もういつからかわからないくらい幼馴染である男の事が好きだった。
自分の命を救ってくれたからこの命は彼の為に使おうと思っていた。
比喩じゃなく、彼の為ならば死んでも良いと思っていた。
彼が大切で誰よりも好きだったからそう思ったのだ。
理屈じゃない、そう感じてしまったのだから仕方ない。
だからといって幼馴染にも自分に同じような感情を向けて欲しかったわけじゃない。
出来ればもう姉や自分に囚われないで普通の幸せを享受して笑って生きていってくれればそれで良いと思ってた。
その内、離れなきゃいけない。もう自分たちから解放してやるべきなのだ。
だけどあと少しだけ、もう少しだけ側に居たいと欲張ってズルズルとその隣に居続けてしまったからいけなかったのだろうか。
あの夜、いつものように二人きり。アジトの中で九井と肩を並べて寒さを凌ぐように毛布に包まっていた。
他愛無い会話の切れ間に落ちた沈黙の後、ふいに名前を呼ばれたのだ。
いつものあだ名じゃなくて、ちゃんと下の名前だった。
突然のそれに驚いて顔をあげると、熱っぽい黒い瞳に見つめられて身動きが取れ無いで居たら、そっと唇が合わさった。
ただ重ねるだけの稚拙なそれに胸が苦しくなる程鼓動が早くなって、それ以上どうしたら良いのか解らなかったから目蓋を閉じた。
ドラマとかだとキスをする時は目蓋を閉じるものだった気がすると、それだけを思い出したからだ。
九井の冷たい指先が手首を掴んでそのままゆっくりと毛布の上に二人で倒れ込んだ。
覆い被さって来て抱いてもいいか?と掠れた声に聞かれた。
心臓が今までに無いくらい鼓動を早めて頬や耳が熱くなった。九井の言う意味が解らない程もう子供では無かったが、経験なんて全く無かった。
初めてだからわからない、と素直に答えたら全部してあげるから、お願い、と懇願されて断る理由なんて無かったから受け入れた。
いつも自分の為に動き、些細な我儘も叶えようとしてくれる九井からのお願いなんて滅多に無い事だった。
知らない事を自分の体にされるのは少しだけ怖かったし、気持ち良いもあったけど痛いもあって自分がぐちゃぐちゃになってしまいそうな行為だった。
それでも九井に名前を呼ばれながら求められるのは愛されているみたいで嬉しくて、幸せだった。
終わってからも毛布に包まって九井が優しく抱き締めて髪を撫でてくれて、甘い余韻に意識を落とす寸前。
明日の朝に一番に顔を見て好きだよ、って言おうと思った。
それなのに、目が覚めたら九井はどこにも居なくなっていた。
静かな部屋の中に自分だけを置き去りにして。
今でもその日の事を思い出すと胸が痛かった。
自分を明け渡したら要らないと捨てられたみたいな気持ちだった。
何処かでやっぱり、という思いもあった。
何の取り柄もない自分じゃ九井には釣り合わないのだろうし、捨てられても当たり前だろうと半ば諦めた気持ちもあった。
でもこんな最後になるなら、始めからこんな事体に教えて欲しく無かった。
寒い日になるといつもいつもそれを思い出して、切なくなるような行為を記憶に残して消えていくなんて酷い奴だな、と思った。
それからは目的も無く抜け殻のように何もせずにたまにバイクを走らせるぐらいでふらふらしている時期があった。
だがそんな空っぽな自分に声を掛けてくれたのがドラケンだった。
憧れの人が遺した、幼馴染との最後の場所になったバイク屋の跡地。
それを前に立ち竦む自分に手を差し伸べてくれたのだ。
ドラケンにはとても感謝しているし、救われたという思いもある。
まだ何も返せては居ないけど、二人のこのバイク屋だけは何があっても絶対に守ろうと誓った。
だからその為に食費を削ろうが、大切なバイクを売る事になろうが構わなかった。
そんな時にまた、どういう訳なのか自分と九井は偶然にも再会を果たしてしまったのだ。
思わぬ再会を果たした幼馴染から金に困っているのを知られ、大金を受け取ってしまった。
そんな物受け取るつもりは無かったが、何かと理由をつけて押し付けるように手渡されてしまった。
確かに金は必要ではあったが、彼から金を受け取ってしまうのはもうしたく無かった。だがそれを断り続けてしまうのも彼自身を否定してしまうような気がして、悩んで受け取った。
その代わりに九井がオーナーをする店で働く事を提案されて、もともと副業を探していたのもあって頷いた。
それも理由の一つではあったが、内心でやっと会えた幼馴染との繋がりに期待している気持ちもあったのだ。
働く事になったのは最初に紹介されたあのメンキャバだとかいう店でだ。
そこでてっきり自分はキャストとして働かせられるのかと思えばどうやらそうでは無く、店内の雑用や酒や食事を運ぶのがメインの所謂「ボーイ」と呼ばれる裏方業務をやらされている。
キャストの方が身入りも良いだろうしスカウトされてきたからにはそうなのだろうと思ったが、九井にはイヌピーに人と話す仕事は向いてない、とはっきり言われてぐうの音も出なかった。
愛想笑いの一つも出来なきゃ気の利いた世間話も出来ない自分に女とマンツーマンで愉しませる等、到底無理な話だろう。
バイク屋が本業だから無理の無い範囲でいいよ、と言われたがこちらも金を受け取ってしまった手前そういうわけにも行かず火水金土の週4日の18時から入り閉店の0時まで店内で働きその後は店の掃除や後片付けをする。
それから家に帰ると時刻は朝方近くでベッドに潜り込み数時間の睡眠を取り、8時には起きて身支度をして9時過ぎにはバイク屋の開店準備をする。
そんな時間に追われそれを繰り返す忙しい日々だった。
店はちょうどボーイが一人抜けたばかりでその穴を埋めるのに乾はちょうど良かったらしい。
ツナギを脱いでバイク屋の油臭い汚れをシャワーで洗い流してから、支給された白いシャツと黒いベストにスラックスを着る。
接客はしないでただオーダーを受けて出された飲み物やフードメニューを客席に運ぶ。
テーブルにキャストが着いてからの時間を大凡で内勤の人間が計算し、1時間毎に延長かどうかを確認する。
客がトイレに行けば出てきたタイミングでおしぼりを手渡す。
酔っ払って暴れたり大騒ぎし過ぎる客が居たらそれとなくフォローをする。
淡々とそれを熟すだけで6時間。ずっと立ちっぱなしなので足が結構浮腫むのが少し怠いがそう大変な仕事でも無かった。
困る事といえば、酔っ払った女たちにやたら絡まれる事だ。
自分はただのボーイなので、と躱して適当にやっては居るが何せ相手は酔っ払っているので話が通じない事が前提なのでこれが結構面倒なのだ。
たまに羽振りの良い客がチップをくれたりするのはラッキーだと思ったが、酒の入った女たちは突然抱き着いてきたり尻を撫でてきたり。時にはトイレの前で壁に押し付けられてキスをされそうになった事もあった。
相手は酔っ払いな上に客で、女だと思うと殴り飛ばすわけにも行かないから中々に奔放なそれの対応は疲れる。
酒のせいでそうなっているのか、欲求不満でそうなのかは解らないが指名している男が居る癖に男と見れば誰でも良いのかと呆れた気持ちになった。
九井にはあれ以来会えてないが、たまに大丈夫か困って無いかなど様子を伺うメールをくれる。
今までは連絡先も解らなかったのだからそれを思うと連絡が取れるだけマシな気がした。
店の店長が言うには九井は忙しくて、他にも色んな店をいくつも経営してるから中々ここには来ないらしい。
だからあの日偶然にも再会出来たのは本当に幸運だったのかもしれない。
でも、全く顔を見れないのはちょっと淋しい気持ちになる。
自分をここに連れてきた例のスカウトの男とはあれからたまに会うと世間話をするようになった。
チャラい見た目ながら気さくな奴で仕事ぷりは見た目に反して優秀で、そいつが連れてくるキャストたちは軒並み成績を伸ばしている。
「乾くんなら絶対売れっ子になると思ったのにオーナーのお手つきじゃなあ」
10分の休憩中裏口でビールケースの上に座っているとスカウトの男もちょっと休憩、と横で煙草を吸いながらそんな事を言った。
それに対してそう言えば、こういスカウトを通して入ったキャストたちの売り上げからの何割かがコイツの取り分だしなと、思った。
「金になんなくて悪かったな。でもそのお手つきって何だよ」
スカウトの男が奢りだとくれた缶コーヒーを口にしながらそう返すとあれ?と首を傾げられる。
何か変な事を言ったかとこちらも見返すともう一度反対側に首を傾げた。
「え、乾くんオーナーとそういう関係でしょ?だからボーイでも時給良いんじゃないの?」
そういう関係とはどういう関係なのか。
聞かれても質問の意図がよくらわからない。
そもそも自分は前払いで金を貰ってしまったので、時給だとかそういうのは全く解らない。
「何だそれ。どう思われてんの、俺とココ」
「…いや〜これ噂だからね、噂。俺が言ったんじゃないよ?」
やけに強く念押ししてから少し気まずそうに一息煙草の煙を吸い込むとふぅ、と吐き出してからどう言おうか思案した様子で視線を彷徨わせてから口を開いた。
「乾くんはオーナーに囲われてる愛人で、目の届く所に置いておく為にその隠れ蓑にボーイとして雇われてるって…」
「あ?何の話だよそれ。俺とココは幼馴染だぞ。そもそもここにアンタが連れてきて偶然再会したんだから愛人もクソもねぇよ」
あんまりな内容に思わず途中で遮って否定してしまう。
愛人だの囲われてるだの、店の奴らにも自分はそう見られていたのかもしれないと思うと頭が痛くなってくる。
そう言えば自分に対して挨拶を無視したり、酒やフードを持って行くと遅いだの何だのとヤケに突っかかって来る奴らが何人か居たがそういう事なのか…
「あ、確かに〜それもそうか!オーナー、今までに女は何人も居たけど男とどうとは聞かないもんね。そりゃそうだわ」
自分で納得して笑っているスカウトの男にこちらもんな訳ねぇよ、と笑って見せたが九井は一体あれから今までに何人と付き合ってきたんだろうな、と複雑な気持ちになる。
自分は九井と離れてる間も未練がましく彼の事をを思い、九井以外とそういう行為すらして来なかったししようとも思わなかった。
それなのに向こうは遊んでいるのかと、ちょっとだけ、不貞腐れた気持ちになってしまいそうになる。
だが直ぐに九井はモテるだろうし仕方ないかと、思い直した。
別に自分はアイツの何でも無いただの幼馴染なのだから、嫉妬する権利も無い。
正にそんな会話をしていた矢先。
その日の営業終了後に最後の客を従業員全員で見送ってから、店内の清掃をすべく裏にある掃除用具箱からバケツとモップを取り出そうとした時だった。
肩を叩かれて振り向けば、キャストの何人かの男たちが背後に立っていた。
顔ぶれに自分への当たりがキツイ奴らだと気付くと、そうなればこれは面倒臭い事になりそうだなと思う。
明日はバイク屋の仕事もあるし、何せ平日は朝まで働いていて寝不足で疲労も溜まっている。
早く掃除を終わらせて帰ってしまいたいのだが、長くなりそうなのだろうか。
「おい、お前ちょっと来いよ」
「…掃除あるんで」
一応どうにかならないかと断ってみたが、やはり通用する筈も無くいいから来い、と顎で裏口の方を示される。
この懐かしい感じは喧嘩の呼び出しみたいだなと昔を思い出した。
そのまま5、6人に逃げられないように周りをしっかりと囲まれてぞろぞろと裏口から外に出た。
壁を背にするように立たされると周囲の店のギラギラしたネオンの光りがビルとビルの狭間から薄暗い路地裏を僅かに照らしている。
一番背の高い男が通りから壁になるように立って、その横を二人が逃げられないように固めている様からこういうのに慣れているのが伺えた。
睨み付けてくる視線をぐるりと見回してからリーダー格らしき黒髪の男を見てコイツを殴り倒してこの背の高い男の膝を蹴り飛ばして隙をつけば逃げられるかと脳内でシュミレーションしてみる。
だがここでそんな騒ぎを起こせば店に居づらくなってココに迷惑を掛けてしまうのでそれは得作では無いか。
「お前、ただのボーイの癖に目立ち過ぎだろ」
手下みたいな冴えない見た目の男がよくわからない言い掛かりをつけて来たのを皮切りに口々に何だかんだと言い募ってきた。
「お前は俺達より下なんだから立場を弁えろ」
下らない言い分を口にすると仕事中は邪魔だからと縛っていた髪を軽く引っ張られた。
痛かったわけでは無いがそれをつい、反射的に手で振り払いうぜぇと言う気持ちが露骨に顔に出してしまった。
「何だその態度は。お前痛い目みないとわかんねぇか?」
先程リーダー格であろうと目星をつけた男がこちらに顔を近付けて凄んでくるが、10代の頃から喧嘩に明け暮れてそれこそ化け物みたいに強い男たちを近くで見たり殴られてきた乾からすると全く怖くないどころかガキの戯言程度にしか思えない。
「まだ仕事あるんで戻っていいすか」
一応、乾なりの敬語でそう言ってみたが相手は増々苛立ったかのようにてめぇだの舐めてんのか、だのと威嚇してきたて、それから肩を強く押される。
されるがままによろめくと、そのまま後ろに居た男にぶつかった。そうすると今度は背後に回ってきた男から背中を押される。
右足に力を入れてバランスを取りながら全員の顔と体つきを見ても、やはりヒョロくて弱そうで喧嘩慣れしているようには思えなかった。
これならば自分一人でも余裕そうだ。
「客と話して金もらってんのは俺達なんだから、ただ酒運んでるだけのてめぇが勘違いすんじゃねぇぞ」
「そんなん当たり前だろ、お前らは自分の仕事して金貰ってんだからよ」
「テメェっ…」
自分で選んでその仕事をしているのだったら、こんなボーイ一人に絡んでないでそれに専念すればいいのに。
大方前任のボーイもコイツらのターゲットになって退職に追い込まれたのだろう。
そういえば店長がしきりに何かあったら直ぐに相談してほしい、人間関係とか…等と言葉を濁していた。
「そのスカした顔、もっと痣だらけにしてやるよ。その痣が目立たなくなるくらいにな」
乾の顔の左側の痣を見て言っているのだろう。
そんなつまらない脅し文句今までにも散々言われ慣れているし、いちいち腹も立たない。
だが残った仕事終わらせて帰らないと、他のボーイ連中からもサボってると思われそうだしそろそろ切り上げるべきかもしれない。
「言いたい事はそれだけか?」
正面でさっきから怖くも何とも無い凄み方をしているリーダー格と思わしき男の目を真っ直ぐ見ると少し怯んだように後退った。
「…てめぇ状況わかってんのか?こっちは6人だぞ」
乾から向けられる感情の読めない視線に男はペースが崩されそうになっている。
恐らく、今までであれば相手側か多勢に無勢と降参してきたのだろうが乾の反応はそのどれとも違ってヤケに落ち着き払って見えた。
「お前、売り上げ5位とかだっけ?」
他意はなく単純に確かめたかっただけなのだが、それを馬鹿にされたと思ったのかみるみると男の首筋から顔が真っ赤になっていく。
店内には売り上げ10位までのキャストの写真が壁に貼られているから、確かその辺だったかと思ったのかだが。
「クソ、ふざけんじゃねぇ!ボーイ風情が生意気な口聞いてんじゃねぇぞ!」
右手を大きくて振りかぶってくるのが、そんな相手との距離のある腕の振り上げ方では幾らでも隙が出来てしまう。
拳が乾の鼻先に届くより先に男の腹に蹴りがめり込む方が先程だった。
ぐあっと間抜けな声が聞こえてきた。そのまま押し込むように力を入れて地面に叩き付けるように転がす。
「一応キャストの顔に怪我させたらココに悪いからな」
そう言って周囲の奴らが怯んでいる隙にすかさず左後ろの奴の腹に肘鉄を食らわせ、その横に居た小柄な男の胸倉を掴むと壁に向かって投げ飛ばした。
転がったのを見届けると残りの三人を見遣った。
「な、なんだよ、コイツ…」
ものの数秒で三人の男を地面に沈めてしまった乾のそれに狼狽えてまだ無傷である男たちが後退りしている。
「おい、お前らもやるか?」
「…お、俺達は別に…」
まだやるなら相手になるぞ、とそちらを見遣ったが男達は目を反らしながらぶんぶん首を横に強く振った。どうやら戦意はすっかり無くなってしまったらしい。
こんな手応えも無い奴らの癖によく人に喧嘩売れたよな、と思いながら最初に蹴り落とした黒髪の男の顔を覗き込む。
顔に怪我はしていないようだが、多分普段受けた事の無い痛みにショックで動けないのだろう。
「じゃあコイツらに肩貸してやれよ」
地面に伸びるている連中を顎で差して言うと無傷な男たちはコクコク頷いた。
その場を後にしようと乱れたシャツの襟を直しながら倒れてる奴らの顔に傷が無いのを全員分確認してから安堵する。
「俺まだこの店で働かないきゃなんねぇし、あんたらの邪魔する気も無いからもう少しの間我慢しといてくれよ」
乱れた髪を解いて前髪を掻き上げながら、そう言い残してその場を後にした。
手加減はしたが店長にあいつらが泣きついて九井の耳に入ったら少し困るな、と思いながら裏口のドアを開けて店内に入った。
裏口はゴミ捨て場に繋がっており、中に入ると直ぐに簡易的な厨房と従業員用のトイレがある。
そのままトイレで手を洗い髪を直して何事も無かったように掃除に戻ろうと洗面所の蛇口を捻ろうとした。
「イヌピーまだ喧嘩強いんだなぁ」
笑い声がして振り向くとそこには、九井が立っていた。
相変わらず片側に剃り込みの入った個性的な髪は綺麗にセットされているし、上品な濃紺のスーツに身を包んで楽しそうな笑みを浮かべている。
「…見てたんなら助けろよ。6対1だったんだぞ」
明らかに人数で負けていたわけだし、向こうが武器等を持ち出していたらこちらも回避出来たか解らないのに。
呑気なものだと嘆息して蛇口を捻ると無駄に勢いの良い水がバシャバシャと流れ出す。
「ヤバそうだったらそうするつもりだったけど、出る幕無さそうだったから」
「こっちは朝から夜まで働いて体疲れてんのに、無駄な事したくねぇんだよ」
「こんなんイヌピーからしたら体動かした内に入んねぇだろ?」
手を洗って水気を切りながら拭くものが無いとキョロキョロしてるとハンカチを差し出された。
ブランドのロゴの入った高そうなそれを遠慮なく使ってビショビショにしてから突き返すと苦笑しながらジャケットのポケットに戻している。
「喧嘩なんてもうずっとやってねぇし体鈍ってんだよ」
不良と呼ぶには行き過ぎた行為も多々あったが、そういうものからは卒業して数年経っている。
今は街の平和なバイク屋さんなのだ、喧嘩なんて早々しない。
「まあ確かに、現役の頃のイヌピーじゃ骨の一本は折ってるだろうけど」
「あんな弱い奴らにそこまでしねぇよ」
髪をどうにか手櫛で整えようと鏡を見ながらまとめようとするが、毛束が逃げてはらりと頬に落ちてしまった。
それを見兼ねたのか九井が背後に回り内ポケットから取り出した櫛で髪を梳かしてから、綺麗に纏め上げてくれた。
手首のゴムを手渡すと簡単に括ってくれる手際に流石器用だなと思う。
「髪伸びたよな。こんなに伸ばしたの初めてじゃないか?」
「…短いとしょっちゅう切りに行かなきゃなんないのが面倒だからな。」
「長いのも似合ってるし良いと思うよ」
首筋を指先がスルリと撫でて行くから擽ったさと少しの気恥ずかしさで、何だよ、と睨んでみたが鏡越しにふっ、と笑うだけで何も言わない。
「あんまり項見せてると色っぽくて変な気起こしそうになるな」
「セクハラすんな」
項を押さえて振り向いて九井の肩を軽く叩けばクスクスと笑う顔が見えた。
この間会った時から尖ったような、自分の知らない大人っぽい顔をするようになったと思っていたがこうやって笑うと目が細くなって幼くなる所は変わって無いなと思って何となく安心した。
「あいつらそこそこ売り上げあんだろ、辞めたら悪い。」
絡まれたのはこちらではあったが、正当防衛ギリギリだったかもしれないな、と一応謝っておいた。
九井の経営している店の一つの売り上げを損なうような事は本心では無い。
「あの程度なら直ぐ代わりは見つかるから気にすんな。…そもそもイヌピーに絡む時点で頭悪いしな。そういう馬鹿は要らねぇ」
さっきの笑顔から一転して冷たく言い放つ九井に、やっぱり何だか嫌な奴になったな、と思う。
金稼ぎをするようになってから九井は使えるか使えないかで他人を簡単に切り捨てるようになった。
だがそれでもあの頃はまだもう少し人間味があった気がするけどなと思う。
きっとそうやってお互いに知らない顔がいくつもあって、それが自分達の離れていた月日なのだろうか。
その横顔をチラリと見やると向こうもこちらを見ていたようで目が合った。
それから唐突に手首を掴まれて何か確認するみたいに表裏とひっくり返されてジロジロ見られる。
「怪我なんてしてねぇよ」
「イヌピーに怪我させてたらアイツら沈めてるわ」
心配してくれるのだな、と少し気持ちが浮上した。だが返ってきたそれが何だか冗談なのかそうなのか解らない物騒さを秘めている気がして、複雑な心境になった。
「前より多少肉ついてきたみたいで良かったな」
そんな事を唐突に言われ何がだと思っていると掴んだ手首を持ち上げられ、もう片方の手で顎を掴まれるようにしてまた何か確認するように見られた。
「再会したばっかの時、イヌピーすげぇ痩せてるし顔色悪かったからさ」
そんな風に思われてたのか、と案外自分の事を気に掛けて貰っていたようで意外に思う。
まだ幼馴染としては心配してくれるのだなと。
「あん時は1日カップラーメン1個とかザラだったしな。でも今はココのお陰で3食まともな飯を食えてるし店の返済も半分くらい住んだし感謝してる」
素直な気持ちを伝えれば役に立てたなら良かった、と笑った。
それに対して罪滅ぼしのつもりかよ、と内心可愛いくない事を思うくらいには置き去りにされた事を根に持っている。
離された手の温もりが名残惜しく思うなんて我ながら未練がましい。
「なあイヌピーん所、月曜日休みだろ?」
そういえば、と聞かれたから頷くとスマホを取り出して目の前でスケジュール表を開いてからよし、と一人で何かを決めたように口にすると顔を上げてこちらを見た。
「じゃ、次の日曜の夕方そっちの仕事が終わったら飯食いに行こう。久しぶりに飲もうぜ」
誘われてそれに二つ返事で承諾した。
今の九井がどんな人間なのかも知りたかったしあれからゆっくり話せてなかったからなと思ったのだ。
あれ以来まともに顔を合わせても居なかったし、ちゃんと色々話しもしたい。
色々忙しそうでこちらから誘うのもどうしたものかと考えていた所だった。正直九井の方から誘ってくれたのは嬉しかった。
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