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    oto_882

    @oto_882

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    oto_882

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    桜の季節にチケットとタイシンがデートする話です。

    一つの季節を巡る、ある一日の物語 春という季節はそれほど好きじゃなかった。

     いや、好き嫌いで言うのは正確じゃないな。

     それはいつも、自分を取り囲む、柔らかくて美しい、流麗な――檻みたいなものだった気がする。
     どれだけ絢爛たる装飾を施されてても。
     華美に彩られた絵画のような風景でも。

     檻はのんびり鑑賞できるものだったりするだろうかな。

     確かにそれは見惚れるほど美しいものかもしれない。
     いや、美しいと思う。
     心から、そう思う。
     でも。
     檻は檻だ。

     まあ言いたいのはそんな感じのこと。

    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


     その寂れた公園に着いた時、チケットはまだ来ていなかった。

     待ち合わせ場所にはいつも早く着いてしまう癖がついていたから、必然的に相手の到着を待つことが多かった。
     アタシが人混みを殊の外に忌み嫌うことをチケットはよく知っていた。
     だから待ち合わせ場所の指定は、チケットの提案で、都心の混雑から少し離れた場所にある、とある公園ということになっていた。

     公園に設置されてる、隅の方が変色して朽ちかけているぼろっちい木製のベンチに座り込む。
     スマホの画面をぼんやり眺めながら、彼女がやってくるまでの待ち時間を過ごすことにした。

     公園はとても閑散としていた。
     見える人影と言えば、数十メートルは離れた砂場で子供が二人、お城だか何だかの構造物を黙々と作っているだけだった。
     後、目につくものと言えば。公園の隅で、申し訳程度の刺身のツマみたいにちょこんと植え付けられた小さな桜の木が一本、春の微風に薄紅色の花弁をちらちら散らせているくらいのものだった。

     ここでも桜だ。

     こんな辺鄙な公園でさえも。
     この季節、桜はどこにでも咲いている。
     それは例えば、ハヤヒデ流に小難しく言うなら、アタシ達の周りに偏在している。
     一つの強迫観念めいた象徴として、アタシらの生活につきまとい続けている。
     常に我が物顔で咲き誇ってる。
     誰しもそこから逃げる術がないみたいな顔をして。

     ただ、その公園の桜は、ちょっと様子が違って見えた。
     それは何ていうか、群れからはぐれた鈍くさくて要領の悪い奴で――でも、はぐれ物の精一杯の矜持と意地を張ってそこに根を下ろしてる――そんな風に思えてきたから、それほど見ていて嫌な気分にもならなかった。
     まあそこにいたいんなら勝手にいれば良いんじゃないの、って感じの桜だ。

     だからアタシも同じように、そこにちょっとの間、心穏やかに勝手に居座らせてもらうことにした。

     ――静か。
     とにかく、とっても、静かだ。
     待ち合わせ場所としては、なかなか悪くないチョイスだった。うん。
     ナイス、チケット。


     スマホの画面を見ながら、うとうとと考え始めるのは。
     結局は学園のこと、アタシ達、みんなのことだった。


     選手生活三年目となるアタシ達BNWは、三人そろって元気に現役続行中だ。
     トウィンクルシリーズを駆け抜けてる真っ最中のアタシ達は、三年目——所謂シニア期を迎えてる。

     クラシック期を終えたら、それぞれの出走スケジュールなんかも、それ以前に比べると足並みがぴしっと三人揃うなんてことも少なくなってきていた。
     せいぜい、三人のうち二人が、出走レースが重なるということが起こるくらいで。
     少しずつ道が分かたれていく。大樹の枝が少しずつ放射状に分散していくみたいにして。

     それでも、またどこかのレースで――それこそグランプリレースのような大舞台でまた三人顔を揃えて走ろうね、なんてことはいつものように言い合っている。

     そして、次なる近日開催のレースに向け調整期間中のハヤヒデ、そして休養中のアタシとチケット――という感じで、今、この時期に至っている。

     キツいトレーニングの仕上げ真っ最中のハヤヒデには何やら申し訳なさが立ったが。
    しかしハヤヒデはまるで意にも介さない様子で、また二人のデートの惚気写真でもLANEで送ってくれよ、それを見るだけで元気が出るからさ、なんてことをニコニコ顔で言ってきた。
     やれやれだった。——ほんと、ありがたい親友なんだ。まったく。
     彼女のふわふわの髪が優しく穏やかに揺れ動くのを見ながら、そんな事を思った。



     ――まあ、とにかく。
     今のアタシたちは、そんな季節を過ごしているってことだ。



     どれくらい物思いにふけっていただろう。

     ふと、砂場の方に目をやると。
     さっきまで子供たちが作っていたはずの砂のお城(らしきもの)は、跡形もなくなっていた。共同作業をしていたはずが、意見の相違が生じて、破壊のやむ無きに至ってしまったのかもしれない。
     それでも子供たちは再び、何か別のものを作り始めた。二人とも一言もしゃべることのないままに。
    隅っこの小さなはぐれ桜は相も変わらずのんびりとそよ風に枝木を揺らして、春のぬるま湯みたいな陽の光を受けて、淡い木陰を地面に落としている。

     それは、まるで何十年も同じことを繰り返し続けしている風景みたいに見えた。

     この公園だけ、時間の感覚が引き延ばされたように。
     それを見ながらそのままもう一度、意識が眠りに引き込まれそうになっていた、その時——。

    「あっ、タイシーーン!! おはよーー!!」

     彼女の声がした。
     意識の貯水池の底から一気に引き上げられる。
     ざばんと勢いよく飛沫を上げて水面に浮上する。
     覚醒の感覚。

     目をこすらせながら、彼女に言う。
    「——おはよ、チケット」
    「今日、いい天気でよかったねー! ゴメンね、待たせちゃったかなあ?」
    「うん、待ってたよ。ここ来てから始めたゲーム完クリしちゃったくらいは待ってた」
    「え、そ、それって、すっごーーく待ってたってことじゃ…」
    「バカ、冗談だよ、そんなわけないだろ。アタシもさっき来たばっかだよ」
    「そ、そうなんだね!! よかったあぁぁー! …って、ウソつくとかバカとかひどいよお、もおお~!」

     そう言って、チケットは両腕をこちらの首に回して、じゃれついてくる。
    「はいはい、とっとと行くよ」

     そういって彼女の手を引き離して、ベンチから立ち上がり、すたすたと歩き始める。
     あっ、待ってよおたいしん~、という声が後ろからついてくる。

     そして、砂場の子供たちと、はぐれ物の桜の木を後に残すようにして、アタシ達はその公園から立ち去って行った。




     それから、市街地の中心からちょっと外れた人混みの少ない郊外のエリアを中心に、特に明確な目的もなく、ぶらぶらとチケットと二人で散策した。(あまり肩肘張って、これだというコースを決めるより、気ままに出歩くのもたまには良いだろうという二人で出した結論だ。)
     
     歩きながら街角で見かけるテレビモニターの映像や売店の雑誌の見出しなんかには、今年のクラシック戦線に出走予定の有望株の特集や、レース予想なんかについての特集記事やニュースがあちこちに見受けられた。

    「あっ、見て見てタイシン! クラシック戦線大特集! だってー!」
     とある家電量販店のテレビモニター前でチケットは立ち止まる。
     モニターには、過去十数年のクラシックレースーー皐月賞、日本ダービー、菊花賞のそれぞれの様子が編集された映像が流れている。

    「!! たいしんたいしん、アタシ達だ!! タイシンとハヤヒデとアタシ達が映ってるーー!!」
    「そりゃそうなるだろ、だって去年はアタシ達が……って、あんま大声出すな、頼むから」
     いくら人通りが少ない場所だからって、こうはしゃがれて、周囲に無駄に注目を浴びてしまったりすることだけは避けたいのだが。果たしてその願いは叶うのだろうか。
    「あ、ごめんごめん、もうちょっと小声で話すから……あ、懐かしいいー!! これ、アタシが初めてダービー生観戦した年のだ……!! そうそう、この年はね……!」
     そして――そして予想通り、おなじみのダービートークが始まってしまう。

     汲めども汲めども尽きることのない魔法の泉の水みたいに、一度こうなってしまうとチケットのダービー蘊蓄の披歴はとどまる気配を知らない。
     スーパーウルトラダービーマニアのチケットは、過去、ダービーが始まって以来の膨大な量の記録が、その脳内に完璧に情報データとして集積され、アーカイブ化されている。
     こいつは大袈裟な表現じゃなく、マジな話だ。

     ――そして、それだけに留まらず、今年のクラシック期を迎える新しい世代のウマ娘たちの動向にも興味津々のようで――というか既に、相当な知識をため込んでいるみたいだった。
     テレビの特集が、新しい世代の話へと移り変わると、またチケットは新たにギアを入れ替えたような勢いでしゃべる。しゃべりまくる。
    「えっとねえっとね、やっぱり注目されてるのはこの子とこの子なんだけど! あ、でもでもあの子も凄いんだよ、それでね、この子はね……。」

     モニターに映し出された、横並びになっているウマ娘たちについて、あれこれと長い長い解説がチケットの口から放出されていった。

     アタシも有力視されてる数名の名前くらいはある程度知っていたけれども、チケットはその比では、まったくもってなかった。
     まだそれほど話題にも上がってないような成績の子たちまでの情報——デビュー時以来の戦績や、脚質、どのような気質の持ち主なのか。学園入学前はどんな学校、どんなクラブに所属していたのか、そこにはどんな指導者が在籍していたのか――なんて逸話まで数珠繋ぎに次々飛び出てくる。
     まるで口から万国旗が尽きることなくずるずる延々と引き出されていく手品師みたいに。
     はては(個人のウマスタなんかもチェックしているらしく)プライベートの好みの食べ物や趣味なんかについてまでその範囲はおよび、とにかくありとあらゆる情報が逐一インプットされているみたいだった。

     つくづくダービー絡みになった途端の博覧強記ぶりには恐れ入る。
     その気になれば普段の座学の方面でもかなりの優秀な成績を残せるだろうし、大学や院に進んで本格的な勉学の道を志すことだってできるんじゃ……とアタシですら思いそうになるが――。

     しかし、先日のチケットの小テストの点数を思い起こし、そんな胡乱な考えは瞬時に霧散する。
     あれは実に酷かった。実に。普段温和なハヤヒデが真顔になるくらいには。


     ――チケットをそのまましゃべりっぱなしにさせておくと、冗談抜きに日が暮れてしまいそうな勢いだったので、適当な所で強引に切り上げさせて、その場を離れることにした。
     名残惜しそうにしてるチケットのシャツの裾をひっつかみながら。



     歩きながらも、さっき見てたクラシック特集の余熱がまだ全身に宿っている様子のチケットは、こんなことを話してきた。
    「今年のダービーはね~、父さんや母さんや、家族みーんなと一緒に現地観戦する予定なんだー! 楽しみだなあ~、去年は一緒に見られなかったからね!」
    「そりゃそうだろうね、アンタ自身がダービー出てたんだから」
     そして勿論。そこには、アタシもハヤヒデもいたわけだが。

    「ハヤヒデも、ハヤヒデのあのすっごい妹さんがきっと出てくるだろうし、きっとごかぞくで見に来たりとかして! ……あ、ね、よかったらタイシンも、タイシンのごかぞくと一緒に見に来られたりしたら、なんかすっごい楽しくなりそうじゃない? BNW、家族大集合!みたいな感じで!」
    「……」

     こっちの家族の話まで出てきて、少し返事に窮する。
     あまりそのことついて考える気には今はならなかったから、会話の向きを変えることにした。

    「でもまあ、早いもんだよね。あれから一年近く経ってるってことだし」
    「うんうん、ほんとだよね! 今でも思い出すと胸が熱くなってくるなあ~~。あの時はほんと皆がピリッピリしてて、お互いにバチバチって火花が飛ぶ音がしそうなくらいで……! あ、もちろん今でもバッチバチに全力で競い合ってるんだけどさ、なんかやっぱり、こう……なんだろ、ちょっと気持ちの置き方が違うってゆうかさ……! ね、分かるでしょ、タイシン?」
    「——ん、まあ……ね」

     チケットの言葉はあまりにふんわりした雰囲気に依拠し過ぎていたけども。
     まあ、その気持ちも分かる。
     というかこれはきっと、単純に言語化できる類の話じゃないのだ。
     雰囲気でしか語れない事柄というものもある。

     この桜の季節というものは、常に心身共に緊張感を否が応でも強いられるものだった。心の余裕、なんてあったもんじゃなかった。

     二年前はトレセン学園の入学。
     一年前はクラシック戦線直前。
     そして、今年は――。

     今年は。うん、どうだろう。
     そうだ。ちょっと違う気もする。
     チケットの言う通りに。

     アタシ自身にも、昨年の秋ごろ、まあ色々な事があって――。それをなんとか乗り越えて、今に至っている。

     そして今年の春は、こうやってオフの日に呑気こきながらチケットと、猫のように気ままにのんびりと散歩するくらいには、心に余裕ってものがある。

     余裕——いざ言葉にするとあまりに馴染みがなく、身の丈に合わない服を着ているような感じにもなるけれども――まあ、そう呼んでいいものなんだろう。
     河にあてどもなく流されてくんじゃなく、塩分濃度30%の湖にプカプカ浮いてるレジャー気分。
     それが今日のアタシ達のテンションだ。

     ――ただ、それでも、やっぱり。
     身の置き方というものがこんなに違うのかと自分でも驚く。
     ここ数年では――いや、生まれてこの方、この時期にこれだけ心身共にリラックスして過ごせているというのは、本当に不思議な気持ちになる。
     昔なら考えられなかったことだ。

     こんな時、思い起こされるのは。
     いつぞやにトレーナーから聞かされた、ある言葉だ。


     タイシン。休める時には休んで。きっちり。全力で。
     余すところなく休んで。


     最初聞いた時は、何言ってんだコイツはと思ったものだが。
     こんな不思議な日本語を、いつの間にか、脳がスッと何の抵抗もなく受け入れていること自体が驚異だった。考えてみれば。
     冷蔵庫に何気なく張られた張り紙が、いつまでも剝がされることのないまま、気が付いたらもう何年もそこにべったり張り付きっぱなしになってるような、そんな言葉。
     それは嫌でもアタシの人生というものに、日常生活レベルで、ちょっとしたメモ書きみたいな位置をずっと占めている。冷蔵庫を開けない日なんていうものは、そうそうないわけだから。

     そして、その言葉を、意識的にか無意識的にか、もう分からないが――頭の端で住まわせつつ。
     今日というこの一日を、尻尾をぶんぶん振り回してにこやかな笑顔を振りまいてる彼女と、——このチケットと共に、過ごした。



     お昼ごろになって、とあるスイーツショップに立ち寄った。
     そこは、それほど来客が多いわけでもなくて、ほどほどに落ち着いてくつろげるアタシ好みの雰囲気の店だった。
     ちょうど春の感謝祭キャンペーンみたいなものをやっている所らしくて、チケットがうきうきした様子で、ピンク色に派手派手しくデコレートされた店内のレイアウトなんかを眺めている。

    「あ、これ可愛い~! これもおいしそーだなあ、色んなのがあるね~! やっぱり春だから華やかだなぁ、ね、タイシン!」
    「うん、まあ、そうだね」

     テーブルに置かれていたメニューを、目を輝かせながら見てるチケット。アタシも、そのメニューに書かれた品名を目で追ってみる。
     桜ミルクレープ。桜マカロン。桜ひよこまんじゅう。チェリーブロッサムパフェ。桜、桜……。
     それを見ていたら、ハヤヒデの言霊がまたしてもアタシの声帯にすうっと宿ってくるのを感じた。

    「桜の偏在だね。春の季節のオブセッションが、いたるところに行き渡っている」
    チケットがきょとんとした目でこっちを見る。
    「へんざ? おぶせ……? ラップの用語か何か?」
    「なんでもない。で、アンタどれにするの。アタシはもう決めてるけど」
    「ん? あ、えっと、どうしよっかな、えっとぉ~~……」

     それから結局、二人してベイクドチーズケーキを注文することになった。
     春の桜キャンペーンとは全く無縁の常設メニューだ。春と桜と甘さは切っても切れない蜜月の関係である以上、こうならざるを得ないという一つの必然的帰結というやつである。アタシの場合はだが。
     別に無理にアタシに合わせなくても良かったのに、と言ったにもかかわらず、チケットは、だってタイシンが食べたいのをアタシも食べてみたいんだもん~~とかなんとか返事しながら、チーズケーキをぱくついた。こっちに気を遣ってるような様子を微塵も感じさせないような無邪気な笑みを浮かべて。

     頬をいっぱいに膨らませてケーキを食べてるチケットをじっと見つめてると、飽きることがない。可愛いやつだ、まったく。

    「ん~~おいしい! ほらほら、タイシンも食べてみて!」
    「? あ、うん。いただきます」

     まるで餌付けされてる犬猫を見ていた気分で、自分の手元にも注文したものが置かれているのを忘れそうになっていた。
     フォークでケーキを口に運ぶと、甘さのない、塩気の利いたチーズの風味が口元に広がって、そのまま幸福感になって浸透していく。
     うん、確かに美味しい。

    「ね、おいしいでしょー!」
    「ん。なかなか良い味だね……てか、口元、食べかすが付いてるじゃん。ったく」
    「え、ほ、ホント?」

     紙ナプキンでチケットの口周りを拭ってやる。チケットはほんのりと頬を赤らませて、えへへごめんねタイシン、とか小声でにこやかに呟く。
     こうなると、恋人とのデート……というか、まるで小さい妹をあやしてるみたいな気分。
     それは、煌びやかな光に照らされた豪奢なデートタイム——っていうものじゃないけれど。でも、小さな蝋燭の光が二人の間にぽっと灯っているみたいな。そんな感触を、彼女の頬から、ハンカチ越しに覚えていた。

     こうして同じものを同じテーブル挟んで食べて。
     くだらないことで笑い合って。
     それは、アタシみたいな奴がこれまで得ようと思っても得られなかった――得ようとも思わなかった――そんな時間だった。とても月並みなことではあるけれど。

     そんなことを、口に広がるケーキのしょっぱさと共に感じながら。
     それを一緒に注文したブラックコーヒーで喉の奥に流し込んだ。


     その店を出た後は、本屋やスポーツ用品店にちょっと立ち寄ったりして。
     人が密集する場所を巧妙に避けるコースを選びつつ。

     アタシ達ふたりは、気ままな春色の散歩を存分に楽しんだ。




    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

     春。
     桜が辺り一面に咲き誇るこの季節。

     この季節の空気に身を浸している時。それは、上流から下流に蛇行していく河の流れに体を浸しているような気持ちになる。

     目まぐるしく変化する環境の中。
     自分のフォームをきっちり整えて、濁流を泳ぎ切らなきゃならない。
     決してその中で溺れないように、必死こいて脚をばたつかせてなきゃならない。



     例えば。春には、何があるだろう。
     そう。学校のクラス替えなんてものがある。
     新年度最初のビッグイベント。楽しく愉快なクラス替えだ。
     シャッフルされたトランプのカードみたいに入れ替わったクラスメイトの顔。
     ざっとそいつらを見渡して、最初に、真っ先に頭に浮かぶこと。
     それは。
     ――どいつが自分に対して害を及ぼす奴なのか、ということだ。

     観察。
     警戒。
     拒絶。
     頭の中でビーコンが連続して点灯する。

     これはもう、まるっきり、戦闘態勢だ。
     そんな状態で春を過ごしてきたような奴に、季節の美しさに見惚れていられる余裕なんて、どこを探せば見つかるだろうか。


     トレセン学園入学以前。
     そこで通っていた学校では、通学路の並木通りを沿うように桜の木が立ち並んでいていて、通学する生徒たちの頭上に花びらを散らしていた。
     
     新入生たちは皆一様に首を上げて、薄紅色の花弁が青空に泳ぐ様子を眺める。
     人生の門出を祝福する恩寵のシャワーのように、景色に桜色が散りばめられ、染められていいく。

     桜は美しい。

     そう思う。

     皮肉や冷笑的な気持ちとかじゃなく。
     見ていて思わず目を奪われる瞬間もある。

     でも、その美しさってものは、いったい、どこからやってくるものだろう?

     その裏側には何が潜んでいるんだろう。
     それは本当に恩寵と言えるものだろうか?

     桜の木の下に埋められているのは、不安、恐怖、怯え、猜疑心——。
     そんなもので埋め尽くされた腐葉土から養分を吸い取って。
     桜の花は今日も艶やかに美しく咲き誇っている。

     激流の最中。
     流れの中で、水面から顔を出すと、桜の木々が見える。
     それはいつも見上げるものだった。

     そんな風に思っていた。

     そしてそれは。
     トレセン学園に入学しても。
     変わることは無かった。

     ――――。


     ――――無かった。はずだった。

    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


     さて。
     そんなこんなで、時間は矢のように過ぎていき。
     そろそろ帰らなきゃねという空気が、アタシとチケットの間で、暮れ始めた春の空気の縫い目を辿って、ふたりの間に染みわたり始めた。言葉を介在させることなく。

     そして、そのまま、互いの手と手を、自然に重ね合わせた。

     もうちょっとこういう時間が続いてもいいのにね、っていう無言の合言葉みたいにして。


     歩道を歩きながら顔を上に向けると、薄墨色の夕空が青白い三日月をぶら下げているのが見えた。
     少し冷え込み始めた空気の中で、チケットの掌の感触の暖かみが、よりはっきりと感じられるようになった。
     ――そして、気が付いてみると、アタシとチケットが歩いてる道には、立派なソメイヨシノの樹木が何本も根を下ろして、はらはらと花びらをそよ風に舞わせていた。その桜並木は視界の先の先までずっと続いており、桃色の帯みたいになって伸びていた。

    「うわ~、綺麗キレイー! この辺、こんなキレーな桜がたくさん咲いてたんだねー!」
     春風に吹かれた桜の薄紅色の花弁が、くるくると旋回して、地面にソフトランディング。
     その様子は美しさと儚さをないまぜにした感傷を見るものに呼び起こす――からこそ、これだけ桜の花というのは愛されているんだろう。

     でも、その可憐な花びらが地面に落ちた後、どんな顛末を辿るのかまで気にする奴は、そんなに多くはないんじゃないだろうか。
     そんなことを思いつつ、アタシの目線は、道路脇のうずたかく積もった花弁の山に向けられる。
     昨日降った雨のせいなのだろう、道路に舞い落ちた桜の花びらはすっかり湿り切って、アルファルトの路肩にへばりついている。
     一度地面に落ちた花びらは、可憐な薄紅色の上に、茶色く濁った色素が浸透しきっている。花としての生命を失った証みたいな色だ。

    「ん? タイシン、何見てるの……?」
     チケットが怪訝そうな目をして聞いてくる。
    「地面に落ちてる桜の花びらだよ。ああなっちゃうとさ、掃除も大変なんだろうなって」

    「掃除……」
    「見てみなよ、水気を含んじゃってるから道路にしっかりこびりついてて、竹箒でも簡単には掃けないだろうし。それに、もうちょっとしてから花びらのガクが落ちてくると、これがゴミ収集の時に更に難儀なんじゃないかって……」

     そこまで喋って、チケットの顔色が変わっているのに気が付いた。
     しまった、と思った時には遅かった。

    「そっか……。あんなキレーなお花も、最後は、ごみになっちゃうんだよね。さっきまで一生懸命咲いてて、最後の力を振り絞って舞い散って――」

     チケットは立ち止まって、両耳をしょんもりと俯かせる。赤い瞳が潤んで、そこに悲しみの澱が沈んでいくのが見えそうなくらいだった。
     色鮮やかに薄紅色の花々を咲かせる頭上の樹木と、眼下に堆積した花びらの死骸。
     鮮明な生と死のコントラストの中に挟み込まれたみたいに、チケットはその場から微動だにしないで立ち尽くしてる。そんな風に見えた。
    (何を大仰な――とはならないのがチケットという子の抱えてる情動のバカデカさなんだ。こうとしか表現できないぐらいに。)

     うん。
     こいつは反省だ。
     大いに反省しなきゃならない。
     会話の向け方が良くなかった、実に良くなかった。
     迂闊だったよまったく。
     考えてもみろ、秋の落葉する紅葉のひとひらにさえもセンチメンタルな慕情を抱くことのできるような奴に、桜の花びらをゴミ扱いするような形の話題を持ち出すのはどう見ても失策なんだ。
     春のぬるま湯みたいな空気に脳が揺蕩って、その辺の判断もおろそかになってしまってたのかもしれない。

     何か。
     チケットに何か言わなくちゃならない。
     そう思って、頭の中から言葉を何とか引きずり出す。
     地中深く、硬く埋まったサツマイモをずるずる引っこ抜くみたいにして。
     そして、チケットの肩に手を置いて、話しかける。

    「チケット。元気出しなよ、大丈夫だよ。アタシの話をちょっと聞きなって」
    「タイシン……?」

     そして、一気に言葉を吐き出す。

    「桜の花はさ、どれだけ散っても、また来年咲くんだからさ。——そういう季節のサイクルがグルグル回りながら続いてく、えっと、なんだろ、そういう円環の果てない流れの中にさ、なんていうかさ、こう、生命の尊さってやつがあるんだよ。そう思えば何も悲しむことなんてないんだって、うん。マジな話さ」

     自分でも意味がちゃんと分かってるのか怪しい、とにかく無駄に小難しい台詞を口から勢いで放出して、なんとかチケットを宥めすかそうとする。
     チケットは、口を半開きにしてこっちを見つめている。

    「? えんかん……?」
    「えーっとさ、つまり、競技場のトラックみたいに輪っかになってるってこと。その輪の中をどれだけ走ってもどこかに幕引きがあるわけじゃないって事で……あ、いや、レースならゴールはあるんだけどさ、でも、アタシらが一度そこを走り抜けても、そこで終わるわけじゃないんだ。一つのレースが過ぎ去れば、必ずまたいつか次のレースのファンファーレが鳴るってわけ。そうでしょ? だからさ、それは桜の花も同じことで……あー、……ともかく、アタシが言いたいのはさ、うん、大丈夫だってこと!」
    「……」

     とにかくまくし立てるように、チケットに矢継ぎ早に言葉を放つ。
     普段こんな一気にべらべら喋りまくることが滅多にないもんだから、喉につっかえ棒が入ったみたいにひきつった感じになる。
     マジで疲れる。
     でも今はチケットの萎れた情緒に言葉のシャワーをひたすら浴びせかけるしかない。
     それがどれだけ支離滅裂だろうとも。

     チケットはこっちの勢いに気圧されたみたいで、しばし呆然となりながらも、次第にその表情に明るさが戻ってくるのが分かった。
    「……なんか、わかったみたいな、ぜんぜんわかんないみたいな感じなんだけど……でも、そうなんだね! とにかく、タイシンがそう言ってくれるなら、大丈夫ってことなんだよね、うん……!!」
    「そうそう。アタシが言うんだから絶対間違いない」
     とにかく無理やりにでも押し通す。

     チケットは、そっか、そうだよね、とか言ってはにかみながらも、その表情は笑顔100%とまでは言えず、そこはかとない寂しさと切なさの成分が含まれているように見えて。
     それはアタシの心の中にちょっとした罪悪感の影を落とした。

    「さ、ほら、行こうよ。まだ今日って日は終わってないんだから、まだまだずっと続いていくんだからさ」
    「さっきゆってた、えっと、エンカンってこと?」
    「そういうこと。たとえ今見えてるあの太陽が沈んで、今日という日が終わっても、また明日には陽が昇って、新しい一日が始まる。アタシらはそういうひとつながりになった、絶え間のないポンデリングみたいな輪の中にいるんだよ」
    「ポンデ……なんか美味しそう……! あ、でも、齧っちゃったら、もう輪っかじゃなくなっちゃうよね」
    「うん、まあ、それはそうだね。食べて輪が途切れたら、そこで終わりが出来ちゃうからね」

     そんなぎくしゃくした、幽霊みたいに実態の希薄な会話を挟みつつ。
     その場から再び歩き始めた。
     アスファルトにへばりついた桜の花弁をスニーカーで踏み潰しながら。


     それからは、なんとか気分を紛らわすために、ゲームだとか音楽だとか、適当に話題を繋げつつ、二人で桜並木をとぼとぼ歩いていった。
     時折、風がぴゅうっと吹き付けて、地面に折り重なった花びらが、ブレイクダンスのウインドミルみたいにくるくると円を描いて舞い踊っていた。

     そして、そんな感じで歩きながら。
     しばらく経った後。
     
     チケットが歩道の途中で、また、ふと立ち止まった。
     とある方向に視線を釘付けにしている。
     アタシもその方向を見やると――。

     桜並木の途中。
    「作業中につき立ち入り禁止」の立て看板とコーンで区切られたスペースの中で、おそらく剪定業者と思わしき、カーキ色の作業服を身にまとった初老の男性が、高所用の脚立に跨りながら、枝切りバサミを桜の枝に入れている所だった。
     チケットは一言も発せずその様子に目を奪われている。
     ばちん。ばちん。
     鋭い音を立てながら、男性の手慣れた手つきによって、次々と裁断されてぱさりと道に落ちていく枝木。
     美しく流麗に伸びた髪が美容師にカットされていくみたいに、どんどんとその形を短くしていく。

     桜の剪定か、何だか珍しい光景だなあ――くらいのぼんやりした気持ちで、アタシもその様子を見ていた。
     その刹那。

    「桜、切っちゃうの!?」

     真横からの突然の悲鳴。

     普段よりも驚愕と悲愴感が3割増しくらいアンプリファイされたチケットの声が、春の街路中に響き渡って拡散されていく。
     すぐ傍にいたこちらも春の陽気に弛緩した意識が弾け飛ぶくらい驚いたが、数メートル先の脚立に登っている男性も何事かといった様子でこちらにさっと振り返る。
     その拍子で瞬時、脚立の足場が少しぐらつくのが見えた。

    「——バカ、何いきなり大声出してんだ! 高所作業中の人がいるだろ!」
    「え? あ、あ…」

     幸い、男性はすぐ体勢を立て直したみたいだった。それでもチケットは一目散にその桜の木の下に走り寄っていき、アタシもその後を追いかける。

    「あのっ、だ、大丈夫ですか…!?」
     チケットが木の下から、二メートルほど上方に向かって声をかける。
     真上を見上げると、枝葉を潜り抜けた太陽の光が、目を痛いほどに眩ませてくる。


     ごめんなさい、突然あんな大声出しちゃって本当にごめんなさい、とチケットは何度も謝り、そのたびに赤い瞳からぽろぽろと涙が零れた。テニスボールみたいに地面をぽんぽんバウンドしそうなほどの大粒の涙だった。

     脚立から降りてきた男性はきょとんとした顔をしていて、何をそんな泣きながら謝られているのか最初分かっていないような様子だった。それから、ああさっきの大きい声出してた子かね、と破顔しながら言った。

    「あの、ホントにごめんなさい……ケガとか、ありませんでしたか……?」

     見た目はアタシの祖父母と同世代くらいの年齢に思えるその男性は、いやいや何も無かったし気にせんでもええよ、嬢ちゃん元気だねえ、とかそんなことをしゃがれ声で言った。笑みを浮かべると深く刻み込まれた皺が、彫刻刀で削られた版画のような印象を与えた。
     それを見たチケットも一安心したのか、少しずつ泣き止み始めた。


     それから、ちょっと話を聞いた。

     桜の枝が道路側に伸びすぎていて交通の妨げになっていて。
     やむなく一部の枝を剪定しなければならないという行政からの発注があって。
     まあそんな具合でなんとかかんとか。
     ――ウチらとしては仕事だからやるだけやけど桜にとっちゃ迷惑だわなあ。
     男性の、歯が何本か欠けている口から発せられる声の響きは、春の日差しのようにゆったりと穏やかだった。

    「……そっか、そうなんだ。どうしようもないんだね」
     そう言ってチケットはしょんぼりと俯く。

     どうしようもない、か。
     何事も最後の最後まで諦めない、とにかく全身全霊!! がモットーのチケットの口からそんな言葉が出てくるのを聞くと、こちらの両耳まで、晩夏の向日葵みたいに項垂れそうになってくる。


     チケットも高等部なんだし、流石に分かってはいるだろう。
     それがどれだけ美しいものだろうと、樹木から落ちた花びらは、そりゃいずれは誰かが掃除しなきゃならない。
     萎れて汚れた花弁が収集され、まとめて可燃ゴミに出されるおかげで、アタシ達は綺麗で清潔な歩道を歩くことができる。
     枝木が通行の邪魔になってるんなら、切り落とすしかない。
     そんな道理そのものは、いくら彼女でも分かってるに決まってる。
     決まってる、けれども――――。

     どうもいけない。
     なんだかさっきから桜絡みでツキがない。
     まあ、そんな日もあるんだろうけれども。
     しかし、それでも、チケットの耳が垂れ下がるのを間近で何度も見ることになるのはあまり愉快な気分じゃない。
     もうさっさと学園に戻って、二人でトラックを一走りでもしてこんなアヤの悪さをとっとと振り落としてしまおうか。
     そんなことをちょっと思い始めていた。
     今日はとことん休むって決めていたにもかかわらず。

     ――すると。
     男性はおもむろに地面に落ちている桜の枝の切れ端を一本拾い、よかったらこれ持ってくかい、と、しょぼしょぼになってるチケットに差し出した。

    「え、で、でも……切られちゃってて、この子……」
     狼狽えてるチケットに、ため息を付きながら言う。
    「大丈夫だよ。こういうのはちゃんと枝を水に浸しとけば、花としてはちゃんと生きるから」
    「え、そうなの!? あ、ありがとうございます、いただきます!! ……って、ま、また大声出しちゃって、ごめんなさい…! あはは…」
     はは、と彼も歯抜けの口元を綻ばせながらチケットに枝を手渡す。
     それは何だか、おじいさんが久々に会う孫へのプレゼントを渡している光景のようにも見えた。


     本当にありがとうございましたー、お仕事がんばってくださいねー、チケットはそんなことを初老の男性に向かって言いながら、手を振り続けて。
     そんなこんなで、その場を後にした。



     陽も徐々に落ち始め、街灯が仄かな明かりを春の大気の中に灯し始める中、アタシとチケットは寮に向かう帰路をとことこ歩いていく。

    「ね、タイシン」
    「何」
    「アタシさ、おっきな声出すの、気を付けるよ……前からずっとさんざん言われてるのに、今日もこんなことになっちゃって……いや、とりあえずはだいじょうぶだったにしても……、うん」

     大分元気は取り戻しつつあるものの、アタシが迂闊に口にした桜のゴミの事に加えて、さっきの剪定業者の一件も、まだかなり応えてるみたいだった。
     相も変わらずエネルギーに満ち溢れ過ぎてる行動を繰り返す奴だけども。
     でも、越えてはならない危険水域というものはしっかり分かってるのだ。
     ぽんぽんとチケットの丸くなった背中を数回軽く叩きながら言う。

    「ま、今日のことは今日のことでしっかり反省すりゃ良いし。かといって、必要以上に引き摺り続けるのもアンタらしくないよ。ひとまずは何も無かったんだからさ」
    「うう、ありがとタイシン、やっぱり優しいなあ……。——あのさ、考えてみたらアタシ、タイシンやハヤヒデ達にも今までメーワクかけてたかもしれないんだよね。今更になっちゃうけど、ホント、ゴメンね……」

     急にこちらに話の矛先が向いて、ぎょっとする。
     そりゃまあ、毎日のようにチケットの大声を耳にダンクシュートされる生活を送ってるのは事実にしても、だ。
     なんだか突然そんなことで直截的に謝ってこられると、格段に奇妙な、ガタついた気持ちになってくる。
    調律師を早急に呼ばなきゃならない調子外れのピアノみたいになった気分。

    「……何を言ってんだか。ほんとに今更だよ、アンタからそんな事言われるとこっちも身体痒くなってくるっての。もうその辺にしときなよ、——ほら、折角良いもの貰ったんだしさ、気ぃ取り直しなって」

     キーが外れた鍵盤の様な声を出しながら、チケットの右手に握りしめられてる、桜の木の枝を指さす。

    「あ! そうだ、そうだった、こんなステキなものを貰っちゃったんだ…! えへへー!」

     幾分抑え気味とはいえ、早速また大きな声を出して、おもちゃを買ってもらった子供のように、途端に目をキラキラさせ始めるチケット。
     落ち込む時はとことんダウナーになるが、こういう気持ちの切り替えの早さもつくづく神業的だ。

    可愛いなあとか綺麗だねえとか、チケットは道を歩きながら延々と枝に話しかけ続けている。まるで小さな赤子をあやすみたいにして。

    「こら、ちゃんと前見て歩けっての。車道にはみ出そうになってるじゃん」
    「おっとと、ごめんごめん!……あ、タイシン見て! ここ、ちっちゃいつぼみがついてるよ。可愛いね、これからがんばって芽吹くところなんだねえ!」
    「たく、ちゃんと話聞いてんのかって……」

     そう言いながら、改めて、チケットが持っている桜の枝を見てみる。
     枝の長さは直径20㎝ほど。
     中心の枝から更に3方向に枝分かれした先に、随分とたくさんの花弁が顔をのぞかせている。
     そしてチケットの言う通り、まだ蕾のままのものがいくつか、毛布にくるまり眠りにつく幼な子のようにして、枝にくっついている。

    「なんだか不思議だなあ。おっきな桜の木ももちろんすっごいステキなんだけど、こうやって小さな枝として間近に見てるとさ、違うモノみたいに目に映るっていうか! ねえ、タイシン、いきものってスゴイんだねえ……! そう思わない……!?」
    「いや、よくわかんないけど……」
     いきもの。
     桜の花に対していささか妙ちくりんな表現だ。
     まるで深淵な生命の神秘を眼前に見ているような、陶然としたテンションにさえなって、目を潤ませているチケット。
     桜を見るってだけでどうしてそこまで大袈裟なスケール感を会得できるのか、そっちの方が不思議なくらいだ。

     実家の商売柄、樹木や花なんて嫌というほど見てきてはいるけれど、桜の枝というものには正直馴染みがなかった。(うちのような個人経営の店が扱うのは、観賞用や贈り物のアレンジメントなんかに使われる小ぶりなサイズの花々に限られるからだ。)
     実際、桜の枝というものは、こうして見ると生命のエネルギーとでもいうか、そんなものがこんな小さな枝から発散されているような気さえしてくる。

     地面に植えられているんじゃなくて、チケットの右手に握りしめられてる、桜の枝木。
     可愛いなと思った。 
     なぜだろう。
     ――そこには、かつて自分が桜の木に抱いていたような、不穏さを思わせるようなものは、どこにもなかった。

     そんな風に枝をじっと熱心に見ていたこちらに気が付いたのか、チケットが突然こう言った。
    「? どうしたのタイシン、この子のこと、気になる……?」
    「え? いや、別に……ただ、フツーに、綺麗だなって思ってただけで……」
     そう返事をしてもチケットはますますこちらの目を深く覗きこんできて、そして柔らかい笑みを浮かべながら言う。
    「——良かったらさ、タイシン……!これ、タイシンに……」
     そしてチケットが、こちらに向かって枝を差し出しそうな素振りを見せたので、慌てて手を振る。
    「いやいや、いいっていいって。アンタがあのおじさんから貰った大事な枝でしょ、アンタが持ってなって」
    「え、でも……」
    「ほんとに良いんだって。……なんかさ、上手く言えないんだけど、それはさ。アンタに持っててもらいたいんだよ」
    「——? そ、そっか……そうなの……かな?」
     チケットはあまり良く理解できていない様子で、枝を持つ手を引っ込める。

     そうだ。さっき自分は、なんて言っただろう。

     ――綺麗だなって。

     そんな言葉が出てきたんだ。
     ごく自然に。


     まあ――そんなこんなで。
     二人してまた他愛ない会話を繰り広げながら歩いて、次第に市街地から離れて。

     少しずつ周囲の人々の喧騒も収まっていって、——寮へ到着するまで、残り十数分ほどというところまでやってきた。

     この辺りまで来ると、学園外の走り込みをしているトレセンの生徒たちの姿が、まばらに見えるようになる。
     この時間帯でも、息を切らしながら懸命にランニングに励むウマ娘たち。
     すれ違った一団は、新入生と思しきフレッシュな雰囲気が漂っていて、各々が気迫のこもった顔つきで、声出ししながら走っていた。今日一日オフをだらりと満喫(満喫? ——まあ。一応、そう言っても罰は当たらないだろう)したアタシ達二人とは好対照を成す光景だった。

     そんな彼女たちの様子をじっと眺めていたチケットが、そわそわした浮き足立った様子で、言った。
    「……ね、タイシン! アタシ達も――」
    「今日はダメ」
     即答する。
    「えー、何で~! てゆうか、まだぜんぶ言ってないよおぉぉー!」
    「言わなくても分かる。あの子らに触発されて走りたがってんでしょ。アンタ、いったんそうなったら、結局そのままマジのトレーニングになっちゃうじゃん」
    「……ダメ?」
    「ダメ。今日はキッチリ休むって言ったでしょ、メリハリつけないと。その分明日から全力ぶっちぎりで頑張りまくれば良い」
    「……あ、そっか、そだよね! 全力ぶっちぎりで!」

     チケットはその言葉が気に入ったのか、うおおーぶっちぎりだぞーとかそんな事を楽しそうに叫んでいる。右手の桜の枝をぶんぶん振り回しながら。
    「よーし、じゃあ今日は最後まで全力ぶっちぎりで休んで……、ん……?」
     チケットは途中で言葉を途切れさせた。とある方向に気を取られている。
     その目線を追っていくと――。

     道路脇で、壁に背を持たれかけて俯いている、小柄なウマ娘が一人。
     そこに立っているのが見えた。
     チケットは彼女の方にずっと視線を注いでいる。

    「——、どうかしたの、チケ——」
     そう言い終わる前に。
     猛ダッシュでチケットはそのウマ娘のところに走り寄っていった。要救助者を発見した海辺のライフガードみたいな勢いで。

    「ねえ、君! 大丈夫!? どこかケガとかしてない!?」

     アタシもチケットの後を追って、少女の所までやってきた。
     そして、壁際にもたれかかっているその姿を間近で見る。

     アタシよりわずかに上背が勝るか…というくらいの、まあ大柄とはとても言えない、線の細い体躯のウマ娘で、壁面に寄りかかっているその姿は、激流に流されまいと必死に岸にしがみついてる小動物みたいな印象を与えた。
     右耳に開けられたシルバーのピアスが、落ちかけた夕陽を反射させて、鈍く赤い光をこちらにチカチカと投げかけている。

    「……、ウイニングチケット先輩……?」

     チケットに声をかけられて、こちらに向かって頭を上げる。顔に、柳の枝ようにしなだれかかってる黒髪の隙間から、切れ長の目が、鋭利なナイフみたいな光をぎらつかせながら、こちらを見つめていた。

     一人で自主トレのランニングでもしていた所なんだろうか。
     額から首筋に至るまで汗の粒で覆われていて、肺から乱れ切った息を吐きだしている。枯れた樹木の間を通り過ぎる冬の木枯らしみたいなガサついた音を立てながら。
     練習のペース配分なんてものをロクに考慮に入れていない、無茶ぶりな様子が傍目からでも見て取れる。

    「……。また、ですか、先輩。私のことなんか、放っておいてくださいって、言ったはずです」
    「でもでも!! またそんな頑張り過ぎちゃって、大きなケガをしちゃったら大変だよ……!」

     二人の話しぶりは、明らかに初対面同士のものじゃなかった。まあアタシの知らない所でチケットが交友範囲を広げてるのはいつものことではあるけれど。

    「え、何。アンタ、この子のこと知ってんの?」
    「うん! まだ新入生の子なんだけど、——ていうか、タイシン、おぼえてない? この子のこと」
    「……は?」

     突然チケットからそんな事を言われて戸惑う。まるでアタシも以前彼女に会ったことがあるみたいな口ぶりだ。
     もう一度その、アザミの花のように細い棘を全身に纏わせてるような顔を見てみる。……うん、やっぱり、どうにも覚えがない。
     というか。
     新入生?
     確かにまだ幼い雰囲気も漂わせてはいるけれど。
     正直、少し驚いた。
     彼女の脚部には包帯があちこちに巻かれているし、疲弊感が身体中のあらゆる皮膚という皮膚から発散されている感じだ。
     学園に入学して日が浅い時期に、こんな状態になっているというのは、チケットじゃなくても流石にぎょっとさせられる。


     ――そして、その痛々しい姿をじっと見ていたら。
     突然、急速にアタシの記憶が、数週間分ほどの巻き戻しを開始させて。
     とある地点の情景を脳内に浮かび上がらせた。




     あれは確か、今年の入学シーズン直後くらいの、ある日のことだ。

     その日の午後、トレセン学園新入生の入学の壮行会みたいな名目で、新入生たちの模擬レースが開催された。芝1600メートル、右回りコース。
     アタシはそれを、チケットやハヤヒデと一緒に見ていたのだ。(新入生のピカピカの可愛い子たちがいっぱい出てるよ~、見に行こうよ~! とかチケットに半ば強引に誘われて。)

     そのころは、遅咲きの桜は開花していなくて、まだ枝に蕾を膨らませているような、そんな時期のことだった。
     まだ正式なトレーニングも何も始まっておらず、それほど本格的な競い合いといった性格のレースじゃなかったと記憶しているが。
     そこに選抜されたウマ娘たちの中で、一際目立つ存在がいた。

     それがこの少女だ。

     彼女はレースのスタート直後から一気に抜け出し、バ群の先頭に位置取りして、そのままハイペースでレースを進めていった。
     先陣を切る彼女が折り合いの付いたレース運びも何もあったものじゃない走り方をしてて、後方集団もつられてペースを攪乱され、随分とグダったレース結果となったことを覚えている。

     そして何よりも覚えているのは――。
     その長い黒髪を靡かせながら先頭を疾走する、彼女の、その姿だ。

     結果、まあ誰もが予想したように、彼女は4コーナーを回って直線に入るころにはすっかりスタミナを失い切って、ずるずると後方に下がっていった。細かい着順までは見ていなかったけれど、散々な結果だったであろうことは明らかに見て取れた。

     まあ、レース結果はともかく。
     確かに、抜きんでて強い印象を与える子だったことは確かだった。
     何かしら可能性を感じさせるような――でも限りなく危ういものを内に秘めてもいる。そんな感じだ。

     随分遠目から眺めていたから、彼女の顔なんて分からなかったし、だからすぐには思い出せなかったけれど。
     ターフを無軌道に突っ走るその姿——そのシルエット的なものは、確かに記憶のどこかに焼き付いていたのだ。
     そしてその記憶は、今、眼前の少女の痛ましい包帯の姿と結びつくことで、ようやく一つのイメージとなってアタシの目の前に立ち現れた。

     ――そして、そんな彼女の姿は。
     とある既視感をアタシの体内に沸き立たせた。



    「うん。思い出した。——そっか、あの入学早々の、模擬レースの時の奴か。あのムチャな走り方してた、あの」
    「そうそう、あの時の子だよ! あれからも、こんな感じで無理なトレーニングしてて、心配になって声かけたことがあるんだけど……」

     アタシが彼女を見かけたのは結局それっきりだったのだけども、チケットは、あの模擬レース以降も、彼女と顔を合わせたことがあったみたいだった。

    「——ね、ほら、いったん保健室に行った方が良いよ。ケガが十分治りきってないんでしょ? そんな状態でトレーニングを重ねたら、ますます悪くなっていっちゃって……」
    「大丈夫ですから。かまわないでください」

     チケットの心配そうな声を掻き消すようにして、少女が声を出した。
    「……私は私のやりたいようにやってるだけです。それにこんなの、ハードワークのうちにも入らないし、まだまだ、もっと……」

     呼吸が未だに整わない中、気丈に言葉を返す少女。
     でもそれは勇猛果敢さというよりも、痛々しさの方が数倍勝っている類の言葉だった。
     それを見ていて、思わずアタシも口を出してしまう。

    「いや、チケットの言う通りだよ。それ以上無茶しない方が良い。そもそも、もうバテバテになってるじゃん、アンタ。これ以上どんな事がやれるってわけ?」
    「……!」

     彼女は、俯いた姿勢のまま、目だけをぎろりと上向かせて、こちらを睨みつける。
     そして、荒れた息を切らせながら、こんなことを言った。

    「……ふん、呑気なもんですね、シニア期のスターウマ娘ってのは。……これからまだ大事なレースだって控えてるはずなのに、そうやってふたりしてデートですか。随分お気楽ですね。私は、私には……、そんな余裕なんて、無いんです。あなた達にとやかく言われる筋合いなんて、ない」

     ほう。
     大した度胸だ。
     思わず腕組みをして、感嘆の息を吐いたりなんかしてしまう。

     この時期の新入生は、先輩格のG1ウマ娘(なんて自分で言うのもこそばゆい感じだが)を間近に見ようものなら、感激で目をキラキラ光らせるか、恐れおののいて萎縮してしまうような子がほとんどだ。
     これほど挑発的な態度を臆面もなく見せつけてくる奴は珍しい。
     それだけでも、この少女はアタシの興味を惹いた。
     鋭い風が、瞬間、頬を掠めていくみたいにして。

     そんな、第三者から見ればそれなりに剣呑な、ピリピリした空気が張り詰めてると言えるであろう状況の中。
     隣のチケットが、ライトグリーンの内耳をピョコピョコ動かしながら言った。

    「え、で、デートに見えるかなあ、やっぱり!? いざそうやって言われちゃうと照れるなあ~……!! ね、タイシン!?」
    「反応するとこ、そこか。バカかアンタは」
    「あ、またバカって言ったー! 今日これでもう3回目だよおぉ~、あんまり言わないようにするってゆってたのにー! ……でもでも、タイシンもちょっと嬉しかったりしたんでしょ、ほら、ほっぺがちょっと赤くなってるよー?」
    「バーカ、夕陽だよ、夕陽が差してるだけだっての。ははっ」
    「あ~っ、もう、4回目なんだからー! このこのー! あはは~!」

    「…………」
     精一杯の強気を見せたつもりが華麗にいなされ、バカップルのコントに昇華されていくのを目の当たりにした少女は、返す言葉も見つからなさそうで、戦意を幾分か喪失したのか、ふうっと深い息をついた。
     その様子を見たチケットが、すかさず畳みかけるように少女に大声で呼びかける。

    「ね、ほらほら! そこのベンチに座って、ひとまず休も! タイシン、この子ちょっとお願いね……!  今、お水買ってきてあげるからねー!!」
    そしてチケットは、近くに見える自販機にすっ飛んでいった。

    「え……だ、だから、構わないでって……」
    「無理だよ。アンタは既にチケットの術中に、頭から爪の先まで完全にハマってるんだ。そう簡単に逃げられると思わない方が良い」

     そう言って、少女の肩にがしっと腕を回して、強引に近くのベンチまで連行していく。

    「あ、な、何するんですか、あ……」
    少女の足腰はヨレヨレでへばりきっていて、本当に必死の強がりを吐いていたことが改めてよくわかる。
    「たく、こんな状態でよくあんなイキった事言えたもんだ、大した根性してるよ」
    「うるさい、うるさい……私に指図しないで……」
    「はいはい。……ほら、ここ座るよ。ゆっくり呼吸のリズム調整して……うん、そう、落ち着いて」

     二人してベンチに腰を落としてから、彼女の背中を軽くさすって宥めてやって、 とにかく荒れた息を沈めてやる。

     少し呼吸が安定してきて、クールダウンできてきたかな…と思い始めたころに、お待たせええーー!! という嬌声と共にチケットが飛び跳ねるようにして(文字通りジャンプしそうなくらいの勢いで)、ペットボトルを携えながらこっちに戻ってくる。
     ちょうど少女を挟み込むような形でチケットがベンチの向こう側に座って、はい、これっ!  とミネラルウォーターを彼女に差し出した。

     少女は無言のまま、チケットに手渡されたボトルの蓋を乱暴に開けて、一気に水をがぶがぶ飲んでいく。     
     身体の渇きにはどうあっても逆らう事ができない、というような様子で。
     少女は途中で派手にむせ返って、げほんげほんと咳をする。吐き出された水がジャージに飛び散って薄い染みを作る。

    「ああ、そんな勢いよく飲まなくても大丈夫…!ゆっくり落ち着いて飲んでね、何も心配ないからね。大丈夫、だいじょうぶだから……!」
     チケットが優しく声をかける。それを聞いた彼女は、チケットの方を見て、軽く頷いた。
     その言葉は、彼女に初めて、落ち着きというものをわずかに取り戻させた……そんな風に見えた。

     チケットの言葉というのは、こういう傷ついた体や精神の間隙を縫うようにして、全身に浸透していく。それこそ、透き通った真水みたいにして。
     別に含蓄のあるような、気の利いた言い回しをするでもないけれども。
     不思議なものだよね、まったく。

     そうして少しの時間の間、3人は無言のままそこに座っていた。
     周囲の陰りは徐々に濃くなってきて、夕闇の寂しさに色どりを沿えるようにカラスが遠くでかあかあと鳴いた。

     そして、幾ばくかの沈黙の時間の後。
     最初に口を開いたのはチケットだった。

    「うん、大分落ち着いてきたみたいだね。……良かったね!」
     チケットは、とても優しそうに、にこやかに少女に微笑みかける。

     そして。
     少女が、アタシ達の方に顔を向けて、言葉を返してきた。そしてそれは、先ほどとはずいぶん様子が違っていた。
    「先輩。……ありがとう、ございました。——それから、さっきは、すみませんでした……。私、尊敬してる先輩方に、その……ひどい事、言って……」

     酷い事、か。
     全身に張り詰めてた緊張感が緩和され、心の弱さが滲み出てきてるせいなのか。
     なんだか急に殊勝な態度を見せ始めたな、とも思った。

     ――というか、ん? 何だって?

    「尊敬? アタシ達を?」
     思わず問いただすようにして声をかける。チケットも耳がピンと立っていて、驚いているみたいだ。
     彼女は再び俯き、唇を噛む。
    「——はい」
     それからぼそぼそとこんな言葉を返してきた。

    「……ウイニングチケット先輩も、ナリタタイシン先輩も、ずっと憧れです。ビワハヤヒデ先輩も。……私は、あの年の、BNWの皆さんの、クラシックレースの活躍を見て、本当に感動して……あんな風に走りたいって……心の底から、思ったんです」

     それを聞いたチケットが、ベンチから勢い良く立ち上がって、喚起の声を上げる。その拍子に右手に持っていた枝から、花びらが一枚、ふわりと宙を舞った。

    「——そうなんだ、そうだったんだ!! わあ~、なんかすっごい嬉しいなー! ね、タイシン、すごいよね! アタシ達のレースがこうやってさ、後輩の子たちにも感動を与えてたんだって思うとぉ…うん、やっぱり感動だよー! あ、ハヤヒデにも後で教えてあげないとね!」

     チケットはひとしきりはしゃいでいる。
     まあ、物事の良い部分を素直に受け止めて素直に喜べるのはチケットという子の持つ一つの美徳だ。そしてアタシも彼女のそういうところが好きだ。ウソ偽りなく。

     しかし、それはそれとして――そんな盛り上がってるチケットには申し訳ないが――会話にちょっとした水を差させてもらうことにする。

    「——それにしては、さっきは随分と可愛い事言ってくれてたじゃん、そのリスペクトしてる張本人にさ」

     ぴくっと少女の身体が反応して、右耳のピアスがちゃらりと音を立てる。

    「あ、タイシン、もう……! そんな風に言わないで上げて、きっとこの子にも何かこう、ワケがあるんだよ! ね?」

     まあ、こっちも別に本気で憤ってる訳でもないが、おそらくそこは彼女のメンタルの核心部分のはずだ。 ここまで付き合った以上、そこはどうしても確認しておきたい気持ちがあった。

     それから、彼女は臓腑から絞り出すようにして、声を出し始める。

    「そうですよね。先輩の言う通り、とんでもなく失礼なことです。でも、私は、ここに入ってから、ずっとそんな風に思ってやってきました。私は誰よりも強くならなきゃいけない、じゃないと、そうでないと、私は、自分を――」

     自分を、支えきれないから。

     搔き消えていったその言葉の続きが、そのまま春の夕暮れの中から聞こえるような気がした。

    「——一度、ここに足を踏み入れたら。……そしたら、もう。全員が、敵なんだって。そう思ってます。どれだけ尊敬してる相手でも、はるか雲の上の先輩だろうと。それは、同じことです」
    「敵……」
     チケットが、ぽつんと一言つぶやく。消化しきれず口から出てしまった石ころみたいな響きを伴って。

    「私は、私自身のことは分かってるつもりです。自分にはそこまで図抜けた走りの才能もフィジカルも備わってないんだって。そんな中で勝ちぬいてくためには、自分を絶対甘やかしちゃいけないって思いました。だから――」


     敵。
     それが、どれだけ尊敬しているウマ娘だろうと。
     レースで競い合って戦う以上、周りすべてが、敵。
     全員、倒すべき相手。
     だから誰とも馴れ合わない。
     愛想も見せない。
     とことん。どこまでも。

     シンプルな世界観だ。
     シンプルさは、明確な力につながる。
     澱みのない、真っ直ぐなベクトルのエネルギーに。
     ――ただそこには、犠牲を伴う。
     直線過ぎる動きだけでは、制御しきれない歪みみたいなものが、必ず生じる。
     そして彼女はその歪みの真っ只中にいる。おそらくは。

    「……だから。私は、やりたいようにやる。これは私の身体なんだから。そうやってやるしかないんだから。——今日お世話になったことは感謝してます、でも、もう……私に関わらないでください。今、ここで止まるわけにはいかないから。それを邪魔する権利は先輩方にはないです……ないはずなんです」

     少女はあらかた内面を吐露しきったのか、再び黙りこくって、果てしない疲労の海に沈んでいくみたいに見えた。

    「……」
     チケットは、耳を垂らしながら、ただ黙って彼女の顔を見つめている。
     彼女にかけるべき言葉を、必死で頭の中で探してる真っ最中なのかもしれない。
     チケットの生きてる世界の色と、彼女の見えてる世界の色とは、おそらくずいぶんの乖離がある。
     その二つを混ぜ合わせても、それは美しい均整のとれた鮮やかな色彩には、そう簡単にはならないってことを、チケット自身が。良く知っているんだろう。

     だからこそ、彼女は悩む。
     葛藤と逡巡。
     彼女の中でとぐろを巻いてのたうち回る。
     辿るべき道筋を探して。
     チケットの顔は、瞳の色は、そのぐるぐると回転し続ける感情の惑いをそのまま写し取っているみたいに見える。

     この子は、そういう子なんだ。

     ――だから、最初にアタシが口火を切ることにした。
     この手の話に関しては一日の長があるつもりだから、まあ仕方のないことだ。

    「——ま、確かにね。そりゃアンタの自由だよ。これから先もどれだけ身体を酷使して、無理くりで、無益なトレーニング積もうが、アタシらがそれに口挟む道理は無いのかもしれない。好きにすればいい」
    「タイシン……!」
    「アンタの言いたいこともそれなりに分かる。そういう排他的な態度も、一種の勝負根性としてレースに生かせれば、案外良いとこまで行くかもしれない」
    「……」
    「——でも」
    そこで一呼吸置いて、続きの言葉を一気に吐き出す。

    「でも。今の状態じゃ、そこまで行けやしない。スタートラインにすら立てない。いや、アンタがそれで良いってんなら良いんだよ、勿論。自分の限界もロクに把握できてない状態でエンジンをフルスロットルにさせっぱなしにして、発展途上の身体を焼きつかせてブッ壊して、泣きを見る羽目になるのも。それもアンタの自由。デビュー戦の出場すら出来ず、涙目で退学届書いて、学園を去っていくのも。——そういうのがアンタの選ぶ道だっていうんなら、それで良いんじゃないの」

    「——、……っ」

     彼女は、重い石を喉につっかえたようにして、苦し気な様子を見せる。
     きっと、本人だって嫌ほど分かってるんだろう。
     今、自分がとことんドン詰まりの状況で、そこから抜け出す方法が見つからないってことが。
     だから、計画性も何もなしに、無暗に身体を苛め抜くことでしか、不安や恐怖と拮抗することができない。

     今更だが。
     本当に、彼女を見ていると。チケットじゃないが、なんだか全身に痛痒感が走るのを覚えずにいられない。
     数年前のちょうどこの季節、学園内の廊下。
     トレーナーとチケットと一緒に、シンボリルドルフ会長からある事を告げられていた、あの日の情景が頭に浮かび始める。

     ――――そんなしみったれたつまらない昔の思い出なんぞをとっとと追い払ってから。
     アタシはスマホを取り出して、とある連絡先番号を表示させてから、それを少女に見せて、言った。

    「今のアタシのウザい小言を聞いて、少しでも思う所が何かしらあるんなら。ここに連絡してみなよ」
    「……え」

     少女は、思いもかけなかったであろうこちらの行動に、少し戸惑いを見せる。
     チケットも、アタシのスマホ画面を覗きこんでくる。

    「? この番号って…」
    「うん。アタシのトレーナーの携帯」
    「え!? タイシンのトレーナーさん、この子と契約するの!? 」
     チケットの素っ頓狂な声が響きわたる。

    「いやいや。アイツはアタシの専属だから、それは無理。ただ、相談には乗ってくれるだろうし、アンタがもっと真っ当にトレーニング出来る道筋を考えてくれるとは思う」
    「……相談……? 私の……?」
    「そ。アンタみたいな一匹狼メンタルウマ娘の相手するのは、異様に得意だからね」
    「……」
    「アタシからも、ちゃんと事前に話はつけとく。……ただし、ここにいるチケットに負けず劣らずの、とにかく押しの強い人だから。あととにかくうるさい。そこんとこは覚悟しときなよ」
    「タイシン先輩の……トレーナーさん……」

     実際、アタシのトレーナーの所には、はぐれ者の新人が、何かしらのツテを通して訪ねてくることが何度かあった。
     やたらとネットワークというか人脈の広いヤツだから(そういうところもチケットによく似ている)、この子一人の面倒見てくれる教官も見つけられるかも知れない。
     暑苦しさは群を抜いているが、トレーナーとしての実績と信頼も随一。そう言わざるを得ない。
     そして何よりも。
     彼女は、アタシの。
     恩人だ。
     だからこそ、この少女を任せられる。それは身を持って知っていた。(というか、実態としては丸投げと言っても良いの所なのだが。)

    「ま、そこに電話するのもしないのも、それこそアンタの自由だけどね。勿論。でも、切れるカードは多めに手元に置いといたほうが、案外気楽なもんだよ」
    「……」
     少女は、ただ黙って、アタシのスマホに表示されてる数字の羅列をじっと見つめている。

     ――そして。自分もスマホを取り出してから、その番号を登録し始めた。
     その胸中に、どんな思いが湧いてきているのか。画面をタップするその指にどんな感情が宿っているのか。
     それを窺い知る事はできない。

     さて。これでアタシにやれる事はやった――何の益にもならないつまらない節介焼きかもしれないにしても――わけだが。
     どうせ無駄な世話を焼くなら、ついでにもう一つ言っておくか、なんてことが頭に浮かんだ。


    「そうそう。まだアンタに伝えとくありがたいありがたい教訓が残ってた。」
    「——え?」

    「休む時はとことん休め。——余すところなく休め」

    「……?」
     相手は、不思議そうにこっちを見てくる。当然、言葉の意味自体は伝わってるんだろうが、なぜそんな奇妙な言い回しをわざわざするんだろうかって顔だ。
     初めてこの言葉を聞いた時のアタシも、似たような表情を浮かべてただろう。きっと。

    「アタシからの……いや、違うな、どっかそこらを漂ってる、暑苦しくてウザい妖精からの声と思って。心のどっかにしまっときな」
    「——はあ……」
     まあ、忘れてしまうならそれでも良い。
     衣装ケースの隅にしまいこまれて、古びてしまうものかもしれない。
     ただ、こいつには――その言葉のぐにゃっとした輪郭が、無視できない異物感となって、ずっと心の片隅に残り続ける不思議な効用というものがある。
     そこにちょっと期待をかけておきたい。

    「ま。それはともかく。——」
    そして、彼女の肩に手を置いて。その瞳をじっと見据えて、言う。

    「這い上がってきなよ。さっき、あれだけ立派な口を叩いたんだから、今簡単に折れてもらっちゃ困る。アタシ達と同じレースのゲートに入って、肩並べられるくらいに勝ち上がってこい」
    「……」
    「そうしたら、正面から正々堂々、ターフの上で、アンタを叩きのめしてやる。徹底的に、とことん、きっちりと。そん時を楽しみにしてるよ」
    「……ふ。それは、こっちの台詞ですよ。先輩達こそ簡単に引退なんかしないでくださいよ、首洗って待っててください」

     少女は微かに口角を上げながらそう言った。
     まあ、こんな大層な口が聞けるくらいになったのは、良い兆候だ。
     こういうタイプは変にしおらしくなられるのが一番困る。うん。

     その様子を見て、チケットも彼女に言葉をかける。

    「——うん、顔色も良くなってきたみたい! うんうん、ホントに良かったね……! でもちゃんと保健室には行かなきゃダメだよ! キミの競技人生、まだまだこれからなんだから! ……あ、もしよかったら、一緒についてこうか?」
    「……それはいいです。流石にちょっと、気恥ずかしいっていうか……」
    「そっか、あはは……!」

     チケットが自分の頭をわしゃわしゃと搔きながら苦笑いすると、それにつられたのか、少女の顔にもうっすらと、笑みが浮かんだように思えた。柔らかで穏やかな、月の引力に引き寄せられるみたいにして。
     アタシが見た、少女の初めての、柔らかい、優しい笑顔だ。

     ――そして。
     
     少女の瞳が、とある方向に注がれていることにふと気がついた。
     その視線の先には。チケットがずっと手に持っている、あの桜の枝があった。
     チケットもそのことが分かったのか、彼女に問いかけるようにこう言った。

    「あ、ひょっとして! 桜の花、好き? さっきからずっと見てるから」
    「え? え、えっと……別に、特にそんなことは……。ただ、キレイ、だなって……」

     少し狼狽えた様子で、少女はそう返事した。誰にも知られてない秘密の基地を突然見つけられてしまった子供みたいにして。
     そしてなんだかそれは、さっきのアタシ自身の言葉のリフレインのようにも聞こえた。

     それまでの彼女は、何とか自分の年齢や身体といった障壁を突き破ろうとする前のめりで突っ張った自我が具象化して見えるくらいの、それくらい殺気立った空気を常に発散させていた。
     ——それが今では、桜の枝を見ているその瞳には。ずっと欲しがっていた誕生日の贈り物を目の前にしている小さな子供のような、そんな無防備で、純粋な煌めきが宿っているかのように思わせるほどだった。

     チケットが言ったように、彼女は本当に、桜に対して何かしら強い思い入れがあるのかもしれない。(まあそもそも、桜が特に好きでもないなんて方が珍しいのだろうけども。)

     そして。そんな彼女の様子を見てたチケットは、満面の笑みを浮かべながら。

    「これ、キミにあげる! 先輩からのプレゼント!!」

     そう言って、少女に、桜の枝を差し出した。
     ちょうどさっき、アタシに対してやろうとしてたのと同じように。

     鼻先に桜の枝を突き付けられた少女は、慌てて両手を振りながらチケットに応える。

    「えっ!? い、いや、いいですって、そんな……」

     それでもその両の眼は、ふわふわと微かに揺れている花弁に惹きつけられているみたいだった。
     チケットは彼女の右の掌に、そっと桜の枝を添えてやる。

    「ね、ほら。とっても良く似合ってるよ」
    「……」
    「きっとこのお花が、この子たちが、キミのことも見守ってくれる。タイシンも言ってくれてたけど――キミの周りには、キミを助けてくれるひとが、必ずどこかにいる。だから、だから――……キミはひとりじゃなくって、……、えっと、上手く言えないな、うーーん……!」

     チケットは身振り手振りを交えて、少女に懸命に訴えかけるけれども、最後の方は尻切れトンボになって、春の夕闇に言葉が飛び去って行ったみたいだった。
     それを見て思わずため息が出る。
    「ったく、良いところで締まらないんだから……」
    「あはは、ご、ゴメンね……」

    「いいえ。チケット先輩の言いたいこと、よくわかりました」

     チケットのわたわたした様子を見ていた少女は、また微笑を浮かべながら、静かに、でも確かな重みを感じさせる言葉を返す。
     少女はぎゅっと桜の枝を、両手で胸の内に抱きしめる。
     凍えそうな冬の雪山で、焚火台の炎に身を寄せるようにして。

    「——私はこんなんですから、そうすぐに変われるだなんて思ってません。……でも、今日おふたりに出会えたことは、きっと何か意味があるって思います。——ありがとう、ございました」

     それから。
     彼女はベンチから立ち上がる。
     そして、黙したまま――ただ、こちらに向かって頭を少し、数秒間、下げて――、それから踵を返して。

     そうして、アタシ達の下から去っていった。

     周囲が更に暗くなりかけた中、彼女の後ろ姿が遠ざかっていき、薄墨の中に溶け込んでいく。
     そんな中で、彼女の右手に持った桜の枝の花が、暗闇のトンネルを照らすトーチのように、淡い輝きを放っているみたいだった。
     足取りは弱弱しいままだったけれど。背筋はいくばくかはしゃんと伸びて、——しっかり前を見据えて歩いてるように見えた。

     それがアタシの錯覚や思い込みなんかじゃないってことを信じたい。
     少しくらいは。



     すっかり暮れかけて、予定よりも遅めの帰寮になろうかという時間帯の中を、チケットと話しながら歩いてく。

    「……なんかさ、今日は、色々あったね!」
     一日を総括するみたいな台詞をチケットが言った。
    「あり過ぎて疲れた。トレーニングとは違う種類の疲労感が蓄積された気がする、マジで」
    「でもでもっ、楽しかったでしょ? アタシも、良くないこともしちゃったけど……でも、なんかこう、今日一日振り返ってみるとさ、やっぱり、すっごい楽しかったなーって思う!!」
    「まあね。アンタと一緒にいると退屈するってことだけはない。それは確か」
    「えへへ、でしょー!」
     チケットは満面の笑みを浮かべる。
     こういう時のこの子は、本当に可愛い顔をしている。
     とても優しく暖かな、人懐っこさのかたまり。邪気のない笑顔。アタシやあの少女みたいな天邪鬼でも、冷え切った氷が否が応でも溶けていくような。そんな子。

     だからこそ――アタシは、ある事を彼女に聞いてみたかった。

    「でもさ。あの桜の枝、ホントに良かったの? あの子に上げちゃってさ。今更だけど」

     そう言った。チケットがそれを後悔なんて微塵もしてないことは分かり切ってたにしても。
     チケットは、何一つ迷いの無い瞳でこちらを眼差してくる。

    「うん! 今思うとさ……、あの桜のちっちゃい可愛い枝もさ、いろーんな巡り合わせがぐるぐるーって回ってて、それで、最後はあの子のところに行くようになってたんじゃないかなーって、そんな気もするんだ! えーっと、なんだっけ、さっきタイシンが言ってた、え、えん……、……えっとえっと……?」
    「円環?」
    「そうそう! そのエンカン!」

     チケットは元気よく答える。
     アタシもチケットも、本当にその言葉の意味するところがお互いちゃんと分かってるのか、極めて怪しいながらも――でも、その4文字の音節の響きはなんだか不思議と快く、アタシの気持ちの中にスッと入り込んできた。欠けたパズルを埋めるピースの一片みたいにして。

    「そっか。まあ、アンタがそう言うんなら、ね。あの桜もきっと、落ち着く所に落ち着いたんだろうね」
    「うん! きっと、そうだと思う! ――……」
     そこで、ふっと会話が途切れる。

     横を見ると、チケットは、珍しく思案ありげな様子で、目を伏しがちにしながら歩いている。
     何だろう。
     ――?

     それから、またぱっと顔を上げて、にこやかに笑いかけながら、チケットは言う。
    「——でもさ。やっぱりタイシンって、すっごく優しいんだなーって思ったよ! あの子のアフターケアまでばっちりなんだもん、アタシだけだったら、あそこまでのこと、考えつけなかったと思うし!」
    「ん、っていうか、面倒ごとを全部トレーナーに振っただけなんだけどね。後はもうお任せしますって感じだから、優しいもなにも……」
    「ううん、やっぱり優しい子だよ。タイシンは」

     そう言うチケットの笑顔には、ほんの少し、周囲の薄闇色が絵筆でさっと引かれたような、そんな影が落ち始めていた。

    「何ていうかさ、アタシはいつも勢いで、わぁーって先のこと考えず動いちゃって。で、後になってからどうしようどうしよう……! ってなっちゃうことが多いけど」
    「……」
    「でも、タイシンはさ。いつも足腰がしっかりしてるっていうか。ちゃんと周りのこともキチンと見えてるっていうか。——それって、アタシにはぜんぜん出来ないことだから」

     そこで、チケットは一度、言葉を切った。

     こんな話を切り出したチケットに言いたいことは山ほどあったが。
     今はただ黙って、彼女の言葉を聞いていた。
     肌寒さを感じさせる風が肌を掠めて通り過ぎていく。
     寮に戻っていく生徒たちが楽し気に、足早にアタシ達を追い抜かしていく。
     アタシとチケットのスニーカーがこんこんと歩道を叩く音が、宵闇の中に柔らかに沈んでいく。

     それから。
     チケットはこちらを向いて。


    「きっと、そういうのが。……ほんとの、優しさなんじゃないかなって。そう思う」


     ぽつんと呟いた。
     口元を寂しげに綻ばせながら。
     それはなんだか、まるで。花びらが、軽やかに、ちょっと儚げに夜風に吹かれて。薄闇に仄かな光を灯しながら舞い散ってくような。
     そんな言葉だった。

     ほんとの優しさ。

     チケットが普段口にするのとは全く違う一言。
     そして。そこにさっきの、黒髪の少女の姿が、重なり合って。 


     それは、古い井戸の底に沈んでいる意識のところまで舞い降りてきて、淡いさざ波を立てた。

    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

     春。

     数年前の春。
     桜の季節。

     トレセン学園の入学後のこと。

     初めてハヤヒデや、——チケットと出会った時のこと。


     その日。初めて顔を合わせることになった、その同級生の生徒——ウイニングチケット。
     彼女は、クラスメイト達に、みんな一緒に記念写真撮ろう、なんてことを呼び掛けていた。
     ついさっき初顔合わせをしたばかりだというのに。
     そんな頓狂なことを言い出す奴は当然ながら、嫌でも周囲の耳目を大いに惹いた。
     最初は自分と同じように戸惑い気味だった数人の同級生も、徐々にチケットの勢いに押されたのか、苦笑いしながらその輪の中に入っていった。
     自分はそれを遠巻きにただ眺めていた。


     チケットのことを初めて見た時の印象。
     良いものとはお世辞にも言えなかった。
     いいや。こんな生温い言い方じゃ適切とは言えないな。
     彼女に抱いたものは不信感だった。
     敵愾心に近いものすら、いくらか混じっていたかもしれない。
     なぜかって言えば。
     こういう手合いの奴は、散々これまでの人生でも目にしてきたからだ。
     思惑が見え透いたフレンドリーさ、気さくさを装って近づいてくるタイプ。
     でもそういった連中の抱え持つ優しさとかいうやつは、薄っぺらな紙屑みたいなものだった。
     こちらがそれを拒絶すると、途端に態度を翻す。
      
     それからいつもの悪態が聞こえてくる。

     ――何あの態度。せっかくこっちが気にかけてやってんのに。

     ――自分をなんだと思ってんだろうね。
     
     お定まりのパターンだった。

     ましてや。ここはただの学校じゃない。
     常にたった一人の勝者となることを至上命題に課せられたアタシ達にとっては、周り全員が敵。蹴落とすべき相手。
     そんな環境で、記念写真。
     みんな仲良く。

     冗談だろ。
     名前なんてどうでもいい。
     顔すら覚えなくたっていい。
     覚える必要があるとすれば、それはせいぜいデータとしてでしかないから。競合相手としての。
     ただの情報の塊だ。
     そんな石くれにかかずらっている暇がどこにあるだろう。

     桜の花が散っている。
     ここでも桜。
     イニシエーションの証みたいなピンクの花弁は、チケットを中心として賑わっている同級生たちの周りを囲い込むみたいにして、ちらちら、ふわふわと華麗なロンドを踊っている。


     そして。
     その場から一人、離れていこうとしていた自分を、チケットは目ざとく発見した。
     そして声をかけてきた。

     ファーストコンタクト。

     ふたりの目と目が合って、舞台が暗転して、きらきら星が舞う。
     ――もちろん、そんな劇的なものでは全くなかった。

     ね、キミも一緒に写真撮らない? せっかくの入学式、今日だけの特別な日なんだから!

     そんなようなことをチケットは自分に向かって言った。
     そしてこちらに手を伸ばしてきた。


     ――――――。


     その時自分は、チケットに向かって、どんな言葉を返したのか。
     正直、具体的にはよく覚えていない。
     とにかく彼女に何か、とてもネガティブな、棘のある事を言ったことだけは確かだった。
     相手を拒絶することなんて、自分の人生においてあまりに当たり前のことだったから、記憶に留めようとすらしなかったのだと思う。

     それから、チケットの顔を見た。
     いったいこいつはどんな反応を見せるのだろうかという僅かながらの卑俗な興味だけはあった。
     まあ、どうせ、同じことだろうけども。
     その口から漏れてくるのは、いつもの言葉なんだろうと。
     その顔に浮かぶのは、いつもの嘲りの感情なんだろうと。
     そう思っていた。

     でも、違っていた。

     チケットは、彼女は。
     本気で、傷ついていた。
     ――少なくとも、傷ついているように、見えた。
     正直、少し驚いた。
     こんな傷つきやすさを、その傷口を露わにするように身体いっぱいで表現する相手は、今まで見たことがなかった。
     期待を裏切られた鬱憤をこちらに向けるような素振りなんて全く見せずに。
     ただ、純粋に、傷ついていた。

     その時、ふわっと微風が二人の隙間を縫うように通り過ぎたのを、不思議と覚えている。
     その風は桜の花びらを道連れに宙に舞わせていて。——それは、断絶のラインを自分とチケットの間にくっきりと描いているように見えた。

     その後、その場から一人立ち去った。
     チケットたちが自分についてどんなことを話していたのか、それは分からない。


     そうやって、その入学式の一日は過ぎ去った。
     ほんの少し、紙で指先をすうっと切ってしまったみたいな感触だけを残して。
     でもまあこんな些細な傷はあっという間に塞がる。
     傷跡なんて微塵も残らないほどにして。
     いつものこと。
     何も気にすることなんてない――。
     そう思っていた。


     でも、それで終わりじゃなかった。

     終わるはずなんてなかったんだ。
     今にして思えばだけど。


     その次の日。
     クラスの教室。
     チケットは。 
     またしても自分に声をかけてきた。

     前の日と全く同じように。
     同じ大声で、同じ笑顔で。
     まるで昨日の出来事なんてなかったかのように。

     何を考えているんだか、全く彼女の思考パターンが読めなかった。
     これまで出会ってきたどんな奴らとも、チケットは違っていた。

     彼女は、自分だけが入学式の集合写真の中に収まらなったことを、未だに気に病んでいるみたいだった。
     信じられないことだった。
     理解の範疇を超えている。
     たかがそんなことで、いつまでもいつまでも。
     こんな風にまとわりついてくるだなんて。
     そしてそれは何日も何日も続いた。

     勿論、何度も拒絶した。
     全く取り合う余地もないって態度を全開にした。
     すげなく断られて、彼女は耳と尻尾を垂らして、自分の席に戻っていく。
     それでもあくる日には、耳も尻尾もエネルギーが充填されて、元気いっぱいの状態になってこっちにやってくる。
     それの繰り返しだった。


     ある日。
     ふと気づく。
     チケットに対する不快感の塊みたいなものが、いつの間にか、雪解けして。
     混じりけのない水になってどこかにさらさら流れていっていることに。
     なぜそんな状態になってしまったんだろうか。まったく。
     それは、コイツにどれだけ反抗してもこっちのエネルギーの無駄なんだという、消極的な落としどころに身を落ち着けた――諦めと一言で言ってしまっても良いが――という事になるのかもしれない。

     でも、それだけじゃなかった。
     今にして思えば、だけれど。

     彼女は、いつだって、本気だったから。

     とにかく口やかましく全力全力となんとかの一つ覚えみたいに繰り返し叫んでいたけれど――それはあながち間違いではなかった。いや、それを身をもって体現していた。

     彼女が自分に向ける感情は、どれもこれも。

     本物だった。


     傷つく時も。
     笑顔を浮かべる時も。
     差し出されるその手のひらも。

     すべてが、彼女の、ありのままだった。

     そんな彼女の存在。その在り方。
     それを見ていると――顔を背けるわけにはいかなかった。
     背けることを許さないような。
     それは自分の精神の奥深いところまでまっすぐストレートに届く光だった。
     自分自身さえ直視するのを恐れてるような。
     そんな何かを照らし出すライト。

     それが、ウイニングチケットという少女だった。

     こうやって彼女のイメージが言語化されるのは、——それは、まだまだ先のことだったけれど。



     ある日の午後。
     そろそろ桜も散り終えてしまいそうな時節。
     トレーニングを終え、帰寮しようと一人で校門を出ていこうとしていたところ――。
     チケットと鉢合わせた。

     彼女はにこやかに、こちらに話しかける。

     ーーもうすぐ桜の季節も終わっちゃうし。ね、やっぱりいっしょに写真、撮らない? 一生のおもいでになるよ!

     嘆息した。
     わざわざ波風立てる労力を費やす気にはもうなれなかったけれど。
     かといって向こうのノリに付き合う気にも到底なれないから。
     だから、まあ。いつもように無視をして。
     彼女の側を無遠慮に通り過ぎようとした。

     ただちょうどその時、チケットの方も、こちらに歩み寄ってこようとして。
     そのタイミングで。
     ふたりの肩と肩がぶつかった。
     その拍子に、肩にかけていたカバンが地面に落ちた。

     チケットは、わあ、ゴメンねゴメンね……! と、目を涙に潤ませながら、何度も謝る。

     こんな程度のことで泣くだなんて。
     おかしな奴。ほんとに。
     そう思いながら、カバンを拾い上げて、頭を上向けると。 
     彼女の瞳があった。
     真正面。近い距離から。
     視界に入ってきた。
     涙を湛えた瞳には、風に吹かれる桜の花びらが映し出されている。
     まるで湖畔に浮かぶ水鳥みたいに。

     キレイだな。
     そう思った。

     こんな状況で感じる気持ちとしては、だいぶ、ズレてるけど。
     でも。キレイだった。
     そうとしか思えなかったから。


     そしてその瞬間。
     風が、強く吹いた。

     チケットの、ぴんと通った鼻筋のあたりに、桜の花びらが一枚。ぴたりと貼りついた。
     それはまるで、安住の地を求める蝶々が、草花に羽を休めるみたいにして、彼女の顔にくっついていた。

     顔のど真ん中に桜の花弁を乗っけている彼女のその様は、滑稽な道化師のようでもあり、でも、同時に――。
     桜の樹から切り離されてしまった迷い子の花を受け止めて、ブランケットで包んで休ませているような。 
     なんだかそんなふわふわとした何かを思わせる光景だった。

     そして。
     思わず。笑みが零れていた。
     固く乾いた地表から、透き通った湧き水が溢れ始めるみたいに。とても自然に。
     そう、それはあまりにも、自然過ぎたものだから。自分が笑っているなんてことに、しばらく気が付かなかったくらいだった。

     それが分かったのは、チケットがこちらに、にこりと微笑み返したからだ。
     やっと笑ってくれた、と。そう言いたげに。
     彼女は、とても嬉しそうに笑った。

     その笑顔を見ていると。なんで自分は今までこうも頑なだったんだろうって、全身から力が抜けてくような気分になった。

     結局これは、チケットに負けた、ってことになるんだろうか。
     レースで敗北を喫するみたいに。

     いや、違うな。
     それは、なんていうか、——。寧ろ、逆で。
     自分が、彼女に追いついた。
     追いつかせてくれた。
     引っ張り上げてくれたんだっていう。
     そんな感触だった。




     ちょうどその時。
     チケットの友人と思わしき数名の生徒達がこちらに寄ってきて、チケットに話しかけた。

     ――今帰るとこ? 一緒にいつものとこ寄ってかない?
     
     チケットが、そちらに、ちらりと視線を向ける。

     その瞬間に、ふたりの間で生じ始めていた何かは、消えた。

     大型のトラックが側を通り過ぎた。
     風圧で桜の花弁が吹っ飛ばされていった。
     その後、彼女たちに背を向けて、そこから立ち去った。

     後ろから、チケットがこっちの名前を呼ぶ声が聞こえた。
     振り向くこともせずに歩き続けた。


     結局、そんなこんなで。
     写真を撮ることはなかった。
     春は過ぎ去っていった。


     でも。
     あそこで消えたと思った、自分とチケットの間で生まれた、何かは。
     それは――まだ残り続けていた。
     ずっと地中の奥深くに埋められた一粒の種子みたいに。


     ――――それから、しばらく、時間が経つにつれて。
     普段のトレーニングや模擬レースの様子なんかを見ているうちに。
     ウイニングチケットが、彼女が、走者として並外れた才能と、レースにかける桁違いの熱情を抱えている奴だということが。はっきりと分かるようになった。
     こいつは他の連中とは明らかに違う。
     並外れた、瞠目すべきなにかがある。
     きっと同世代の走者として、必ず自分の前に立ちはだかるであろう相手。
     そんな認識を確かなものにした。
     それは同じ同級生のビワハヤヒデも同じだった。
     結果として、その時の予感が現実となって、クラシック戦線へ通じる道程として、自分たち3人の前に長く長く伸びていった――というわけだけれども。

     それは、ライバル、好敵手、競い合う仲間と共にターフを駆ける青春——とも呼べそうな装丁を施された枠組みのストーリーだ。
     自分にとって、かけがえのない――そしてまだまだ終わりも果てもない、まだまだエンドマークの付けられることのない、一冊の書物。

     でも。
     自分には、——自分とチケットの間には――。
     そこには、もう一つの別のストーリーが。新しい物語が、知らず知らずのうちに生まれて、すくすくと芽を伸ばしていった。

     きっとそれは、あの日。
     彼女が、あの鼻の上に桜の花びらをのっけていた、あの日から。
     そのページは始まっていた。




    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



     優しさ。
     ほんとの優しさ。

     チケットの言葉を反芻する。



     ちらりとチケットの顔を見る。

     チケットのことを、ただの明るくて賑やかで、悩みなんかなさそうな子だと思う奴は多いかもしれない。
     ――でも、そうじゃない。
     彼女はそんなんじゃない。

     どうしようもない事を、どうしようもない事だと折り合いを容易に付けられない、そんなイノセントな魂を、胸中に抱え込みながらずっと生きていくのは。
     きっと、アタシみたいな奴なんかが想像するよりも。
     きっと、はるかにずっとずっと辛く苦しいことだろう。

     彼女は、そのせめぎ合いの中で、必死に自分の答えを見つけ出そうとして、もがきながら、戦っている。

     そしてそれは、きっと。あの数年前ーーアタシに声をかけてきた、初めて、出会ったあの時からーーずっ とずっと変わっていない。
     あの黒髪の子のことを思い出す。
     チケットが彼女のところに一目散に駆け出して行った時の光景。
     なんて声をかければ良いのか、ずっと彼女の前で考えてた時のこと。

     優しさって言葉が本当に指し示すものなんて、よくわからない。
     わからないけれども――。

     もし、優しさというものがあるとすれば、それは――。

     隣のチケットを見つめる。
     暮れかけた夕陽の光を、そのルビー色の瞳の中できらきらと遊ばせている、アタシの、かけがえのない、その女の子を。


    「ほんとの優しさ、か。何言ってんだか」
    「? タイシン……」
    「いつも――いつも、ばかみたいに優しいくせにさ。ほら、そんなカオしてないで――笑ってなよ。チケット」

     そう言って彼女の頬を、手でさすってやる。
     春の暖かな陽気に咲きほこる花々のように柔らかで湿り気のある感触。

    「あはは、くすぐったいよタイシン、もう~~、またばかって……ん? 今のは……良い意味の、ばか、なのかな……? あれ?」
     
     きょときょとしているチケット。
     そして、彼女の正面に回り込む。
     チケットのスニーカー。
     そこに自分の靴がこつんとぶつかる距離。

    「あ、タイシン……?」

     周りを見渡す。
     人影が見えない事を確認する。

     そして。
     彼女の額にかかってる黒髪を。 
     少し指で掬って。
     つま先立ち。
     それから。

    「本当にお人好しで。優しいチケット」

     彼女に額に、ほんの瞬間。
     唇を寄せる。
     触れる。
     音もしない。

     それから、数秒間。
     きゅっと抱きあう。
     彼女が頭をこちらの肩口にすり寄せる。
     解けやすい糸玉と糸玉がお互いに身を寄せ合ってるみたいな暖かみ。
     そんな感触が春の夕闇に滑り込んで溶けていく。

     やっぱり。
     彼女のことが――。
     チケットが、好きだなって。思う。




     それから、二人で肩を並べて、再び、歩き出す。
     寮までもうあとわずかというところ。


     何だか今日は色んなことがあった。
     忙しない一日だった。
     でも、まあ。
     ――良い一日だったと思う。おおむね。
     着地点も上々。
     物事は、落ち着くべき所に落ち着く。
     でもそれは終わりじゃなく――また新しく続いていく道のりのスタート地点でもある。
     延々と続いてくリングの中の、ほんの一コマ。
     その輪の中をアタシ達は走り続けてる。

     ま。とりあえずは、そんな感じ。


     花びらがヒラヒラと目の前を一枚、チョウチョみたいにのんびりした様子で落ちていく。
     桜というのは、思いのほか、色んな顔をしている。
     隣にいる子みたいにくるくると表情が目まぐるしく変わる。
     世の中というのは、アタシが思ってるよりも、呆れるくらいに、バカみたいに広い。なんだかそんな事を思う。
     まったく。
     ――――。

     ふと思いついたことがあって、チケットに声をかける。

    「——ね、チケット」
    「ん? なに、タイシン?」
    「アンタ、いつだったかさ。ウマレーターの世界で飛行機乗って、空から花見したいだのなんだのって、なんかそんな事言ってたじゃん」
    「え? あ、ああ! うん、あれから実際飛んでみたんだけどさ、すーーっごいキレイなんだよ! 上から眺めると、ホントに桜色のじゅうたんが、ばーーって一面に広がってるみたいで、それで……」

    「それ。アタシも見てみたい」

    「え?」
    「だから、今度、一緒に行こって言ってんの」
    チケットがじっとこちらを見ている。
    「ずっと、桜って、下から見上げるばっかだったから。——上から眺めてやったら、どんな風に見えるか。気になってたんだよね」

     そう言うと。チケットは顔をぱあっと輝かせる。
    「うんうん、行こうタイシン、いっしょに行こう!! きっと――きっと、すっごい楽しい思い出になるよ!! えへへ~~、また新しい楽しみができちゃったなー!」
    チケットは飛び跳ねて喜びを身体ぜんぶで表している。

    「わかったわかった、またそんなデカい声ではしゃがないでも……まあ、そうだね。今日のデートはこれでおしまいでも、また……」
    「また新しい思い出作りができる、ずーっとそれが続いてくってことだよね! エンカン!」
    「そう。そういうこと」

     そんな他愛ない掛け合いをしながら。


     二人で、手のひらと手のひらを勢いよく重ね合わせる。
     その、ぱん、という音が、舞い散る桜の花びらの一片に乗っかって――。

     そして、夜風に乗って、どこか遠く、遠くへと、運ばれていった。


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