見上げるものたち 星が、綺麗だった。
ダンデに負けた回数が遂に片手の指の数を超え、オレは夜のワイルドエリアをひとり歩いていた。
お供のフライゴンはいる。けれど、今はボールの中でお休み中だ。
さく、さく、さく。
オレが踏む草の音と、遠くのポケモンたちの音が混ざる。
ここいらのポケモンは大人しく、夜行性のものも少ない。それの見越しての散策ではあったが、目的などない。
ただ、ただ、無作為に。
暗い世界を歩きたかった。
ああ、でも。
「……星は、いつでも光ってやがるなあ」
その光すら、疎ましい。
オレは視線を下へと向ける。そこにはオレの足だけ。
いつだって、オレの足だけ。
「…………」
ため息ひとつ吐いて、また歩く。
さく、さく、さく。
ジムチャレンジ期間も終わって、夜も遅ければ、ワイルドエリアを歩き回る人は格段に減る。だから今、この場にいる人間はオレだけだろう。そう思っていたから、油断していたのだ。
「あれ? キバナくん?」
突然、誰かがオレの名前を呼ばれ、文字通り心臓が飛び出すかと思うほど驚いた。
慌てて目線を上げれば、目線の先には大きめの平たい岩があり、その上にオレの名を呼んだ人間が座っていた。見知らぬ人間どころかそこにいたのは、
「カブ、さん?」
うん、とカブさんは頷く。ベンチコートを纏い、岩の上にちょこんと座る彼の姿がいつも通りの態度がゆえにとても奇妙で、オレは状況の理解がすぐに追いつかなかった。
「な、んでここに?」
「うん、星を見てた」
「星……?」
「そ。星」
言うと、カブさんは視線を上に向けた。オレも同じく見上げてみるが、先ほど疎ましく思った星は相変わらずそこにいた。
ぺちぺち、と何かを叩く音が聞こえて視線を下げれば、カブさんが岩を手のひらで叩き、
「隣、座る?」
首を傾け、自身の隣をまたぺち、と叩く。
「――――」
正直言えば、ひとりでいたかった。けれど、断ることもなんだか憚られ、オレはカブさんから少し距離を置いて座った。
オレが座ったのを見届けると、カブさんはまた星を見上げ始めた。なぜオレがここにいるかも聞かず、かといって世間話も始めることなく、無言で彼は星を見上げ続けた。
足下を見つつも、カブさんが変わらず上を見上げ続けているのを見て、オレもまた見上げてみた。
そこには、やはり変わらず星がある。
こちらが煩わしいと思おうと思わないでいようと、星は何も変わらない。
「…………」
オレとカブさんは、一言も話さない。静かに、ひっそりと、星を見上げ続けた。
どのくらい時間が経ったのか。
どちらかともなく背伸びをして、固まった体をほぐし始めた。カブさんとは結局何も話すことはなかったが、不思議とさっきまであった薄暗い気持ちは消えていた。
カブさんは、ひよっとしたらオレがフラフラ歩いていた理由を察していたのかもしれない。それでも、話をせず、聞かず、ただそばにいてくれたことがとても嬉しかった。
「ありがとう、カブさん」
「んー? ぼくは何もしてないよ。ぼくも、一緒に星を見てくれてありがとう」
ふふ、とへにゃっとカブさんは笑ってくれる。
敵わないなぁと頬を掻きながら、ふと思う。
「あー、ここ、ひょっとしてカブさんの秘密の場所だったりしました?」
「そうだね。珍しいポケモンがいる場所でもないから人も滅多に来ないし、星をゆっくり見たい時は時々ここに来るんだ」
「そう、なんですか」
それなら、もうオレが知ってしまったら、内緒の場所ではなくなってしまったなら、この人はもうここには来なくなるのだろうか。
そう思うと、ツキンと胸が痛んだ。
が、「だからね、」とカブさんの声が続き、
「今日からきみとぼくの、ふたりだけの内緒だよ」
人差し指を口に当て、いたずらっぽく笑うカブさんに、オレは顔が熱くなるのを感じながら、笑って人差し指を口に当てた。
オレたちだけの内緒の星見は、そこからスタートした。
◆
とくに約束などせず、オレは行きたい時に星を見にあそこへ行った。
カブさんがいることもあれば、いないこともある。でもそれはカブさんも同じだ。
そして同席になったとしても、最初のときと同じく星を見ている間はお互いに話をすることはなかった。
その静かな時間は、オレにとっての癒しの空間だった。
とはいえ、同じ姿勢で座りっぱはキツい。
「カブさん、オレさまいいもの持ってきました」
「いいもの?」
草原に、ぶあっとシートを敷く。オレでは足が少し出てしまうが、カブさんなら足りる大きさだ。
ブランケットをカブさんに一枚渡し、オレはシートに腰を下ろして、隣をぽんぽんと叩いた。
「寝転がって見ましょ」
「なるほど、これなら首が痛くならないもんね」
流石だね! とカブさんが隣に寝転がった。それに倣ってオレも横になる。
「はぁ……」
それは、どちらのため息か。
座りから寝転がった姿勢に変えただけなのに、視界の広がりはぐーんと変わった。
まるで星ばかりに囲まれているかのような錯覚に、オレは少しの怯えを覚える。
「キバナくん?」
オレの様子が気になってか、カブさんが名前を呼んでくれた。その声に、オレはあの人の体温が隣にあることを思い出して、ホッと息を出す。
「……ねえ、カブさん」
「なんだい、キバナくん」
「手ぇ、繋いでもいい?」
「どうして?」
「……なんとなく」
「そっか」
はい、とカブさんが手を出してくれ、オレはその手を取った。
(温かい……)
少し高めのあの人の体温は、オレの内側まで温めてくれるようで。
きゅ、と手を握って、また星を見上げた。やはり星は広く広がって見せるが、あの人の体温がオレの怯えを包んでくれる。
「綺麗ですね……」
「うん……」
それだけを交わして、オレたちはまた静寂の時間を過ごした。
◆◆
いつから始めた習慣かは覚えていない。気持ちをうまく消化できない時、落ち着けたい時など、ふらりと出歩いてはここへとやってきて空を眺めていた。天気の変わりやすいワイルドエリアでも、そこは比較的雨も少なく長居がしやすかった。まあ、雨が降っていてもぼうとしているのだけれど。
長くそこに行くようになって、滅多に人に会うことはなかったから、夜にキバナくんが歩いてきた時は驚いた。迷子のようにふらふらと歩く彼の姿に思わず声をかければ、彼もものすごく驚いていたのは雰囲気で分かった。
こんな夜に、目的もなく出歩いている、その意味はなんとなく分かる。
(負けたもんね……)
ぼくはダンデに戦うことすらできなかったが。とはいえ、彼は同情も共感も、ましてや励ましなど欲しくないだろう。「頑張ったね」などと、彼を侮辱するに等しい。
でも、このまま彼を放置する気にもなれなかった。
「隣、座る?」
ぺち、と隣を叩けば、先ほど声をかけたほどではないが、またキバナくんは驚いているようだった。この誘いを断り、このまま立ち去るなら仕方ないだろう。むしろそうする可能性が高いとも思っていたが、意外と彼はぼくの隣に腰掛けた。
その視線は、下に下げたまま。
彼が口を開かないので、ぼくも何も言わない。今、この時ほど言葉は無意味になるから。
ぼくは、いつも通り空を見上げた。
手の届かないところで輝く星。輝き続ける星々。ぼくがどんな思いでいようと、彼らは
いつだって変わらない。そんな彼らを眺め続けることで、ぼくの体の内側に渦巻くモノをいつも沈静化させてきた。
しかし今夜はちょっと違う。
隣に、キバナくんがいる。
今まで独りになりたくてここで星を眺めていたから、隣に誰かいるのが少し不思議で、でも、不快感などなかった。
(こういうのも……案外悪くないモンだね……)
ぼくの秘密の場所だったのではないかとバツの悪そうな顔をして言う彼が、ちょっと面白くて。
(これきりになることを、残念に思ってくれるんだね……)
ぼくも、また一緒に星を見たいと思ってしまったのだ。
「今日からきみとぼくの、ふたりだけの内緒だよ」
そう告げた時、彼が嬉しそうに笑った顔に、ぼくの心に暖かいものが灯った気がした。
それから何度か一緒に星を見るようになった。昼間では雑談などしていても、その場所ではほとんど言葉を交わすことはなかった。交わす必要などなかったから。
が、彼の方から少しの変化を加えてきた。
「寝転がって見ましょ」
ぼくひとりではなかった発想に感嘆しながら、彼の隣に横になった。
「はぁ……」
体勢を変えただけで、こんなにも視界は変わるのかと驚いた。上にあるだけの星々がまるでこちらに降ってくるのではないかと思うほどに。地面の冷たさだけではない、心の底を冷やすものが、ぼくの体を震わせる。
と、隣を見れば、微動だにしないキバナくんが、いや、体を硬直させたキバナくんが空から視線を外せずにいた。
「キバナくん?」
声を掛ければ、固まっていた彼の雰囲気が緩んだのが分かる。ほう、と息を吐くと、
「手ぇ、繋いでもいい?」
どうして、と問えば、なんとなく、と返ってきた。
饒舌な彼にしては拙い言葉。でも、ぼくにとっても、理由なんてそのくらいでよかった。
「そっか」
はい、と手を出せば、彼の大きな手がぼくの手を包み込む。柔らかくも少し強めに握られた手は、まるでぼくをどこにも行かせまいとするようで。彼の体格に反してどこか小さく、弱々しい心を思わせる仕草に、可愛いなと思ってしまった。
(ぼくも、きみも、ここにいるよ)
手のひらの彼の体温を感じながら、ぼくは空を見上げる。
「綺麗ですね……」
「うん……」
それきりの会話で、ぼくたちはまたいつものように静かに過ごす。
これまでなら凪いだ海のように静かになっていくぼくの内側が、今はわたあめのようにふわふわと、柔らかい何かが増えていった。
◆
あれ以来、オレだけのときは、星を見ずに帰った。
カブさんがいるときは、シートを敷いて寝転がって見るようになった。
ひとりでは、あの人の体温を感じられないから。
優しいあの人は、またオレに手を握らせてくれる。
「最近寒くなってきたもんね」
そう言って、あの人から手を握ってくれる。
あの人も、オレと同じ気持ちなのだろうか。それだったら嬉しいと、密かに思う。
あの場所に来るのはお互い不定期で、とくに示し合わせもしたりしなかった。
けれど、今夜に関しては、あの人はいるだろうという確信はあった。
ダンデが、負けたからだ。
10年無敗のチャンピオンを、ひとりの子供が打ち破ったのだ。
もしかしたら、という予感はあったのだ。ジムチャレンジで、最初の関門であるカブさんから「凄い子がいるよ」と言われ、そして自分の前に現れた時に「この子のことか」と感覚で分かった。
ダンデとあいつとのバトル。
最後の最後であいつの技が炸裂し、ダンデのリザードンが膝をついた瞬間、オレは。
「…………」
さく、さく、さくと。足下の草が音を鳴らす。オレはまた下を向いて歩いていた。目的地はもう覚えているから、周りを見る必要などない。あの場所に着くまで、ほかのものを視界に入れたくなかった。
「キバナくん」
少し向こうから、名前を呼ばれる。
ほら、やっぱりいた。
目線を上にすれば、あの平たい岩の上に、あのひとがちょこんと座っていた。
お互いに、あの試合後のジムウェアのまま。
「カブさん、みーっけ」
「見つかっちゃったね」
ふふ、と笑い合い、いつものシートを広げると、オレたちは無言で寝転がった。
真上には、満天の星空。
いつもと変わらないと思うが、心持ち、光が強く感じる気がする。
ああ、星が眩しい。
小さくも、けれど確かな強さを持って、星は眩く光る。
その眩しさに、オレは目を細めた。
「……ダンデ、負けましたね」
「負けたね」
「誰にも負けないとか言っておきながら、ぽっと出のやつに負けてんじゃねーよってハナシ」
「まあぼくたちもその子に負けてるんだけどね」
「それは言わないでよ」
「事実だもの」
初めて、ここで会話した。今まではほとんど話をすることなどなかったのに、今夜に限ってはオレもカブさんも口を開いた。
「あいつすげーよなあ。今年初めてポケモントレーナーになって、しかも伝説のポケモンまでゲットして」
「才能と言うのかな。あの子にはトレーナーになるセンスがもの凄くよかったんだろう」
「腹立つー。オレの天候操作にも怯みもしねえでやんの」
「ぼくも、ウインディのワザを耐えられたのにはびっくりしたなあ」
「悔しいなあ」
「悔しいね」
「悔しい……」
「うん……」
声が、自然と小さくなっていく。オレは自分の体をゴロンと横に向けた。カブさんが
見えるように。
「ね、カブさん……こっち見て」
「……ん」
カブさんも、ゴロンとこちらを向く。
普段であればオレがかなり下を見ないと見えない顔が、今は真正面にある。ホウエン人らしい黒い瞳が、あの人の心を表すように真っ直ぐにオレを映す。
「……抱きしめて、いい?」
声が、震えたかもしれない。
でもカブさんはそこには触れず、構わないよ、と両手を広げてくれた。
「――――」
その腕の中に吸い込まれるように、オレは両腕をあの人の背中へと回した。
オレに比べれば小さく見えるも、その身体は華奢とは縁遠い。硬く、でも熱いほどにしっかりした芯があるのが分かり、オレの両手も遠慮なく力を込めることができた。
(カブさんが……ここにいる……)
何を当たり前のことをと思うが、自分以外がここにいて、それがカブさんだという事実を実感できたことが、とても嬉しいと思えたのだ。
そのカブさんが、オレの背中に両手を回して抱き返してくれた。
ぎゅう、と込められた力に、オレの耐えていた何かがぷつりと切れた。
「あ……」
瞳から、涙が横に落ちていく。それはひとつではなく、ふたつ、みっつと出ていき、ついには数えることすらできない量が止めどなく溢れ続けた。
「う……」
カブさんを抱きしめながら、オレは涙を流し続けた。声は出そうにも胸でつかえて出ることができず、粗い呼吸に紛れるようにうめきながら、それでも泣き続けた。
つと、オレの肩口が湿り濡れるのを感じる。カブさんがオレを抱きながら、いや、縋り付くかのように抱きつきながら、泣いていた。
声を殺し、整わない息で荒く呼吸をし、泣いていた。
(カブさんも泣いてる……)
泣いているんだなあと思ったら、ますます涙が溢れ、カブさんを抱く腕に力が入った。それは、あちらも同じだったようで。
ぎゅうぎゅうと、男ふたりでただ抱き合って、声もなく泣き続けた。
◆
「あーこんな泣いたの久々かもぉ……頭いてぇ」
「ぼくもだよ。酷い顔になってなきゃいいけど」
涙は終わったものの、抱き合うのは解かれずにいた。オレ自身、このまま離れてしまうのが惜しく感じたのもある。
今夜は色んなことが変わってしまった。だから、こういう変化があってもいいのだ。
「カブさん、お腹空きません? なんか泣きまくったら腹減って」
「そうだね、ぼくもだ」
「じゃあウチに来てください。こんな顔で店に行くわけにもいかないし。デリバリーでも頼んでさ」
「いいね。好きなものを頼んで、たくさん食べよう」
ぽんぽんと、背中をカブさんが叩き、
「そうしたら、また明日も動ける」
その言葉に、また泣きそうになるが、耐える。
少しだけ身を離し、カブさんの顔が見えるようにする。カブさんの目は赤く、少し腫れてるようにも見えるが問題はなさそうだ。
目尻に残った涙を拭き取り、
「じゃあ、ふたりの新しい門出を祝いましょう」
ダンデが破れても、また明日はやってくる。チャンピオンという座が新しくなったというのなら、こちらも新しくなっていけばいい。
それを冗談めかして言えば、カブさんはふはっ、と笑い、
「末永くよろしくお願いします」
力強い眼差しと共に優しく笑ってくれたので、オレはまたカブさんを抱きしめた。
オレたちは、まだ星を見続ける。