こいにおちる この世界の性別は二次性徴期に恋をした時点で決まる。
男性に恋をすれば女性になり、女性に恋をすれば男性になる。お互いが無性であればノーカン。そういう世界だった。
さて九井一は小学生の折に乾赤音に恋をして少年になった。初恋は無残と散ったが、問題はそこではない。いま現在の九井を悩ませているのは、幼馴染の乾青宗が女性になったということだ。
先日のことだ。九井は乾に電話で呼び出された。
「ココ、やばいことになった」
時刻は朝八時。バイクショップに勤める乾はぎりぎりまで起床しないため、いつもならばまだベッドの中にいる時間である。朝八時のコールというだけでもおかしいのに、「やばいことになった」である。
もしや殺人でもしてしまったか。ならば抹消するしかないな。ひそやかな覚悟を決めて、ゴム手袋をポケットに忍び込ませ、乾のアパートに駆けつけたところ、出迎えたのは乾ひとりだったので拍子抜けした。
イヌピー、どうした。なにがあった。仕事はどうしたんだ。と問うても、青ざめた顔をした乾はなかなか口を割らない。
さすがの九井も焦れて、詰問口調になったところ、急に乾が腹を抑えて体をくの字にした。
「具合が悪いなら、早く言えよ」
慌てて乾を支える。乾はいっそう青ざめた顔をした。手を握り締めれば、冷たかった。貧血なのか。乾にしては珍しい。
「腹が痛い」と訴えるので、背中をさすってやろうと手を伸ばして、ソファーについた血痕に気がついた。イヌピー、血が。
そこで気づいた。
「イヌピー、もしかして、」
乾は怪我をしていない。ならばこれは……。
九井はごくりとつばを飲みこんだ。
この世界の性別は二次性徴期に恋をした時点で決まる。
男性に恋をすれば女性になり、女性に恋をすれば男性になる。
そのため、性教育は両方が施される。なので、九井は精通と初潮の両方の知識があった。
「イヌピー、トイレに行った?」
乾の答えはない。きっと行ったのだ。けれどなんの処置もしていないだろう。乾には頼るべき家族がいない。だから九井を呼んだのだ。
「えっと、じゃあ、あの、柚葉を呼ぼうか?それともええと、ヒナちゃん?だっけ?花垣の彼女はどうだ?」
どちらも友人とは言い難いが、それでも頼れば来てくれるだろう。けれど乾はどちらにも首を横に振った。そうか。そうだよな。あの子たちに頼れないよな。いや、ここは頼って欲しいところなんだけど。
そんなことを思っている合間に乾の顔はますます蒼白になる。九井は意を決して立ち上がった。
「ちょっと待てってて!すぐ帰って来るから!」
泡を食って現れた九井に対し、コンビニの店員はとても親切に、生理用品と鎮痛剤と下着の売り場を教えてくれた。すぐさまとってかえし、乾に渡す。乾はほとんど泣きそうになっていた。
「使い方わかんねぇ」
そんなこと言われたって、九井にだってわからない。
とうとう乾の瞳から涙がこぼれた。九井だって泣きたかった。こんなとき赤音さんがいてくれたら。きっとイヌピーを支えてくれただろうに。
久しぶりに思いだした初恋の彼女。赤音さんにも恋をした誰かがいたのだろう。
目の前のことに狼狽えていた九井はその時ようやく気付いた。
イヌピーは誰に恋をしたんだ?
九井が見守るなか、乾はのろのろと立ち上がって、トイレに入っていった。ずいぶんと時間はかかったが、どうにかしたのだろう。戻ってきた乾に薬を飲ませて、ベッドに寝かせる。薬が効いたというよりは疲れ切ったのだろう。乾はすぐに眠ってしまった。
昨日までのともだちが女になった、あるいは逆に男になった。思春期ならば、誰にだってあることだ。だが性別はなんとなく予想はつくことでもある。身体のおおきな子供は男になることが多いし、手先の器用な子供は女になることが多い。なんにせよ例外はあるが、おおまかな傾向があった。少年院に入り、黒龍の特攻隊長を務め、いまはバイクショップに勤める乾は男だとばかり思っていた。まさか十八歳にもなってまだ未分化だったなんて。さらに女になるなんて予想外もいいところだった。
さて問題はここからだ。
乾は誰に恋をしたんだろう。
そんなのわかり切っている。今まで未分化だったのが、急に変化したのだ。つまりいま乾の身近にいる人物ということになる。つまり。
「ドラケンか……」
バイクショップの同僚、龍宮寺堅だろう。
たしかにいい男である。長身で、男前で、やさしくて、気配りができるおおらかな男。しかも喧嘩が強く、バイクにも詳しいと来た。
イヌピーはああいうやつが好きだったんだと思うとともに、そりゃ好きになるだろうなとも思う。なにしろ龍宮寺には欠点らしい欠点がない。唯一つけいる隙があるとすれば稼ぎが少ないことだが、おそらく、いやぜったいに、乾はそんなことを気にしない。
それよりも。
それよりもだ。
問題は乾自身だ。
初潮が来ると女性らしくなるものだ。けれどこれはあまりにもあんまりだろう。
もともと乾は整った外見の持ち主ではあった。凛とした雰囲気は近寄りがたく、本来の天然な気質を隠していた。それがどうだ。初潮からおよそ半年。乾は凛とした美貌はそのままに、女性らしい華やかさが加わった。龍宮寺の横に立つとひときわ女性であることが明らかになる。ファッション誌の表紙を飾ってもおかしくない美貌の女性がバイク屋の店頭に立っているのだ。目立つ。すこぶる目立つ。いまのところ、小学生の初恋を奪うところで済んでいるが、このままでは誰かの人生を狂わせかねない。ツナギを着ても、女性らしい丸みってわかるもんなんだな。ていうか、イヌピーちゃんと下着つけてるよね?つけてるよね??つけてるよねぇ????
「ココ、今日も来てくれたのか」
「うん……いろいろと心配で」
「おまえが作ってくれた、エ、エクセル?はうまくいってるぞ」
「うん……よかったよ」
九井が心配なのはD&Dの売り上げではない。いや、気になっていないかと言えば嘘にはなるが、今の問題はそこではない。イヌピー下着問題である。帳簿を確認するという口実のため、パソコンの前に座った九井の真横に乾の胸があるのだが、ちゃんと下着をつけているのか、気になって気になって気になって。
「あっ、そうだ。昨日花垣とヒナちゃんが来て、手作りのお菓子をもらったんだ。ココに持って来てやる。ついでにお茶にしよう」
「ア、ハイ、アリガトウゴザイマス」
いまや関東卍會は解散し、九井はただの大学生だとはいえ、その元幹部とは思えないぎくしゃくとした動きになる。一方の龍宮寺は苦笑いだ。
「まぁ、イヌピーが気になるのは分かるけどよ。昼間はオレもいるから大丈夫だぜ」
「ナンノハナシデスカ」
「変な男が寄りつかないかの話」
「……寄りつきそうなのか」
「まぁ、あの顔じゃ時間の問題だよなぁ。ぶっちゃけ、アパートは引っ越した方がいいと思う」
「だよなぁ」
乾の住んでいるアパートにセキュリティなんてものはない。
「せめてマンションだよな。出来れば表通りとかのほうがいいよな。問題はイヌピーに家賃が払えるかどうかだけど」
「悪かったな。稼ぎが少なくて」
「おまえらにバイクを売って稼ぐ気がないからだろ。そのあたりはオレがテコ入れするとして、問題はイヌピーだけど」
「おまえんちでいいじゃん」
「え」
「おまえんち、イヌピーをうけいれるくらいの余裕はあるんだろ」
龍宮寺は九井のことをそれなりに知っている。マンションに招いたことはないが、乾に聞いたのかもしれない。
「そりゃ広さはあるけど、オマエがそれを言うのかよ」
「は?なに?」
「イヌピーが女になったのはオマエが原因だろ」
乾は龍宮寺に恋をしたのだ。時期からして、そうだとしか思えない。九井はずっとそばにいた。その間に変化はなかったのだから。
おもしろくない。そうだ。九井は乾の変化がおもしろくない。九井のしらぬ間に、幼馴染は華やかに変化していた。思わず口が尖ってしまう。子供っぽいとは分かっているが、止められるものではない。
「オレじゃねぇよ」
「は? ウソつけ。他に誰がいるんだよ」
「オマエだろ」
「は?」
ここだけの話だけどよ。龍宮寺は給湯室に視線をやって、乾がまだ奮闘していることを確認して、声を潜めた。
「イヌピーにココが好きなんじゃないかって話をしたんだよな」
ココがすきなのは赤音だから。乾はそう答えたのだという。それに対して龍宮寺は。
「ココが赤音を好きな話と、イヌピーがココを好きなのは、別の話だろ。イヌピーはココを好きでいいんじゃね、って言ったんだよな。そりゃ両思いになれたらいいけど、片思いだって認めてやったらいいだろ」
音が素直な乾だ。次の日、具合が悪いと仕事を休んだ。その日付に心当たりがある。乾が九井に助けを求めた日だ。
「とっくに二次成長期は過ぎてるだろ。今まで未分化だったのは、イヌピーが認めてなかったからだ」
九井はぽかんと口を開けた。
まさか。
え、まさか、そんな。
「ココ、紅茶でよかったか?」
戻ってきた乾は笑顔で九井に紅茶を勧める。え。イヌピー、オレのこと好きなの?オレのためにそんなかわいくなったの?
「ココ!鼻血!鼻血出てる!」
慌てふためく乾と、爆笑する龍宮寺と。
どうやら九井の二回目の恋は成就するようだ。