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    38sgmj

    @38sgmj

    38(さや)と申します。
    えっちなやつや犬辻以外のものを載せています。
    大変申し訳ありませんが、基本的に読み手への配慮はしておりません。
    また、無いとは思いますが…。未成年の方の年齢制限話の閲覧や、転載、印刷しての保存等はおやめください。信じてます…。

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    38sgmj

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    雰囲気妖怪パロな笹→辻
    死人(モブ)が出ます。辻ちゃんははっきりと名前は出てきません。雰囲気です、雰囲気。

    ちょっと不穏な笹→辻 オレはあの日出会った人を、思い出せないくせに必死に探している。

     友人の誘いで入部した山岳部は思いの外楽しめていて、あっという間に迎えた夏休み前最後の登校日には必要書類の提出も済み、初心者向けの山とはいえ、とうとう初めての縦走の旅に出ることになった。大きなザックに地図や計画書、コンパスにヘッドライト、食料や寝袋等、必要な物を入れて、オレは緊張と同じくらい興奮していた。天気予報だって暗記出来るくらい確認していたし、初心者だからこそ万全な状態で臨めるよう努めていた。つもりだった。
     状況が一転したのは、一日目の予定の半分にも満たない距離を登ってからだった。予報にも、目視出来る限りの空からも予想出来ない雨が降ってきたのだ。山の天気は変わりやすいとは言うけれど、まさか雲すら沸かずに此処まで急変するなんて。そんな風に思いながら引率、顧問、両名の先生からの指示に従いオレ達部員三人は速やかに雨具を着ることになった。雨は降り始めたけれど、やはり空には雨雲は見受けられず、また、勢いも弱く小降りだ。おそらく直ぐに止むだろう、そう全員が考え、だからこそ一人の反対も無く計画書通り山小屋までの道を進むことになった。今思えば、この時に引き返していたならばこんな結末にはならなかっただろうに。しとしと降っていた雨はオレ達の予想を裏切って次第に雨粒を大きくしていって、時折氷の粒まで混ざるようになった。まるで行く先を拒むかのような雨は風まで纏って圧倒的な理不尽さでオレ達を苦しめた。雲なんて一つも無かったのに、今では空は真っ黒で分厚いそれで覆われてしまっていた。真っ白な雨は視界を遮り、足元をぐずぐずに溶かしていく。こんな状況になってようやくオレは己の身の危険に気づいて震え上がった。この山は初心者向けだと聞いていたし、どのガイドブックにもネットで検索した記事にも同じようにそう書いてあったというのに、そんなのまるで嘘かのような険しく危険と隣り合わせの道は余計にオレを焦らせる。どうしてこんなに足元が不安定なんだ。雨で滑る。それに、体が重い。帰りたい。帰りたいよ。オレは一番経験の無い素人だったから、列の真ん中を歩いていた。先頭はこの山に詳しい引率の先生。もう先生の背中すら雨で見えないけれど、せめてオレの前を歩く友人の背中だけは見失わないようにしなければ。そう思った矢先の話だ。ガシャン、と石の崩れる音がした瞬間、先頭を歩く引率の先生の叫び声が響き渡った。
    「来るな! 近寄るな! どうして犬が此処にいるんだ! 俺は何もしてない! やめろ! どうして! 来るな!」
     オレからは先生の姿は見えなかったけれど、前を行く友人が足を止めたせいで彼が、犬がいる、と呟くのが聞こえてきた。犬。こんな山に? 狼ではなく? なんにせよ恐ろしいことが起きていることだけはわかった。なおも先生の悲鳴にも似た叫び声は続いていて、ガラガラ、ザッ、ザッ、石を蹴る音が大きく響くと、オレの耳にも獣の唸り声と骨を砕く音がはっきりと聞こえ、先生の断末魔が耳を塞いでも鼓膜を震わせ涙が溢れた。どうしよう。野犬か狼か。近くにいる。先生が襲われた。どうしよう。先生! オレは最後尾を歩いていた顧問の先生を振り返った。でも、嗚呼、どうなっているんだ。さっきまで不明瞭だった先生の姿が今度はやけにはっきりと目視出来た。先生はこんな土砂降りの雨に打たれているというのに、熱い、熱い、と気が触れたかのように腕を交互に払っていた。なんだ。なんなんだ。あっという間に先生の腕からは雨風に負けない灰色の煙が上がって、そして、一瞬で火に包まれた。青い炎。先生の金切り声と、オレ達の錯乱した悲鳴は山々にこだましてぐるぐるとオレ達を包み込んだ。生きては帰さない。そんな山の意思を感じた。先生の両方の眼窩からいよいよ青い炎が噴き出したのを見て、友人は、日佐人逃げろ、と叫んだ。オレはそれに弾かれるように前も後ろも右も左もわからずひたすらに走った。ガシャガシャと石を蹴って、滑って、転んで、起き上がって、走って、涙と雨で何も見えない。でも、こんな凄惨な中でも、転んで這いつくばった地面で雨に打たれる鳥を見つけて、オレは堪らず叫んだ。
    「逃げて。お願い、もう誰も死なないで」
     正常な判断などとうに出来なくなっていたオレは、中学からの同級生に誕生日に貰った帽子をずぶ濡れの山鳩に被せて、そして走った。キャップの鍔で多少確保出来ていた視界は、今はもう失い最悪だ。直接入り込む雨の温度すらわからず、ただ走って、遠くに黒い鳥居を認めた瞬間、滑って落ちた。
    「わっ! あっ!」
     ガサガサと細い枝を折って、広がる葉を引きちぎって、ぬるりと湿気た苔を滑って、地面を抉って、ようやっと止まった時にはガサッ、と黄色い花の中にいた。真っ直ぐに伸びた背の高い茎に鮮やかな黄色い小さな花をたっぷりと咲かせたそれは、勢いをつけてぶつかってきたオレを受けても一切折れることなく凛と咲き続けていた。助けられた、と思った。長い距離を滑落したようにも思えたけれど、奇跡的にも軽い擦り傷や打撲で済んだオレはよろりと立ち上がり、いつの間にやら雨も止み、辺りがしっとりとした地面に色鮮やかな草花を咲かせていることに気がついた。本当にさっきまでが異常過ぎただけで、本来はこんな風に穏やかで鮮やかな山なのかもしれない。オレだけがびしょびしょに濡れていて、助けてくれた背の高い黄色い花にポタポタと雨の余韻が落ちて申し訳ない。先生達も、パニックになったオレが見た幻覚なのかもしれない。そう思える程、この場所は穏やかだった。もしオレだけが皆からはぐれてしまったのであれば、早く戻らなくては。でも、此処は一体。それに、落ちた衝撃のせいか、背中にずしりと背負っていた大きな荷物はすべて無くなってしまっていた。どこで落としたんだろう。あの中には地図だってコンパスだって、携帯だって入っていたのに。戻る術を失ってしまったオレは一瞬で途方に暮れて、でも、諦めきれずにもう一度だけ辺りを見回した。黄色い花。女郎花、だろうか。美人すら圧倒する花。それに、白くて可愛らしい鈴蘭。白兎の耳を星型につけたハコベ。大切な花粉を守るために俯くシクラメン。そして、五枚の花弁が特徴の野薔薇。すべて図鑑で見て知っている草花。それらがお互いを引き立てあいながら見事に咲き誇っている。季節のばらばらなそれらが何故ここでは時を同じくして開花するのかオレにはわからないけれど、でも、嗚呼、ここは彼らの楽園なのだと思った。
    「……荒らしてしまってごめんなさい。……皆の所に帰りたいんです。……少し、歩かせてください」
     花に話しかけるなんて、よっぽどオレは憔悴しているのだろうか。それでも、それが当然のことだと思える空気が此処にはあって、おそらくこれがオレの運命を変えたんだろう。のろのろと可憐な草花を極力避けながら足を進めると、遠くに黒い鳥居が二つ連なっているのが見えてきた。あれは、オレが斜面を落ちる直前に見たものだ。あそこまでいけば助かるだろうか。僅かに生まれた希望を持って必死に進むと、まったく気づかなかった、伝統的な日本家屋が一軒。小さい平屋だけれど、祖父の家のそれよりも品があって趣深いそれは木の色こそ古びて見えるけれど、どこも綺麗できちんと手入れされているように感じる。嗚呼、人がいる。オレは夢中で歩いて其処まで向かうと、助かるかもしれないという期待で一杯で、勝手も作法もわからないままに扉を叩き、声を張り上げた。
    「ごめんください、誰かいらっしゃいませんか」
     助かる。助けて。そんな思いで一杯な頭は何の疑いも持たずに扉を叩いて声を上げさせる。でも、ひやり、僅かに残った冷静な心が冷たい風を生んでいく。此処は登山目的の山で、住んでる人はいないのでは? 森林組合の事務所だとか、発電所の施設ならまだ知らず、こんな所に個人宅があるだろうか? 真っ暗な玄関に明かりが灯った瞬間、急に恐ろしくなった。一体この家の主人は何者なのか、と。
    「……はい」
     期待と恐怖と。そのどちらも抱いていた心が、中から出てきた人物を見るや否や真っ白になってしまった。
    「……あ、の、……お、オレ、……あっ、違っ、え、と、……と、突然申し訳ありません、……登山途中で迷って、しまって」
    「……あぁ、……それは大変でしたね。でも、よくご無事で。……どうぞ中へお入りください」
     落ち着いた声でオレを招き入れてくれたのは、驚く程綺麗な顔をした若い男だった。そこまで年は離れていないとは思うけれど、その落ち着き様が、佇まいが、同級生のそれとは明らかに違っていて緊張してしまう。それに、この家に住むのは仙人のような、修行僧のような、兎にも角にも世捨ての高齢男性を想像していたものだから、こんなにも綺麗な青年とわかって動揺が隠せない。全体的に短く揃えてあるけれど、向かって左側の前髪だけ長い艶やかな黒い髪は、おそらく陽の下で見れば真っ白な艶を浮かべることだろう。オレを招く長い腕は健康的な白さで、嗚呼、この人は本当に、人、なんだと安心してしまう。すらりとした体は漆黒の着物を纏っていて、それがまた優美で、色っぽさすら感じられる。早い話、彼の美しさに気圧されてしまったオレは、何か会話を繋げなければと必死に口を開いた。
    「あ、ありがとうございますっ、……あの、す、すみません、実は途中で雨で濡れてしまって、全身びしょびしょで、ほ、本当に申し訳ないんですが、何か一枚、タオルとか、あの、ぞ、雑巾でも良いので! 何か貸していただけないでしょうか!」
     突然押しかけた時点で迷惑をかけているのに、家の中を濡らして余計に面倒事を増やすわけにはいかないと、回らない頭で何とか彼にお願いすると、黒髪の彼は不思議そうに小さく首を傾げた後、可笑しそうに控えめにころりと笑った。
    「ふふっ。雑巾だなんて、……少々お待ちください、手拭いをお持ちします」
     美人だけれど表情の薄い彼が小さく笑うと、それは年相応で可愛らしくも見える。余計に緊張してしまったオレを知ってか知らずか、彼は、腰掛けてお待ちください、と二段の階段のようになっている場所を撫でて奥の部屋へと消えていってしまった。正式な名前は知らないけれど、祖父の家でも見る造りの玄関だ。たたきにある、この真っ白な石は靴を脱ぐための物だろう。オレはすのこのような物しか見たことが無いけれど、高価な石なんだろうな、と素人目でもすぐにわかった。それに、腰掛けるよう言われた、この板。高い段差は高貴な家にしか無いと聞いたことがある。申し訳無さと罪悪感を感じながら登山用の靴を脱ぐと、そこは案の定ぐしゅりと濡れた感触がして、この家に対してあまりに不相応な自分に恥ずかしくなった。キシ、と軽く床が沈んで軋む音が近づいてくると、黒髪の彼は両手に木製のたらい桶を持って現れた。乾いた手拭いを渡されて、そして、たらいに張った水で濡らしたそれを、彼の長い指がきゅうと絞り、オレの頬にそっと当てがった。
    「……怪我をしてしまったんですね。……すみません、……そうならないように道を繋げたつもりだったのですが」
    「え? あ、えっ、……と、あの、……きちんとした登山は初めてで、……オレが下手で、パニック起こして、それで勝手に作った傷なので」
     近くなった彼の顔に緊張してしまい、途端に真っ赤に染まってしまった顔を情けなく小さく背けると、彼は一歩も引かずにオレの顔をやさしく拭って、反対の指でそっと撫でた。
    「……この山は初めてですか?」
    「はい。オレは初めてです。……でも、一緒に登った先生や友達は何度か登っているみたいです。……オレだけが素人で、……皆、無事だと良いんですが」
    「……そうでしたか。……お疲れでしょう、何もありませんがゆっくり休んでいってください」
     彼は一頻りオレの濡れた体を整えると、小さくそっと微笑んだ。そして、立ち上がろうとしている気配を感じて、オレは慌てて口を開いた。
    「あの、よ、よろしくお願いします、オレ、名前、笹も、んっ⁉︎」
     名乗ろうと思った。失礼なことにオレは自分の名前も学校名も告げていなかったから。でも、彼はオレの唇を細っそりと長い人差し指で止めると、駄目だよ、と言った。
    「御名前は頂きません」
     どうして、だとか、なんで、だとか思うことはたくさんあったけれど、彼の指がそっと離れると、オレは思わず口走っていた。
    「下の名前だけなら良いですか?」
    「……半分でも、縛りが生じますよ」
    「縛り? ……それが何かわからないけど、……でも、オレ、貴方に名前を呼んでもらいたいです。……日佐人です。日佐人って呼んでください」
     理由はわからない。でも、駄目だと言われたのに勝手に名乗ったオレを、彼は怒るでも咎めるでもなく、ただ困ったように、悪い子だね、と笑った。
    「悪い子だね、日佐人くん」
     それが、震える程嬉しかった。

     結局、黒髪の彼が名乗ることは無かった。でも、年上ということだけはわかったから、せめてと先輩と呼ばせてもらうことにした。先輩は、そう呼ぶ度に擽ったそうに目尻を下げて、嗚呼、やっぱり、綺麗だけれど可愛い人だと思った。そして、ひとつひとつの所作がしっとりと色っぽいとも思った。オレの冷えた体を風呂で温める前に、いきなりでは体が驚いてしまうでしょう、と膝を合わせた状態で手を繋いできた。その手が意外な程熱くて、嗚呼、この人は本当に人間で、オレは運良く彼に助けてもらえたんだ、と、今になって生きている喜びに涙が止まらなくなってしまった。先輩はそんなオレをやさしく胸元に抱き寄せると、もう怖くないよ、とオレの髪や背中を何度も何度も撫でてくれた。それが嬉しくて、温かくて、でも、変に意識してしまって胸が落ち着かない。
    「日佐人くんは、きっと帰れるよ。君はやさしい人間だからね。……だから、……ね? 今は怖くて涙が出てしまうだろうけど、大丈夫。しっかり寝て、目を覚ませばきっと家に帰れる。ね? 大丈夫だよ、日佐人くん」
     大丈夫。日佐人くん。しっとりと、やわらかな声で何度もそう言ってはオレをやさしく撫でる先輩は、さながら母のようで、でも、その手は、頬に当たる胸は、しっかりと男の体をしていて、じくじくとオレの胸の奥を焼いていく。名前すら知らないこの人を、オレは驚く程素直に信じていた。風呂を借りて、此処にはお客さんは来ないからと先輩の布団を貸してもらうことになって、余計に胸を焼いて焦がしていく。彼は、一体。
    「……先輩、やっぱり悪いです。先輩の布団をオレが使ってしまったら、先輩は何処で寝るんですか?」
     寝巻きの白い着物も先輩の物。彼は手脚が長いからオレが袖を通すと引き摺ってしまうけれど。でも、薄手なのに寒さを感じさせない上等なそれは、似合うとか似合わないとかは別として山の夜にはぴったりだった。あとは彼の言うように寝て体を休めれば下山も可能かと思われた。でも、予定外に此処を訪ねたオレのせいで、先輩の布団が足りなくなってしまった。
    「一晩くらい大丈夫だよ。気にしないで」
    「気にします、……オレは、……これ以上先輩に迷惑かけたくないんです」
     何をやっても迷惑になることはわかっていた。命の恩人で、妙な胸騒ぎを連れてくるこの人に、オレはこの短時間のうちにどうしようもない程の恋慕を募らせていた。だからこそ余計に困らせたくないのに。煩わせたくないのに。それなのに、オレは此処にいるだけで迷惑をかけてばかりだ。己の不甲斐無さと申し訳無さに項垂れていると、遠くから野犬の遠吠えが聞こえてきた。夢か現か、先生を襲った犬。それが此処にも来るかもしれない。だったら、やっぱりオレが起きて火を焚べていたほうが良いじゃないか。そう思ったのに。
    「……今日は外が騒がしいね。……じゃあ、日佐人くん。一緒に寝ても良い?」
    「え?」
    「同衾、……ん、ちょっと違うか。……添い寝、……しても良い?」
    「え、あ、えっ、……も、もちろん、……良い、ですけど」
    「ふふっ、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて。……失礼します」
     表情を変えることなく聞いてきたというのに、いざオレの横に体を横たえる時になれば恥ずかしそうに小さく目尻を下げてくるんだもの。その落差に胸が弾けてしまいそうだ。長い脚がそっとオレの横に並んで、ころりと肘を抜いて肩を下ろすと、はらりと彼の綺麗な黒髪が目の前で揺れた。まるで夜が落ちてきたみたいだ。
    「……明日はきっと晴れるよ。何処まで帰るの?」
    「……家は三門です。なので、一番は三門側の登山口に戻ることなんですが、……せめて人目につきやすい所まで出られれば、と思ってます」
    「……そう。……三門。……ねぇ、日佐人くん」
    「はい」
    「日佐人くんは、黒い鳥居が見えたって言ってたけど、……神社に縁があったりするの?」
     なんだろう。先輩の体温のせいか、それとも彼の落ち着いた声のせいか。急に眠くなってきてしまった。あんなに緊張して、興奮までしていたというのに、頭がふわふわする。
    「……神社、……あぁ、……お世話になっている人が神社の方で」
    「うん」
    「……名前、……ゎ、さん、……常盤の袴で」
    「……そう。……ありがとう、もう良いよ。……ゆっくりお休み」
     横向きに向かい合っていたのに、今は先輩の長い腕に包まれている感覚がする。細いけれどしっかりと硬いそれ。でも、額や頬が当たる彼の胸は薄くて、嗚呼。
    「……せん、……ぱぃ、……いぃ、……におい」
     甘い花の香りがしたんだ。

     目が覚めると寝る前に彼が言っていた通りに見渡す限り青空が続いていて、帰るなら今しかないと、そう思った。先輩はオレが目覚める前に既に起きていたようで、昨日も見た黒い着流しに着替えていた。黒い髪に、黒い着物。やっぱり綺麗としか言いようのない先輩は、やさしく微笑んでオレを見送ってくれた。真っ直ぐ進んで。細っそりと長い指で指差してくれた方向は明るくて、これならオレでも歩けそうだ。
    「本当にありがとうございました。……先輩、……無事に帰れたら、ですけど、……あの、オレ、御礼がしたくて。……此処にはずっと住んでいらっしゃるんですか?」
     また会いたいと、素直に伝えることは出来なかった。だから、その代わりに御礼がしたいのだと申し出れば、先輩は少しだけ困ったように眉を下げて、そっと静かにオレに言った。
    「……ずっといるよ。道が繋がれば、また会えると思う。さぁ、まずは帰らなくっちゃ。……日佐人くん、……名前、教えてくれてありがとう。ちゃんと返すから心配しないで。……元気でね」
     人形のように綺麗な彼がふわりと笑うと、やっぱりオレは胸が苦しくて、きちんとその顔を見ていたいと思うのに、じわりと浮かぶ涙で歪んでしまった。ゆらゆらと揺れる彼は、それでもなお綺麗で、嗚呼、あの花に似ているのだと思った。
    「……はい。先輩も、お元気で」
     ザ、ザ、と進む山道はあまりに穏やかで、昨日のあれはすべておれの幻覚だったのかもしれない。深い緑は長い間続いて、緩やかに上下はすれどオレでも余裕を持って歩けるくらいだ。時計もコンパスも無いから本当に登山口や人目につきやすい場所まで出られるかはわからなかったけれど、彼がそう言ってくれたから。そう、黒髪の、綺麗な彼。さくさく、ふわふわ、ひたすら真っ直ぐ進んで、頭もぼんやりしてきた頃。ぽつんと黒いキャップが落ちているのが見えた。鍔の部分が淡い緑の、オレが友人から貰ったそれに似た帽子。まさか、と駆け寄ると、それの内側にはHSと書かれていた。嗚呼、オレの帽子だ。帰ってきたんだ。オレが皆から逸れてしまったのは山を登り始めてすぐだったから、嗚呼、これなら登山口まで着けるはず。やった、帰ってきた、あの人の言う通りだ。ねぇ、綺麗な貴方。不思議と疲れは無い。でも、並列した二つの鳥居が見えた瞬間、オレはゆっくり膝から崩れて意識を飛ばしてしまった。

    「日佐人! おい、日佐人!」
     段々と近づく大きな声に意識を手繰り寄せられるように、オレの体はじんわりと息を吹き返した。声が聞こえて、瞼がひくりと動いて、指先がじくりと何かを引っ掻いた。重たい目を何とか開くと、白く霞むそこには緑が萌えて、そして、見知った人の顔があった。
    「……すわ、……さん」
    「日佐人! 無事か! 今、救急車を呼んでる。怪我は? 何かわかるか?」
     記憶では諏訪さんはいつも煙草を咥えていたのだけれど、今は必死にオレを呼んでくれて、それは無いみたい。金色と黒の混ざった髪。少し鋭い三白眼。誰だったかヤンキーみたいだ、なんて冗談で言っていたけれど、オレは諏訪さんのこと、格好良いなぁって思ってたんだ。そう、格好良い。
    「……すわさん、……オレ、……オレっ」
     思い出した。
    「……助けてもらったんです、……綺麗な人、……でも、……オレ、……その人のこと、……色すら思い出せない」
     何か特徴的な色があったはずだった。日常でもよく見かける色で、忘れたり分からなくなることなんて無いはずなのに。それでも思い出せなかった。色どころか、声も、容姿も何もかもが朧げで、ただただ、格好良くて、綺麗だったということしかわからない。涙でゆらゆらと歪む視界に諏訪さんの金が揺らめいた。金色。黄色。背の高い、すらっとした。嗚呼。
    「……おみなえし、……オレを助けてくれた、……綺麗な、……先輩」
     その後、諏訪さんが呼んでくれた救急車で病院に運ばれたオレは数日間の入院を経て無事家に帰れることになった。警察や親の話を聞いてようやく知ったことだったけれど、オレは登山を開始してから四日間行方不明になっていたらしい。高校山岳部四名死亡、一名行方不明、初心者向けの山で一体何が。そんな見出しで何度も繰り返されるニュースはセンセーショナルだったようで、知らない大人達が真剣に語り合っていた。確かにあそこは初心者向けの山だった。なだらかで、緩やかで、歩きやすかった。天気だって全員できちんと確認したし、テレビで大人が言うような無茶な計画なんて立てていなかった。雨が降ってきても、空があまりに澄んでいたから大丈夫だって思ったんだ。でも、後から諏訪さんに言われた。あまりに澄んだ晴れた空には気をつけろって。氷が降るぞ、犬が来るぞ、って。先生達はどうやら雷に打たれて焼け死んだんだろうって話だ。野犬に襲われた人もいて、遺体は皆酷い有様だったという。骨だけが残っていて、辛うじて頭と目玉が残っているくらいだったって。肉だけでなく内臓まで食らうだなんて酷い犬だとオレが呟くと、諏訪さんは真面目な顔をしてぽつりと言った。あいつらは肉が好きだからな、と。
    「日佐人。お前を助けた奴は、道を繋ぐ役割をしている。なんでお前だけがあの山から帰れたのかはわからねぇが、あいつがお前を帰そうと道を繋いだことだけは確かだ。……いいか、日佐人。次は無いと思え。アレは比較的温厚で話の通じる奴だが、茎を折れば敗醤、お前の見てきた姿とは全く違うモノになる」
     あの山には近寄るな。今度こそ肉まで食われるぞ。
     そう諏訪さんに念を押されたというのに。オレは、あの日出会った人を、思い出せないくせに必死に探している。親の目を盗んで山に行き、空が澄み渡るのを待っている。
    「……オレの下の名前、……返してください。……先輩」
     初恋の熱に焼かれた舌は恨めしく言葉を紡ぎ、そして、遠くから犬の遠吠えが小さく聞こえた気がした。先輩。綺麗な先輩。道を繋ぐという貴方。喰らってくれて構わない。だからどうか、もう一度だけ。
    「……悪い子だね、……日佐人くん」
     気が遠くなる程の紫電。後ろから伸びてきた青白い腕に、オレは迷うことなく飛び込んだ。
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    38sgmj

    MOURNING去年書いて、いやなんかこれおもんないわ、とボツにした犬辻。でも、人生何が起こるかわかりませんし、おもしろく感じる日も来るかもしれない。ので、こっちに載せて保存しておくことにします。
    辻ちゃんの無自覚な好意を受けての犬飼先輩の話。
    犬辻 おれは多分、辻新之助に好かれている。
     年齢は一歳下で、ボーダー歴では一年近く先輩にあたる辻新之助。二宮先輩に紹介されて初めて知った彼は、なるほど、先輩が好みそうだ、と思うくらい容姿も優れていた。当時としては希少な攻撃手の一人で、こんなに大人しそうなのに危険な前衛を張るのか、と驚いたのを覚えている。年齢以上に大人びた雰囲気で、でも、ほんのり丸みを帯びた頬のラインが幼く可愛らしい、おれの大切なチームメイトで、先輩で、弟分。そんな存在が辻新之助だった。それが少しずつ変化していったのは、おそらく高校進学後。学校でも顔を合わすようになって、はたと気がついた。おれは多分、辻ちゃんに好かれている、と。もちろん、彼はおれに限らず誰にでも丁寧に接する子で無闇に人を嫌ったりしないから、元々好かれていたのだと思う。でも、そういうのとは違う、どちらかと言うと恋慕に近い感情でおれを見ていた。勘違いだとか、自惚れ、自意識過剰。何度もそう思って考え直したけれど、おれは人の好意を察するのが得意なほうだったから、多分これは間違っていない。犬飼先輩、とおれを呼ぶその声が、おれを見る黒い瞳が、どうにも甘くおれに届くのだ。
    2312

    38sgmj

    MOURNING衝動の吐き出しとリハビリを兼ねて
    3/5 追記
    舞台俳優犬辻1
     約二週間、全十六公演最後となる大千穐楽を迎え、メイクを落として着替えも済ますと、気持ちはもうすっかり次の舞台に向いていた。重複する舞台スケジュール、どれ一つとして疎かにしたつもりはないけれど、それでもおれは次の舞台に賭けていた。

     おれが舞台俳優の世界に足を踏み入れたのは三年前。幼い時から姉達を真似て雑誌モデルやちょっとしたエキストラとして撮影に参加させてもらっていたけれど、当時アイドル界の異端児として活動していた二宮さんを見て、嗚呼、おれもあのキラキラした世界で輝きたい、とアイドルを目指すようになった。二宮さんの所属する事務所の訓練生として少しずつ成果を上げていっていたある日、転機が訪れた。二宮さんがある番組のオーディション番組の審査員として参加することになった。それは、日プ、と呼ばれる国民プロデューサーによる投票でメンバーが決まるアイドルオーディション番組だ。事務所関係なく現役アイドル代表として二宮さんや、ライバル事務所所属のグループのリーダーも審査員として参加する、かなり大がかりなイベントだった。おれは正直、まずは事務所の直接の後輩にあたるおれ達訓練生から見てほしかった、なんて思っていたけれど、オーディション参加者の一人を見て考えを改めることになった。一目見てわかった。推し、だ。推しが出来た。彼しか目に入らない。イケメンなんてこの業界にいればいくらでも見るし、おれだってその自覚があるからこうしてアイドルなんて目指してるわけだけれど、それでも、これは、顔が良い、と思った。まだ成長途中だってわかる薄い体は幼いけれど、それでも細身の長身、長い手脚、小さな顔、少し吊り目気味の涼しげな目は時に妙な色気を生んだ。他の応募者のように自信に満ち溢れているわけでも愛嬌があるわけでもないけれど、それでも淡々と、いつか二宮さんと並んでお仕事がしたい、と語る彼の黒目は鮮やかな紫色に輝いていた。書類審査はもちろん、二次審査、三次審査と危なげなく合格していった推しは、次のグループ課題でおれを完全に沼に落としていった。自分の合否がかかっている場面でも躓く候補者を懸命にサポートしグループの底上げに貢献し、メインのカメラには映らないところで自分の課題に静かに取り組み、そして、アイドルとしては致命的な表情の薄い顔をやわらかにゆるめてグループの成功を喜んでいた。顔が良くて、優しくて、サポー
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    38sgmj

    DOODLE雰囲気妖怪パロな笹→辻
    死人(モブ)が出ます。辻ちゃんははっきりと名前は出てきません。雰囲気です、雰囲気。
    ちょっと不穏な笹→辻 オレはあの日出会った人を、思い出せないくせに必死に探している。

     友人の誘いで入部した山岳部は思いの外楽しめていて、あっという間に迎えた夏休み前最後の登校日には必要書類の提出も済み、初心者向けの山とはいえ、とうとう初めての縦走の旅に出ることになった。大きなザックに地図や計画書、コンパスにヘッドライト、食料や寝袋等、必要な物を入れて、オレは緊張と同じくらい興奮していた。天気予報だって暗記出来るくらい確認していたし、初心者だからこそ万全な状態で臨めるよう努めていた。つもりだった。
     状況が一転したのは、一日目の予定の半分にも満たない距離を登ってからだった。予報にも、目視出来る限りの空からも予想出来ない雨が降ってきたのだ。山の天気は変わりやすいとは言うけれど、まさか雲すら沸かずに此処まで急変するなんて。そんな風に思いながら引率、顧問、両名の先生からの指示に従いオレ達部員三人は速やかに雨具を着ることになった。雨は降り始めたけれど、やはり空には雨雲は見受けられず、また、勢いも弱く小降りだ。おそらく直ぐに止むだろう、そう全員が考え、だからこそ一人の反対も無く計画書通り山小屋までの道を進むことになった。今思えば、この時に引き返していたならばこんな結末にはならなかっただろうに。しとしと降っていた雨はオレ達の予想を裏切って次第に雨粒を大きくしていって、時折氷の粒まで混ざるようになった。まるで行く先を拒むかのような雨は風まで纏って圧倒的な理不尽さでオレ達を苦しめた。雲なんて一つも無かったのに、今では空は真っ黒で分厚いそれで覆われてしまっていた。真っ白な雨は視界を遮り、足元をぐずぐずに溶かしていく。こんな状況になってようやくオレは己の身の危険に気づいて震え上がった。この山は初心者向けだと聞いていたし、どのガイドブックにもネットで検索した記事にも同じようにそう書いてあったというのに、そんなのまるで嘘かのような険しく危険と隣り合わせの道は余計にオレを焦らせる。どうしてこんなに足元が不安定なんだ。雨で滑る。それに、体が重い。帰りたい。帰りたいよ。オレは一番経験の無い素人だったから、列の真ん中を歩いていた。先頭はこの山に詳しい引率の先生。もう先生の背中すら雨で見えないけれど、せめてオレの前を歩く友人の背中だけは見失わないようにしなければ。そう思った矢先の話だ。ガシャン、と石の崩れる音がした瞬
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