数百年後の君たちはふと、風が止んだ。シンプルなタイルが無機質に並べられた廊下を歩いていたリケは足を止め、近くの窓から外を眺めた。
眩しいぐらいの太陽の日差しが微かに彼の足元を照らす。まだまだ夏を思わせるそれに彼がため息をつけば、遠くから声をかける若者がいた。
「リケ先生!」
リケが呼ばれた先を見れば、まだ幼い顔をした青年が元気に手を振っていた。その手に持っている書籍は数年前にリケが執筆したもので。そのまま落としてしまうのでは、と心配になるほど本を振り回す青年にリケは目を細めた。
「リケ先生ー?」
再度リケは外をちらり、と見た。変わらない景色が広がる。リケが前を見て答えた。
「……いえ、なんでもありません。行きましょう」
その空に、月はない。
リケが賢者の魔法使いでなくなってから一体何年経っただろうか。空から異常なほど大きい月がなくなって、何年が経過しただろうか。
少なくとも、リケが賢者の魔法使いに選ばれてから五百年の月日が経っていた。その間何度も大いなる厄災と呼ばれる月を迎え撃って、無事に誰も欠けずに過ごせたことに安堵して、また次の年に月を迎え撃って、安堵して。そんなことを繰り返すうちに、月は次第に遠ざかっていった。あれだけ近くにあった月は、今じゃ豆粒のように小さくなって近くに来ることはない。
それと同時に、リケの額からユリの紋章が消えた。他の賢者の魔法使いからも紋章が消えた。その時、全員が気がついた。大いなる厄災が来なくなって、賢者の魔法使いという役目も消え去ったのだと。
賢者の魔法使いが各々の国に帰る中、リケだけが酷く困惑した。十六歳で魔法舎に来てから、何百年と賢者の魔法使いとして過ごしていた。それまで暮らしていた教団だっていまやもうない。帰るところなんて、なかった。
『リケ、頼みがあるんだ』
そんなリケに、中央の国で王を経験したかつての少年が声をかけた。
中央の国に高等教育機関を作る。そこで、先生として働いてほしい。そうかつての少年が告げるとリケは目を見開いた。そんな彼をかつての少年は昔と変わらない瞳で愛おしむ。
『リケはたくさんの世界を見てきただろう? それを、伝えてほしいんだ』
そんなかつての少年に、リケは悩む。悩んで悩んで、半年後に頷いた。
そうしてリケは賢者の魔法使いでなくなってから百年。その期間、国立グランヴェル大学で常勤講師を勤めていた。
「ここが読めなくて困ってるんです」
机の上に古びたノートと、リケ著作の本を広げて青年が尋ねた。覗き込んだリケがああ、と頷く。
「これはカンジですよ。僕もまだ意味が掴めてない言葉ですが、恐らく前後の文脈から察するに──」
古びたノートをそっと指でなぞる。保管魔法をかけてあるものの、五百年の間に大分ボロボロになってしまった。今度オズに会ったら復元魔法でもかけてもらおう、なんてリケは思いながら解説していく。
脳裏をよぎるのは一人の女性。顔も声も名前も忘れてしまったが、優しいその人はリケにとって初めての賢者様だった。
今開いているノートはその彼女が残したものだった。優しかった彼女らしい柔らかな文字にリケは哀愁を覚える。あんなに優しくしてくれたのに、僕は彼女のことを全く覚えていない。覚えているのは、彼女が教えてくれた彼女の世界の文字だけだった。
説明を聞いていた青年がふう、と息をついた。
「ヒラガナとカタカナはやっと覚えてきたんですけど、カンジが難しいですね」
「カンジはまだ未解読の物が多いので。僕も完璧には読めません」
リケは古びたノートを丁寧に閉じて、再度本棚へしまう。懐かしい思い出が詰まったそれは、音も立てずにリケの手を離れた。
青年がカバンに本をしまいリケに挨拶をする。お時間頂きありがとうございました、と丁寧な挨拶をする青年にリケもまた丁寧に挨拶を返した。そして別れるかと思いきや、リケは首を傾げた。
「……そういえば、やたら荷物が多いですね。どこか行くんですか?」
「知り合いのところにこれから」
青年が照れたように笑った。
「西の国にあるコリンズ洋裁学校ってご存知ですか? そこに通ってる彼女と連休使って遊ぼうってことになって、今から行くんです」
聞き馴染みのある名前にリケは目を瞬かせた。西の国に帰ったクロエが仕立て屋をしながら洋裁学校を設立したというのは風の噂で聞いた。まさか、ここでその名前を聞くとは。懐かしさに胸を震わせながら、リケは尋ねた。
「西の国だとここから遠いですけど、電車でも使うんですか?」
五百年の間に発展した技術の一つである電車。魔法もマナ石も使わない新たな科学で作られたそれは、遠い国にもあっという間に辿り着ける便利な手段として有名になっていた。
青年がそんなリケの質問を笑いとばした。
「やだな、先生。電車は高いじゃないですか。箒ですよ、箒」
だって俺は魔法使いなんだから。そう明るく告げる青年にリケはああそうだった、と複雑な心境で頷いた。
五百年前は、魔法使いは差別と偏見の対象だったのに。今じゃ、こうして堂々と魔法使いと言えるし、人前で魔法を使っても特に問題が起こらない。これも全てアーサーの努力の賜物だった。かつての少年は王子として、そして史上初の魔法使いの王として、差別と偏見の撤回に奔走した。
もしそうでなければ今頃リケは昔のネロのように転々と住処を変えて暮らしていただろう。百年もの間同じところに存在することはできない。
だがアーサーをはじめとした多くの魔法使いや人間の努力によって、多少の偏見は残ってはいるものの、こうして魔法使いだと公言できるし百年間変わらず同じところで生活できている。それが、なんだかちょっぴり不思議だった。
「気をつけて」
「ありがとう、先生!」
青年が鞄を抱え直して研究室を出ていこうとする。そしてドアを閉める前、ふと振り返った。
「リケ先生、今度は言葉じゃなく魔法教えてください!」
リケが目を大きく見開く。そのままドアは閉められ、廊下をかける音がだんだんと小さくなっていった。
それを聴きながら本棚に視線を送った。先程まで出番のあったノートを引っ張り出して、ページをめくる。所々虫食いのように読めない箇所があるが、ノートの上の方に書いてある文字は完璧に読める。
「リ、ケ、」
彼女に関して何も覚えてないがこのノートがある限り、彼女がこの世界にいたという証明になってくれる。その事実にリケは胸がいっぱいになった。
彼女は、賢者様は、確かに存在したのだと。
けして月が見せた幻覚などではないのだと。
たった一冊のノートが証明していた。
(国立グランヴェル大学 文学部異文化言語学科 教授 リケ・オルティス)
クロエは眠い目をこすりながら豊かの街を飛んでいた。太陽が昇って数時間ほど時間は経っていたが、先日寝たのが遅かった。寝る直前に思いついたデザインを形にしていたら日付はとうに超えていて、まずい!とベッドに飛び込んだのはいい記憶で。
無事に寝坊はしなかったが、どうにも眠い。だがクロエは今日ばかりは外せない用事があった。
とある施設の前に降り立つ。小さな建物だったが、中からはワイワイと賑やかな声が聞こえてくる。クロエが静かにドアを開けて中に入ると、視線がいっせいにクロエに向けられた。
「おはようございます、先生!」
鮮やかな色彩がクロエの目に飛び込んでくる。それと当時に明るい声がクロエにかけられた。そう、そう言えば今日の授業は実技だったんだ。ワンピースを課題にした実技だったもんね、とクロエは口角を上げた。
「おはよう!」
クロエは明るく生徒たちに挨拶を返した。
クロエ・コリンズは賢者の魔法使いだった。魔法舎で師匠のラスティカと共に暮らす若い魔法使い。それがクロエだった。
だがしかし、ある日賢者の魔法使いは解散した。ちかづいくる大いなる厄災を撃退するために集められた賢者の魔法使いだったが、ある日から大いなる厄災が来なくなった。
解散して、クロエはラスティカと共に西の国に帰った。今まで通り西の国で旅をしながら好きな仕立てをして過ごす。それだけでクロエは楽しかった。
そんなある日、風の噂で中央の国に高等教育機関が設立されたと聞いた。アーサーが設立して、リケが言語学の先生として勤めている学校。出会った時は読み書きすらできなかったリケが言語学の先生になったのは驚きで、ほんの少しだけ羨ましかった。
クロエは学校なんて通ったことがない。だいたいのことはラスティカに教えてもらって、もしくは魔法舎でルチルやヒースクリフに教えてもらったりした。
「学校かぁ、いいなぁ」
そんな羨望の言葉をラスティカは確かに受け止めた。
「クロエも学校を作ってみたら?」
「俺が!?」
何を言ってるんだろう、とクロエは首を横に振った。
「俺には教えられることなんてないし、」
「たくさんあるじゃないか」
ラスティカが部屋に置いてあった綺麗なスカーフを手に取った。クロエの作りあげたスカーフ。綺麗な刺繍がされたそれは、完成度の高いスカーフだった。
「……まさか」
たったそれだけなのにクロエはラスティカの言いたいことを理解した。
そして、設立されたコリンズ洋裁学校。西の国で初めてとなる洋裁学校だった。ラスティカだけでなくシャイロックやムルの協力を得たクロエは、小さな土地を借りて小さな学校を作った。
今でも不思議に思うことがある。学校に通ったことのない自分が、学校の先生をやってるなんて。
それでも、楽しくて仕方がないのだ。キラキラとした目で布と向き合う生徒たち。十人十色の個性とセンスは、クロエにもいい刺激を与えた。
「ありがとう、ラスティカ」
ここには居ない彼の師匠に、ぽつりとクロエは感謝を述べる。今こんなに楽しく過ごせているのは彼のおかげだから。
先生見てください、という少女の元気な声にクロエは「今行くよ!」と叫んだ。
「クロエ先生、お届けものだよ」
一人の生徒がそう声をかけた。クロエがなんだろう、と首を傾げながらその生徒が持っていた箱を受け取る。その箱に書かれた住所と名前に、彼はあ、と目を丸くした。
「ミチルからだ!」
「ミチル?」
「俺の友達!」
南の国から届いたそれを机の上に置いてクロエは早速開封した。中には一通の手紙と、沢山の薬瓶。クロエさんへ、と几帳面な文字で書かれたそれは五百年前から変わらなかった。
ふと箱を覗き込んだ生徒の一人が感心したように頷いた。確か彼は南の国出身だった。
「これ、南の国の医学研究所からじゃないですか。クロエ先生どういうお知り合いなんですか?」
クロエがキョトンとした。南の国の医学研究所? とクロエが聞き返す。南の国以外からやってきた生徒たちも同じく首を傾げた。それを見て南の国出身の生徒が自慢げに説明をする。
いわく、南の国にある国立医学研究所は医学や薬学を中心とした研究所らしい。南の国では有名で、かなり優秀な研究員が集まっている南の国一番の研究所。
「しかもミチル・フローレスって言うと魔法薬学の第一人者じゃないですか! 彼のおかげで今の薬はあるんですよ、そんな人と友達だなんて先生凄い!」
「ええ、ミチルってすごいね!」
あの幼い少年はいつの間にか南の国の有名人になっていたようだ。南の生徒は嬉しそうに笑った。僕の兄も医学研究所で医療研究員をやってるんだ、と嬉しそうな生徒にクロエもまた笑みを零した。
(コリンズ洋裁学校 学校長兼教員 クロエ・コリンズ)
「ミチルさん、お昼行きません?」
黙々と目の前のフラスコに入った液体とにらめっこしていたミチルの耳に、そんな声が聞こえてきた。ちらりと視線を送れば、そこに居たのは最近この医学研究所に研究員として入ってきた青年だった。彼は医療研究員で、薬学研究員であるミチルとは専門分野が違うのだが、何故だか入ってきた時からミチルに懐いている。
「十分ぐらいかかりますよ」
「じゃ、待ってます!」
ニコニコと満面の笑みを浮かべる彼をよそ目に、ミチルはまた視線をフラスコへと戻した。
ようやく実験も落ち着いてミチルはゴーグルや手袋を外した。外に出ると、気持ちのいい風が吹いている。あたりを見渡せば、柱によりかかった青年がいた。
ミチルが声をかければ、青年は嬉しそうに手をあげる。彼と並んで、医学研究所から少し離れた場所にある小さなレストランに足を運んだ。
ここのところ最近ミチルは青年とこのレストランに来るのが日課となっていた。正直、なんで青年にここまで懐かれているのかは分からない。でも特に理由を聞く気にもなれなくて、ミチルは彼の好意に甘んじていた。
そんな彼の中に、好奇心が芽生えたのはついさっきの事だった。なんでだろう。理由を聞いてみてもいいのかもしれない。
「……そういえば、きみはなんでボクを食事に誘うんですか?」
目の前でパンに齧り付いていた青年が目を瞬かせた。そして、行儀よく口の中がなくなってから喋りだした。
いわく、ミチルに対して親近感を覚えている、と。
「ほら、僕ここに来る前は東の国のエクイタブルアカデミーに通ってたって言ったじゃないですか」
エクイタブルアカデミー。身分や貧富などは関係なしに、優秀で学習意欲のある子供なら誰でも入学できると噂の学校だった。貴族はより良いアリストクラシーアカデミーへ、貧乏な一般家庭はそもそも学校に通えない。そんな社会の中に現れたエクイタブルアカデミー(平等な学校)は、教育環境に、社会全体に多大な影響を与えた。
南の国でも、東のエクイタブルアカデミーへ進学する子供は多い。
「そこで、名誉理事長にお会いする機会があって『将来は南の国立医学研究所に就職したい』って言ったんです」
なんかこのへんでミチルがヒースに思いを馳せる
(国立医学研究所 薬学研究員 ミチル・フローレス)
ブランシェット家当主を退いてから「シノやクロエみたいな子でもちゃんと教育を受けられる環境を作りたい」と思い立ったヒースの話を書きたかった
(エクイタブルアカデミー 特別名誉理事長 ヒースクリフ・ブランシェット)