山の一夜 ──しくじった…。
日没も近く、木々を通して辺り一面長い影と夕焼けの橙に染まる山中、足許に落ちる乾いた枯れ枝を選んで拾い集めながら、阿国は嘆息した。
──これまでさんざ気を付けていたのに、仕方ないとはいえあれさえなけりゃ…。
忌々しく枝葉の隙間から覗く、夏より短くなった秋の夕空を睨む。どこからか山に帰ってくる鴉の鳴き声が聞こえる。それで改めてまざまざと日没を知らされて、諦念半分、しかしいつまでも消えない口惜しさに鬱々としてしまう。
「…まぁとにかく、早く戻らないとね。いつまでも一人待たせておくのは危険だ」
空から視線を切って溜息をこぼすと、それで一旦後悔は横に置いて、一抱えほどの十分な量になった枯れ枝を小脇に抱え直すと、阿国は来た道にならない道を目的の場所に向けてまた引き返した。
暫く戻ると小さく拓けた場所に、大きな木の幹を背にしてちょこんと七緒が座って待っていた。膝を抱えて、手にした小さな折り鶴をくるくると指で回してぼんやりと眺めている。その表情はやはりあまり芳しくなくて、阿国は居たたまれなさに一瞬眉根を寄せる。
「七緒、お待たせ」
「──阿国さん」
しかしそれを悟らせないよう声音を一段明るくして声を掛けると、七緒はこちらに気付いて手許から顔を上げた。ほっとしたのか、ややその表情が綻んだ。
「遅くなってごめんね。大丈夫だった?何もなかった?」
「全然、平気です。阿国さんこそ、薪拾い任せてしまってすみませんでした」
「いやいや、気にしなくていいよ。こう見えても男だからね、力仕事はこっちの役目だ」
以前も誰かが使ったのだろう、焦げて黒ずんだ地面の側に枯れ枝の束を下ろして、阿国はそのままそれをそこに組上げていく。先ほどから一段日が沈み、平地ではないここはもう闇が忍び寄ろうとしている。
急いで火床を組み立て終わると、阿国は荷物から滅多に使わない火打ち道具を取り出したが、それを打つ前に、微動だにせずじっとこちらの様子を窺っている七緒を振り返った。
「ごめんね…。嫌かもしれないけど…今晩だけ我慢しておくれ」
「大丈夫です…。阿国さんがいますから」
どこか弱々しくてぎこちないが、七緒は笑ってくれる。阿国も控えめに苦笑を返すと、火打ち石を火打ち金に打ち付けて、松の木片を火口に焚火を熾した。
「…少し、落ち着いてきたかな?肩が柔らかくなってる」
「はい…ありがとうございます」
炎は赤々と燃えて宵闇を照らし、夜陰の寒さをじんわり和らげてくれる。二人で着物を重ねて包まり、阿国はぱちぱちと爆ぜる薪の音を聞きながら、自身の肩に凭れさせるように抱き寄せた七緒の肩を、ゆっくりとさすっていた。もう片方の手で励ますように握っていた彼女の手は、当初は強く握られ小さく震えていたが、今はもうそれも収まっている。阿国はようやくほっとして小さく息を吐き出すと、自身も七緒の頭に頬を寄せた。
七緒は炎が苦手だった。阿国がそれを知ったのはもう随分と以前、八葉に選ばれたばかりの頃、怪異を鎮めに皆で比叡山に向かった時だった。道中幻の炎に足を竦ませ、怯える彼女を見て最初は驚いたが、傍にいた大和に事情を聞いてすぐに全てを察した阿国は、同時に過ったひどく苦いものに胸を痛めた。
本能寺、そして安土城──幼いなお姫に立て続けに今もって及ぶ恐怖を植え付けた本能寺の変。他ならぬそれを起こした張本人を阿国は父に持っている。どうあがいても逃れられない続柄だけに責任を感じないわけにはいかず、それは阿国を苛んだ。それでも七緒はその時は気丈にも前に進んでみせたが、それで克服できるような生易しい心の傷なら、そもそも
記憶を封じられてまで残るはずもなかった。
だから阿国は七緒と共に旅をするようになってからは、町と町の移動の際には、必ず日没までには次の町に着けるよう腐心していた。野盗に遭う可能性までも含め、火を焚くような野宿なんてもってのほか、七緒には一時たりとも怖い思いなどさせたくはなかった。
──なのに遂に、今夜は…。
山中で見渡す限り人家はおろか、宿を請えるような山寺さえ見えなかった。急ぎ足で山越えに挑んだが、やはり無謀だった。いや、そもそもそうならないように今日は十分余裕を持って早朝に宿場を発ったのに、予想外の出来事が二人の足を途中引き留めたのだ。
「…色々気を遣わせてしまって、ごめんなさい…」
ふと、七緒の呟きが聞こえた。表情を覗き込むと、七緒はまだ焚火から目を逸らしたまま、どこか遠くを見つめながらぽつりぽつりと続けた。
「これでも前よりはずっと平気になったんですけど、やっぱりまだ怖いみたいで…情けないですよね…。全部阿国さんに任せて縮こまって…しかも阿国さんの方が疲れてるのに、こんな風に甘えてしまって…」
「そんなことないよ。頼むからそんな風に卑屈にならないどくれ」
阿国は七緒の頭を抱え込む。
「あんたが抱える傷を知っていながら、この事態を回避できなかったのはわたしの手落ちなんだから、あんたは何も気にしなくていいんだよ」
「そんなこと…」
「ほら、今は余計なこと考えないで、目を閉じておいで。そうしたらすぐ眠たくなって、次に覚めたらもう明るい朝だ。わたしが一晩中こうして抱いていてあげるから、安心してお休み」
ぽんぽん、と頭を抱えた手で叩いてやると、阿国さんは?と、七緒はそろそろとこちらを見上げて来た。
「わたしは火の番があるからね。…なぁに、一晩くらいどうってことないよ。あんたの寝顔も傍にあるなら眺める楽しみもあって役得ってもんだよ」
「や、やめてください…!」
頬を染めて慌てる七緒にひとしきり笑ってから、阿国はさぁ、と七緒に目を閉じるよう促す。七緒もやはり申し訳なさそうにしつつも、炎を見るよりは、と目を閉じて、阿国に身を預けてきた。
「…今朝の女の子、お母さんに怒られてないといいですね」
「ん?ああ…どうだろうね。心配はかけたわけだし、まったくお咎めなしってことはないだろうけど…」
「でも、ちゃんと会わせてあげられてよかった」
「…そうだね」
阿国は先ほど七緒が弄っていた折り鶴を思い出す。予想外の出来事、今朝のそれがあれだった。
なんのことはない、ただ迷い子がいただけだ。街道に沿う松の木の下で、五つくらいの少女が親を呼んで泣いていた。泥に塗れた草履で足を汚し、頬にも泥をつけて、明らかに迷ってからもう時間が経っているように見えた。それはつまり遅くとも夜明けからか、または一晩、たった一人で彷徨っていたのかもしれなかった。
ただ、道往く旅人たちは気遣わしげに少女を見るだけで、誰も声を掛けようとはしていなかった。この山越えもあるから、阿国は旅人たちの事情に一定の理解は示しつつも、やはり放っておくには不憫すぎる有様で、それは当然七緒も同じく、彼女は迷うことなく少女に近付くと、どうしたの、と声を掛けた。
聞けばやはり少女は一晩中この近辺を彷徨っていたという。父親が近隣の町に出稼ぎに出ており、少女は母親と二人村里で暮らしていたが、遂に父恋しさに家を抜け出てしまったらしかった。七緒に請われ、阿国も二言なく少女を村里に送って行くことにしたが、人に道を聞いたその場所が思いのほか街道から外れていて、送って戻ってくるのにどんなに急いでも随分時間を喰ってしまったのだった。折り鶴はその時の礼に、少女がくれたものだ。父親に貰ったという綺麗な和紙で丁寧に折られた可愛い折り鶴を、七緒は笑顔で受け取った。
「…いつか」
「え?」
「いつか…この旅を終えたら、私、お料理頑張れるように強くなりますね…」
「七緒…?」
七緒は目を閉じたまま、阿国の肩に頬を擦り寄せる。目尻に僅かに涙が滲んでいることに気付いて、阿国は目を見張る。
「いつまでも火が怖いなんて言ってたら、何も家事ができなくなって阿国さんを支えられない…。それが嫌ですから…」
薄ら目を開けて、七緒は焚火を見る。また僅かに身体に力が入ったのを感じて、阿国は心配になる。
「竃の火だって大きいんだ、無理しなくていいよ。できる人間が各々できることをすればいいんだから」
「ううん、したいんです…阿国さんのために。それにきっと…いつかそんなことも言っていられなくなると思うから…」
七緒はまた目を閉じる。緊張を吐き出すようにゆっくり息を吐いて、それきり黙ってしまう。彼女がどうして急にそんなことを言い出したのか、計り兼ねた阿国も言葉を見失ってしまうが、やがて傍から微かな寝息が聞こえだして、結局それ以上の追求はできなくなる。
「なんだろう、一体…」
一人呟いて、阿国は思考を巡らす。
七緒の中で、火とあの母子が何か結びついたのだろうか。この旅を終えたら二人で暮らす、それを七緒は想定しているようだが、先ほど言った通り、そうなっても阿国は七緒に家の全てを任せきりにするつもりなど毛頭ない。火が怖いというなら飯炊きは自分が担うし、湯を沸かすのだって率先してやるつもりだが、そんなことも言っていられない事態とはなんだろう、と思う。
しかしそこまで考えて、阿国は不意にはっとする。──二人で一つ処に暮らす。つまりそれは夫婦になるということで、引いては家族となり、それは即ち子の存在までも示唆させはしないか。
「っ……」
少し肌寒かった背が急に暑くなったような気がして、阿国は身動ぐ。その弾みで隣の七緒が小さく声を漏らして、阿国は慌てて姿勢を戻す。そしてそのまま先ほどの七緒のように縮こまるように背を丸めると、空いた手で前髪を弄って深い溜め息を吐いた。
「まったく…ただじゃ転ばない子だよ、ほんとうに…」
呆れつつも感心しながら、隣を見遣る。怯えた顔より寝顔の方がよっぽど安心する。問題は朝まで約束を守ってこの体勢を保てるかだが、彼女の安寧のためなら背に腹は変えられない。まったくもって七緒にはとことん甘いと我ながら思うが、彼女の安らかな笑顔こそが阿国が守りたいものなのだから、仕方がなかった。
弱まってきた焚火に、阿国は枯れ枝を幾つか放り込む。ぱちりとまた隆盛を増す炎を見守って、もうこんなことが起こらないようにしなければ、と改めて決心する。火を克服したいというのなら、それでいい。手伝えることは何だって手伝う。けれど、こんな風にやむなく恐怖と対峙させるようなことは、やはりさせたいとは思わなかった。
近くの夜陰から梟の鳴き声がして、草間からは秋虫の囀りが聞こえる。夜はすっかり更けて、見上げた小さな夜空には満天の星が光っていた。
──綺麗だな…。
あの星と生き物、そしてあの星のように阿国を照らす傍らの彼女の安らかな寝顔。愛おしい命を感じるそれらを今宵の友に決め、阿国は本格的に宵越しに腰を据えた。