キスの相性唇の、触れたところがぴりりと痺れた。
感電したようなそれは、心まで落ちていく途中にまるで雷にでも変わってしまったかのように、確かにオールマイトの心の中の、柔らかなところを打ち抜いていった。
『王様ゲーム、知ってます?』と問われ、オールマイトは、知ってはいるよ、と答えた。
「やったことはないけどね」
と続けてしまったのが、今思えば失敗の一つ目。
ヒーロー、かつ、ヒーロー名門校の教師という、世間的には聖職と思われるような職に従事していても、そこに居るのはみな欲も我もある一人の人間であることに変わりはない。そして酒なんか入った日にゃ、日ごろのストレスを晴らすようにはしゃいで乱れるのもこれは、人間なので仕方がないというもので。
そんなわけで教師寮の共同スペースでは、明日が土曜日と言うこともあり酒盛りが行われていた。開始からすでに2時間が経過したテーブルの上には、空の缶と瓶が並び、最初に提供された料理は跡形もなくなり、乾きものの袋が無造作に開けられて、アルコールの匂いが充満していた。つまり、全体的にすっかり出来上がっている、と言う状態。
オールマイトの斜め前のソファに、完全に背を預けて座っている相澤も、頬が赤く染まっていてどこか幼さを感じる眠たげな表情だ。なんだか頭でも撫でたくなるなあ、とほっこりしている時に、冒頭の台詞がミッドナイトより投げかけられたのだ。
「やだ、やったことないのぉ?オールマイト」
「そうだね、あまりこんな気さくに飲む機会もなかったし」
まだ身体がこうなる前でも、酒を飲む場と言えばパーティのような場所が多かった。プライベートで飲みに行くにしても、特別な関係を持つ相手を作ってこなかった自分は、一人でひっそりと静かなバーに行くのが精一杯。居酒屋やプライベートな場でワイワイと仲間たちと飲むなんてことは、そういえばここに来てからが初めてで。そんなことを思いながら微笑めば、ミッドナイトとマイクは示し合わせたみたいにタイミングよく互いの顔を見合わせ、それなら!と笑顔でこちらを向いた。
「せっかくだからやろうぜ!マイティ!」
「そうそう、大丈夫、そんな際どいことはしないから」
まだ宵の口ですしね、とミッドナイトが呟く。ならば夜が更けたらいったいどんなことをするのだろうと、それはさすがに遠慮させてもらおうとオールマイトは思いつつ。この酔っ払いの雰囲気に当てられたのかもしれない、じゃあやってみようか、とオールマイトはつい応えてしまった。のが、多分二つ目の失敗だ。
「さっすが、ノリがいいっすねマイティ、ならさっそく」
酔っ払いたちは未使用の割り箸をかき集め、くじ引きを作る。とはいえ今ここに居るのはオールマイトと、ミッドナイト、マイク、そして半分落ちかけた相澤だけ。すでに13号やセメントスは自分の部屋に引っ込んでいたので、ここにはいなかった。四本の割り箸が、マイクの握った右手からひょっこり飛び出ている。
「王様だーれだ」
ミッドナイトは一本抜くと、やった、と嬉しそうに唇の端を引き上げる。
「あたしが王様ァ」
「姐さァん……マイティもいるんで、お手柔らかにしてくださいよォ」
「んふふ、どうしようかしら」
目が据わった女傑は、楽し気にゆらゆらと指先で割り箸を揺らす。ほらと促されたオールマイトが割り箸を抜けば、そこには「3」と書いてあった。マイクは自分でも一本抜き、最後の一本を舟をこぎ出した相澤の手に押し付けた。
「じゃあねぇ!そうね、まずは1番と2番でキス~!」
「いやいやいや、いきなりそれですか姐さん!!!」
焦った声を上げるマイクに、けらけらと楽しそうにミッドナイトは笑う。
「まだ宵の口だからこれくらいなのよぉ」
ねえねえ、オールマイトは何番だった?と聞いてくるので、オールマイトは3番と書かれた割り箸を差し出す。ミッドナイトはなんだぁ、と少しばかり残念そうに眉を下げた。
「オールマイトと誰かがキスしたら楽しいと思ったのにィ」
「やめてくださいって、もう……」
大分酒は回ってても、オールマイトへの気遣いは忘れないマイクが大きく息を吐き。
「ほら、ショータ、姉さんが俺とキスしろって」
ソファからずり落ちそうな相澤の肩を叩く。ほぼ閉じかけていた目を開け、ぼうっとした顔で相澤がマイクに顔を向けた。
「ん……?なに?」
「王様ゲームだってば。お前と俺でキスすんの。アンダスタン?」
指で互いの唇をあっちこっち、と指さすマイクを見て、のろりと相澤は身体をソファの上に戻し。隣に座っているマイクの首にぐいと手をかけると顔を寄せ、がぶ、と噛みつくようなキスを躊躇もなくしたので、オールマイトは心臓が飛び出るかと思った。
「ん」
これでいいだろと言わんばかりにマイクを睨み、相澤は目を伏せる。マイクは痛ェよと苦笑してから、ミッドナイトのほうを見た。
「あーあ、あんたたちだと慣れててつまんなァい」
唇を尖らせるミッドナイトに、マイクはおおげさに目をぐるりと回してから肩を竦める。
「そらそうでショ、姐さんを筆頭に散々やらされてンだから」
「そんなに、したのかい?」
思わずそう口を挟むと、そうなんですよ、とマイクは可笑しそうに言った。
「学生時代からずっと一緒だし、なんだかんだでこういう飲みの席も一緒のコトが多かったんで、まあ、結果的にっスね」
「もっとすごいこともしてるわよねェ」
ふふふと笑うミッドナイトに、マイティの前でやめてくださいよ!とマイクが顔を歪める。もっとすごいこと、といわれてもオールマイトには想像ができず、ただなんとなく、腹の奥がずしりと重たくなるような感覚。なんだか分からなくて、首を傾げる。なんだろう、気分が良くない。胸のあたりがもやもやと、不快。
ふと、どこかから振動音。
「ん?あら、ちょっと待ってね」
なにかしらと、ミッドナイトはスマートフォンを手にして、共同スペースのドアから外に出て行く。ほっとした顔でマイクがこちらを見たので、オールマイトは何とも言えないまま見返した。
「すみません、気分悪くなっちゃいました?」
いきなり野郎同士のキスとか、見たくないっすよね、と苦笑されて。そういうことではないのだけれどと思いながらも、適切な言葉が見つからずにオールマイトは黙り込む。それをどう取ったのか、マイクはすみません、ともう一度言うと立ち上がり、腕を上げて大きく伸びをした。
「また姐さんに捕まっちまう前に、ここお開きにして片付けちゃいましょうか」
「いいのかい?」
「ショータも寝ちまいましたし、姐さん、さっきのアレ仕事のほうのスマホだったから、戻ってこねえかもしれませんし」
ならばと立ち上がるオールマイトに、マイティは座ってていいっスよ、とマイクは今まで居た相澤の隣の席を勧めた。確かに、片付けをするならば今までオールマイトが座っていた場所は動線的に邪魔になる。
「悪いね」
座りながらそう言えば、ひらひらと片手を振ってマイクは笑った。下ろしている長い髪がさらりと揺れたのをかきあげ、手早くテーブルの上のものを回収していく。
「いーんすよ、ほとんど俺たちが飲み食いしたものだし」
テーブルとキッチンを二往復ほど行き来して、テーブルの上を綺麗に拭きあげると、マイクはそのままキッチンで洗い物を始めたようで水音が聞こえてきた。ミッドナイトはマイクの予想通り戻って来ず、オールマイトの隣からは、微かな寝息が聞こえてくるだけ。
隣を見遣る。ソファに背を預けてもたれているせいで、上を向いた唇が薄っすら開いていた。すこしかさついて皮がめくれているそれは、けれど眺めていればどうにもそわそわと、心を焦らせた。これが何なのか、正体がわからないまま、触れてみたいという衝動だけが湧き上がってくる。
「ねえ、相澤くん」
そっと、顔を寄せて耳元で囁く。酔っぱらって寝てるのだ、きっと彼は反応するはずがないと思いながら。
「王様ゲームでね、私と、君がキスしなきゃいけないみたいなんだけど、してくれるかい?」
そうだ、私は相澤君とキスしてみたいと思ったのだ。マイクを、羨ましいと、思ったんだ。
言葉にしたせいですとんと感情が腑に落ちる。腑には落ちたが、なぜそう思ったのか、までは思考が働いてくれなかった。ふふ、と笑みをこぼし、何を言ってるのかと自分に呆れながら身体を離そうとしたところで、さっきマイクにそうしたように相澤の腕ががしりとオールマイトの首にかかった。
「え?」
ぐ、と遠慮のない力で引き寄せられる。ひどく近い距離で、とろりと薄く開いた目の中、寝ぼけたような黒い瞳がこちらを見ていた。
「あいざわ、く」
「……こんどは、あんたですか?」
そっと、顔が近付く。反射的にオールマイトは目を閉じていた。マイクにやったそれより、だいぶ優しく。ふに、と柔らかく唇が触れる。その瞬間、ぴりりと唇の先に電気のようなものが走る。それは感電したように全身を震わせ、ぞくぞくと背骨を駆け下りていった。そしてそれが収まると、ふわふわと心が満たされるような不思議な心地よさが襲う。50年とさらに幾歳生きてきて、初めての感覚だった。それはそうか、キス自体が初めてだから。キスってすごい、こんな衝撃的で、暖かな多幸感を得られるものだったとは。
思ったより長い時間だった、と思う。唇が離れたので目を開けてみれば、まだ触れてしまいそうな近い距離を保ったままの相澤が、ぼやけた視界の中でひどく驚いた顔をしているように見えた。
「――どうしたの?」
「あ、いや」
こつ、と額がぶつかる。んん、と相澤は小さく唸った。
「もっかい、してもいいですか」
「いいとも」
そう答えるや否や、すぐに唇がまた押し当てられる。先ほどと同じではないが、まだどこかぴりぴりと痺れるような感覚が身体を襲い、じわ、と知らなかった欲が腹の奥で熱を持つ。すぐそばのこの身体をきつく抱きしめたい衝動に駆られるが、それを許されるのか分からなくてぐっと手を握ることでオールマイトは衝動に耐えた。角度を変え、ふに、ふに、と押し当てられる柔らかさにくらくらする。
唇を離した相澤は、先ほどよりも頬を赤らめ、どこか焦った顔をしていた。
「キスってのは、気持ちいいもんだね」
「ああ、まあ、本来は気持ちよくなるためにするもんですからね」
返ってくる言葉はいつもと同じ、素っ気ない声色だが、でもどこか熱っぽく濡れたように聞こえるのは自分の願望が混じってるせいか。若い頃はともかく、この身体になってからはついぞ感じたことのないふつふつとした欲を腹の奥に感じて驚く。
「キスまで、ナンバーワンってやつかよ」
ぼそ、と相澤が呟いた言葉が聞き捨てならない気がして、オールマイトは首を傾げた。
「どういう意味だい?」
「あ……すみません」
「いや、咎めてるわけじゃないんだけどね……どういう意味かなって思っただけだよ」
相澤はきょときょとと困ったように視線を泳がせてから、ぼりぼりと頭を掻く。もたれて眠っていたせいで、ひとまとめにしてた髪が緩んでいて、少し崩れた様子がひどくセクシーだなとオールマイトは沸騰したような頭で思った。
「あー、そうですね……こんな、キスだけで全身気持ちいいとか、初めてだったんで」
さすがナンバーワン、なのかなと、と言われてぎょっとする。オールマイト自身も、信じられないくらい全身が痺れ、震え、気持ちがよかった。もっとしたいと、つい思ってしまうほど。
「――私も、そう思ったよ」
「え?」
ごく、とはしたなく喉が鳴る。ひどく興奮している自分がいることに驚きつつ、けれど、目の前の彼も、すっかり目が覚めた様子で充血した目に欲を滲ませてこちらを見上げていた、ので。
「ねえ、相澤君……ひとつ、提案してもいいかい?」
私の部屋に来ないかい?と囁く。
二人きりになりたかった。もっとキスしたいと思った。キス自体の経験は初めてでも、映画でキスシーンはいくらでも見た。あの、映画で見た深いキスも、相澤としてみたいと思った。触れ合わせるだけでこれほどまでに気持ちいいものが、いったいどうなってしまうのか。
相澤は、きゅっと唇を結んで。戸惑うように、少し恥じ入るように顔を伏せたけれど、でも、明確に、こくりと頭を動かし頷く。オールマイトはその肩を抱くと、ぐっと自分のほうにもたれさせた。ちょうどキッチンの水音が途切れたのだ。
「マイク」
「はい?」
どうかしました?とキッチンから返事が聞こえたので、オールマイトは出来るだけ平常時の声を心がけて。
「相澤君、いま起きたから、今のうちに一緒に部屋に戻るよ」
「あァ、ほんと手がかかるマイフレンドですみませんねェ。お願いします」
「いやいや、問題ないよ」
ほら、いこう、と耳元で聞こえないように囁けば、相澤は顔を上げないままのろのろと立ち上がった。眠気は少し冷めたようだが、それでもまだ多少は酔っ払いなのかもしれない。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
どこか後ろめたいような、けれどどきどきそわそわする感覚を全身に感じながら、暖かい体温を抱きしめて進む。そう言えば、寮の自分の部屋に誰かを入れるのは初めてだなと思いながら、オールマイトは大人しく腕の中にいる相澤を自室に連れ込んで。
そして、ドアに鍵を閉める、と同時に覆いかぶさるようにきつく抱きしめた。屈んで唇を触れ合わせる。ちゅ、ちゅ、とさっきよりも激しくリップ音をたてながら、遠慮なく吸い上げればジンと頭の中が痺れた。触れた身体も熱い。抱きしめれば抱きしめるほど、身体に馴染むようにフィットしていく気がする。互いにリラックスした緩い部屋着を着ているが、それすら邪魔な気がしてきて、すべて脱いで抱き合いたいとさえ。
「ん、は、ぁ」
息継ぎするように相澤が息を吐く。身長差のせいで、首を上げ続けなければならない相澤が苦しそうだと思って、オールマイトは少しかがんで相澤の身体をいわゆる姫炊きで抱える。
「ちょ、ちょっと、っ!?」
「移動するだけ」
驚く相澤を唇で黙らせ、口付けを繰り返しながらベッドに向かう。この時は、キス以上のことをしようと思ったわけではないと、言い訳をしておく。ただ、辛くない体勢でキスしようと思えば寝そべったほうがいいと思ったまでだ。ベッドになだれ込み、相澤の身体を潰さないように自分が仰向けになって、相澤を身体の上に乗せた。焦ったように彼は腕の中で身じろぐ。
「おーるまいと、さ」
「ん?苦しいかい?」
「いや……俺は大丈夫ですが、あんた、重くないですか?」
「羽のように軽い、とは言わないけど、全然重くないから安心して」
むしろ思ったより細くて驚いた。ツナギや部屋着は緩いシルエットの服ばかりなので気付かなかったが、抱きしめた腰の細さにぞくぞくとおかしな気分が湧いてくる。オールマイトはゆるりと相澤を抱きしめたまま、近くなった距離に任せて続きを促すようにちゅっとその顎に口付けた。相澤は少し戸惑うようにオールマイトを見下ろしたが、そっと、オールマイトの唇に己のそれを押し当てる。角度を変え、少しずつ深くしていけば、ひく、ひく、と腕の中で相澤が震えるので気分がいい。
「舌、入れても?」
触れ合わせたまま掠れた声で囁けば、相澤は薄く目を開け。ぺろ、とオールマイトの唇を舐めたので、おかえしというようにオールマイトも下を伸ばす。先を触れ合わせると、ぞくぞくぞくと最初にキスしたときに感じたそれよりも激しく、背中が震えた。がば、と相澤が逃げるように身体を起こす。
「だ、だめ、です、これ」
「相澤くん?」
「駄目です、オールマイトさん、こんな、こんなキス、っ」
「相澤くん」
逃がしたくなくて引き寄せ、ごろりと反転させて覆いかぶさる。いやいやと言うわりにどこか期待した唇を吸ってやれば、身体を震わせながら相澤は腕の中で大人しくなった。ぎゅっと、縋るように腕を掴んでくるのが愛おしい。
「相澤くん」
啄むように唇を触れ合わせ、それからそっと、力なく空いた隙間から舌を差し入れた。柔らかな粘膜を確かめるように、口の中に触れて行けば、そのたびにびく、びく、と相澤が震えた。ざらりとしたあごの裏を擽れば、己の舌先すら気持ちよくて。とろとろと口の中に流し込んだ唾液を、相澤がこくりと飲む音に、オールマイトの脳みそがジンと痺れて熱くなる。全部、喰らいつくしてしまいたくなるような。どこにも出さないで、ずっと、腕の中に閉じ込めてしまいたくなるような。今まで一度たりとも感じたことのない昏い欲に、自分で驚く。
ちゅぷん、と濡れた音を立てて。とどまりたいと駄々をこねる舌を相澤の口の中から引き抜いて、蕩けたように己を見上げる相澤の顔を見つめた。
「おー、る、まいと、さ」
「相澤くん」
かさついていたはずの唇が、しっとりと濡れているだけでなく、ぷっくりと腫れて赤くなっていた。自分の唇もなんだかじんじんとして違和感があるので、きっと腫れているのだろう。けど、やめたくない。
「どうしよう、気持ち良すぎて止まらないね」
「そう、ですね」
「どうしたらいいのかな」
「どうもしなくて、いいんじゃないですか?」
明日は休みですし、と、どこか舌ったらずな言い方で相澤が呟く。視線を逸らした目元が、ほんのりと赤い。
「じゃあ、もっとしてもいいということかな?」
「お好きにどうぞ」
嫌だったら嫌だって言いますよ、と。
ふふと笑った顔がとてもかわいかったので、オールマイトは互いに疲れて寝落ちするまでずっと、相澤の唇を離してやらなかった。ずっとずっと、何度しても飽くことなく気持ちがよかった、ので。
翌朝。
部屋の簡易キッチンで朝食を作っていれば、なんで俺はオールマイトさんの部屋で寝てるんですか?と、すっかり記憶を飛ばした相澤がのそりとベッドから這い出してきたので。
「キスしたら気持ち良すぎて朝までしてたんだよ」
と言って、まだ赤く腫れていた唇を、思い出させるように10分ほど貪ってみたら、朝から信じらんねえ、と怒られたけど、でも、相澤はどこか納得した顔をして。
「これなら、仕方ないですね」
と、オールマイトの唇に、触れた。
中毒というのはこういうものだと、知った。