それは、と歯切れ悪く答える。
「出来ますけど、……でも、……俺がウインクしたところで、……需要あります?」
ほら、これだ。はぁ、やだやだ。あるに決まってるじゃん。
「なるほど? よし、じゃあ、新人の辻新之助くんは先輩のおれに従ってくださーい」
舞台メイク、衣装のまま、おれは辻ちゃんの肩を抱き寄せて頬をくっつける。共演者の一人にスマホを任せて、おれは辻ちゃんに腕を前に伸ばして右手でハートを作るよう指示を出した。おれも同じように腕を伸ばして左手でハートを作る。出来上がったハートの中にお互いの顔が映るように調整してもらって、それで、ほら、辻ちゃん、今だよ。何枚か撮ってもらった写真を確認すると、おれの思惑通りハートの中におれと辻ちゃんのキメ顔が写っていた。おれは珍しくないことだけれど、辻ちゃんの滅多にしないウインクはあまりに刺激が強い。おれは辻ちゃんに許可を取った上で自分のSNSにそれをアップした。
「今日も楽しかったね♡ みんなありがとう♡ 今日はおれの大好きな辻ちゃんと」
若手の中では比較的フォロワー数の多いおれの投稿はあっという間にたくさんの反応をもらって、もしかしたら過去一なんじゃないのってくらいにインプレッションが増えていった。熱心にリプをくれるファンの子はみんな辻ちゃんのことに触れていて、ねぇ、ほら、辻ちゃんのウインクが需要ないわけないんだってば。それでも辻ちゃんは、そうですか? なんて渋っていたけれど、次の客降りでとうとうウインクを解禁した辻ちゃんに、二階席が大きな悲鳴に包まれることになることを辻ちゃんだけが知らずにいた。