合図を決めよう、と言ったのは、確かオールマイトからだったと思う。。
オールマイトと相澤は、いわゆる恋人同士になった。
学校では同僚かつ担任と副担任、帰る場所は互いに寮で、同じ屋根の下で暮らしている。互いに多忙な身とはいえ、下手をすれば四六時中傍に居るのに、それに恋人と言う属性が付加されたからといってそもそもが一緒に居る時間が長いのだ、そう、二人の時間が大幅に増えることもない。
けれど、オールマイトは少し不満そうだった。一緒に居る時間は確かに長いとはいえ、それは二人きりの時間ではない。寮の共有スペースや校内では、傍で話すことはあっても、指一本、触れることを相澤は許さなかった。それはオールマイトももちろん納得はしてるのだが、それならば二人きりの時間を増やそう、とある日、しびれを切らしたようなオールマイトから提案をされた。
「寮の部屋で二人きりならいいだろう?すこしくらい、その、触れても」
「――あまり頻繁でなければ、まあ。あと、少しにしてくださいね、さすがに、その」
「もちろんさ!」
少しでいいんだと、両手を合わせて拝むようにされれば駄目とも言えない。惚れた弱みだ。頷いた相澤に、ああそうだ、オールマイトはそれなら『部屋においで』の合図を決めようと言ってきて、それで。
放課後の職員室。定時を過ぎれば、どこか弛緩した空気が流れる。
『今日は、なんかあんの?』
マイクの言葉に、ちらりとそちらを見て。相澤はすぐに視線をパソコンに戻す。
「ひとつやっつけなきゃならんのがある。が、その後は、特には」
『マジ?なら久々に飲みに行こうぜ!』
ん、と相澤は考える。夜警もないし、特に予定もない。たまには付き合ってやらないと拗ねるだろう。
「腹減った。がっつり食えるとこにしろ」
『やったー!りょーっかい!』
うきうきとマイクが店を調べ始めたのを横目に、相澤は完了したファイルを一つ保存して閉じた。あともう一つ、今日中の申請書類があるはずで、開こうとしたらオールマイトが編集中との文字。振り返って様子を見れば、オールマイトはパソコン画面を睨んで唇を尖らせていた。相澤が席を立ち、オールマイトの席に向かえば、彼はそれにすでに気付いていたようでぱっと相澤のほうに顔を向けた。
「相澤くん、何かあったかい?」
「あなた、今、何のファイル触ってます?」
「え、こ、これだけど」
ノートパソコンをずらして見せられたのは、やはり相澤が編集しようとしていたものだ。
「……俺、オールマイトさんにお願いしましたっけ?」
「ううん、でも、明日の演習前に作っといたほうがいいやつだよなって思ったから」
――さすが、なんて褒めたら、調子に乗るだろうか
唇が勝手に笑みを形作ったようで。オールマイトは少し驚いた顔をすると、じっと、相澤の顔を覗き込む。
「明日は、雪が降る?」
「どういう意味です?」
「君が笑ってくれた」
オールマイトは小声でそう言って、ふふ、と嬉しそうに目元を緩ませた。
「いえ、助かると思っただけです。作ったらチェックしますので」
「ちょうど出来たところさ」
印刷ボタンを押して、オールマイトはぱたぱたと複合機のほうに駆けて行き、すぐ戻って来た。そのまま相澤に渡すかと思いきや、席に戻り、デスクの引き出しを開けると奥の方から大事そうに取り出した黄色い付箋を一つ、端に付ける。
「――よろしく」
プリントを差し出し、含みのある上目遣いで、オールマイトは相澤を見上げた。どくんと、心臓の音が跳ねる。何も書かれてない黄色の付箋と、よろしく、の合言葉。それは。
「すみ、ません。今日、マイクと飲みに行くんですが」
「いいよ、何時でも待ってる」
「遅くなるかもしれません」
「少しで、良いんだ」
つ、とオールマイトの指先が、相澤のプリントを持つ手の甲をなぞる。ハッとして思わず振り払ってしまった相澤に、オールマイトはくすくすと笑って目を細めた。両手を上げ、もうしないよと言うみたいにひらひらと手を上げる。
「ね?」
ぐ、と口を噤んだ。けれど、頷くしかなくて相澤はこくんと顎を引く。
今だけで、悲しいかなもっと触れたくなった。二人きりで傍に居て、触れたいのは、何もオールマイトだけではない。
「分かりました……これは今、チェックして返却します」
「ああ、ありがとう」
席に戻りながら、相澤は今日の酒量は控えようと心に決めた。
こんな気分で飲み過ぎたら、あのひとに襲い掛からない保証はない。