「クリーチャー、ハッピーバレンタイン」
そう言って目の前に差し出されたのは小ぶりなバラの花束と地味ながらも高級感のある小さな箱。
「……!?と、突然なんのつもりだ!?」
「今日はバレンタインだろう?花束は邪魔なら私の部屋に飾っておいていい。小さい箱はチョコレートだ。お前の貧乏舌にはもったいない品だが……まあ、味わって食べなさい」
確かに今日は2月14日、いわゆる恋人の日といわれるバレンタインデーだ。数日前から荘園内もどこかそわそわとしていた。厨房で何やらはしゃいでいる女性陣を見かけた気がする。
いや、周りのことはどうでもいい。そんなことよりも目の前の状況だ。
「お、おまえ、こ、こういうイベントに興味あったのか?」
「職業柄イベントには気を配っている。それに、好きな相手に贈り物をするというのは心弾むからな。もしかして迷惑だったか?それなら持って帰るが……」
「や、やめろ!これはもうクリーチャーのものだ!」
「そうか。お気に召したようで何よりだ」
セルヴェの手から花束とチョコを奪い取る。セルヴェは少し驚いた顔をしたがすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
クリーチャーのための贈り物。花で腹は膨れないはずなのに、こんなに欲しいものだったか。
手の中に納まるプレゼントを見て、ふと我に返る。セルヴェはバレンタインを気にしていて、嫌いでもないそうだ。つまりクリーチャーからのプレゼントも期待していたのでは。
「……わ、悪い。わ、私は、な、何も用意してない」
今更取り繕うこともできない。クリーチャーもバレンタインに何かするべきか少しは考えたのだ。だが、普段の様子からセルヴェはこういう浮ついたイベントは嫌いだと思い、何も用意しないことにしたのだった。
「気にしなくていい。私が勝手にしたことだ。」
「い、いや、き、気にするだろ」
返答は予想していたが気にしない方が無理だろう。金額だけで全てを量るわけではないが、花束も高級チョコも荘園ではそう簡単に手に入るものではない。さすがに何もしないのはきまりが悪い。
「そうか、それなら……」
するりと腰に手を回され引き寄せられる。
「今夜、私の部屋に来てくれないか?」
耳元でつぶやくように告げられた言葉は、明らかに朝に似つかわしくない湿度を含んでいた。
「なっ、何のつもりだ!?」
「贈るチョコレートを選ぶためにいくつか取り寄せたのだが1人では食べ切れなくてな……何か期待していたのか?」
セルヴェの顔を盗み見れば、ニヤニヤしながらこちらを見つめていた。これは、どう見ても、からかわれている!
「……そ、そんっ、そんな訳ないだろ!!わ、わかった!よ、夜お前の部屋に行くからな!!」
「ああ、待っている」
セルヴェの腕を振り払い、脱兎の如く駆け出す。
夜に部屋に行くのは断られなかったので、先ほどの会話の全てが冗談というわけではないのだろう。
……決して期待している訳ではないが、念のため、本当に念のため準備はしておこう。
。。。
クリーチャーからの贈り物がないことに対してセルヴェは気にしなくていいといっていたが、本来はクリーチャーもバレンタインに何か用意しようとしていたのだ。セルヴェがバレンタインを嫌っていないと分かったなら、今からでも何か用意したい。
幸い今日はゲームの予定もないのでほぼ丸一日暇だ。夜にセルヴェの部屋にいくにしてもまだ時間がある。
今日中に用意するとなると既製品に頼る他なさそうだ。花束とチョコレートを自室に置き、荘園内の売店……もといナイチンゲールの元に向かった。
……の、だが。
「し、品切れ!?」
「はい。申し訳ございません」
プレゼント用のチョコレートも製菓材料もバレンタインに関する商品のほとんどが品切れだというのだ。
「う、嘘言うな!!ば、バレンタインだぞ!?」
「バレンタインだから、でしょう。本日はプレゼントを渡す日、本来であれば事前に用意しておくのでは?」
「だ、だとしても、こんなに何もないのはおかしいだろ!」
「荘園は閉鎖空間ですから、基本的に在庫が残らないように入荷しております。特に季節商品の食品は入荷数を絞っております。どうかご理解ください」
ナイチンゲールのいうことは紛れもない正論だ。荘園の敷地は広大で多くの者が生活してはいるが閉鎖空間に変わりはない。渡す相手も限られているので事前に用意しておくだろうし、食品を必要以上に入荷したら処分費用の方が高くつく。荘園は面白いイベントであれば何でも取り入れるので、お返しをするとしても3月14日のホワイトデーでいい。
「ま、全く在庫がないのか?」
反論の余地がないが、後にも引けないので食い下がる。
「あるにはありますが、そうですね……」
そういってナイチンゲールは木製の箱を取り出した。木製の箱の中から手のひらサイズの箱を取り出し、蓋を開けてこちらに差し出す。箱の中には球体のチョコレートが3つ並んでいる。
「こちらはとある高級チョコレートを私の力で再現したものでございます。外箱も合わせて約9万エコーでございます」
「か、か、買えるか!!」
作ったやつも買うやつも馬鹿なのか。外箱がなかったとしても、いまのクリーチャーには全く手の届かない値段だろう。これは在庫が無いと同義だ。
「あるいは……贈り物には向きませんが、通年販売している板チョコなどは在庫がございます」
「い、板チョコ……」
それはさすがに贈り物としては駄目だろう。もしかするとセルヴェはそれでも喜んでくれるのかもしれないが……良心の呵責に苛まれること間違いなしだ。製菓材料も合わせて購入できれば何か作ることもできたが、今日に限っては品切れのため菓子作りも難しい。
「……食品以外の贈り物であれば、まだ在庫はございます。ご覧になりますか?」
「み、見てみるか……」
セルヴェが花束をくれたようにチョコレート以外の贈り物でもいいかと思ったが、こちらも品切れが目立つ。
そもそもセルヴェが喜びそうなものといえば、質のいいステッキに質のいいコート……大体高級品なのだ。在庫があったとしてもクリーチャーが買うことが出来るのかは怪しい。
「……な、ナイチンゲール。これ、くれ」
「板チョコ1点で80エコーです。……はい、丁度いただきました。またのお越しをお待ちしております」
何時間もかけてナイチンゲールの店を見て回ったが、金のないクリーチャーが購入することが出来たのは板チョコ1枚のみだった。
「……」
朝は晴れていたはずの空は気づけば厚い雲に覆われている。まだ日が傾く時間ではないのに廊下はやけに暗かった。
。。。
中身の入ったマグカップを持って廊下を歩く。一つだけだからと手で持ってきてしまったが、歩くたびに中身が揺れる。多少こぼしてしまっても大丈夫なようにお盆に乗せてくればよかった。
……いっそ全部こぼしてしまおうか。そうすればセルヴェに渡さなくていい。いや、もったいないし掃除も面倒だし、何よりセルヴェに渡したい。駄目だ、マグカップの中身も思考もぐるぐると安定しない。
やけに長く感じた廊下もついに終わりが来てしまった。ここはセルヴェの部屋の前。ノックを数回すれば、すぐに扉が開いた。
「クリーチャー、待っていたぞ。ん?そのマグカップはなんだ?お前の分の飲み物も用意してあるが……」
セルヴェの方からマグカップのことを聞かれたのは好都合だ。大丈夫、何だかんだ言ってもセルヴェはクリーチャーに甘い。小言の一つや二つは言われても拒否されることはない、はずだ。
「ば、バレンタイン、なんだろ」
「……そうだな?」
「だ、だから、バレンタインなんだろ!?」
なんでそう妙に察しが悪いんだ!いつもいつもいらないことにはすぐ気が付くくせに!
「い、いいから、の、飲め!」
「私が飲むのか!?」
ここまで言っても駄目なのか。いや、違う、そうか、察しが悪いのはクリーチャーの方だ。セルヴェはこんなものいらないんだ。セルヴェなら喜んでくれる?こんなもので?初めから分かって分かっていたはずなのに、何を根拠に、こんなもの用意しなければ、
「……クリーチャー?急に押し黙ってどうしたんだ?」
「も、もういい、く、クリーチャーが飲む!い、い、いらないんだろ!?」
「は?あ、待て!」
マグカップを持ちあげた手は寸でのところで押さえられてしまった。
「は、離せ!」
「……すまない。とりあえず部屋に入らないか?」
セルヴェの部屋に入り、丸テーブルを挟んで向かい合って座る。テーブルの上には品の良さそうな箱がいくつか並んでいる。どれも中身はチョコレートだろう。甘いものは好きだが、今は視界にも入れたくない。
「……少しは落ち着いたか?」
数分の沈黙の後、セルヴェが口を開く。クリーチャーは喋るのが何だか億劫でこくりと頷いた。
「よかった。少し確認させてほしいのだが、それはお前が私のために用意したのか?」
それ、と指差したものはクリーチャーが握り締めているマグカップだ。先ほどよりも小さく頷く。
「そうか……言い訳なんて情けないが、お前が何か用意しているとは思っていなくて驚いてしまったんだ。本当にすまなかった。ありがたく頂こう」
「い、いいのか?な、何か入ってるかもしれないぞ」
「お前が私のために用意してくれたんだろう?例え毒であっても喜んで飲むさ」
「ど、毒なんて入れるわけないだろ!!」
誤解が解けてしまえばこんなにあっさり受け取って貰えるとは信じ難い話だった。しかし、セルヴェは無意味に嘘をつくような奴ではない。まさか毒でもいいとまで言い出すとは思わなかったが、その言葉もきっと本心だろう。だが、それでも、
「ど、毒は入ってないが……せ、セルヴェが用意したチョコの方が美味い、から、の、飲まなくていい」
隠すようにぎゅっとマグカップを握り締める。受け取ってもらえるのは嬉しい。だが、やっぱり受け取って欲しくない。味だけじゃない、これは、全部全部セルヴェには相応しくない。
「……ああ、そういうことか。」
セルヴェは何か納得したように、一呼吸置いてから子どもに語りかけるようにゆっくりと話し始める。
「クリーチャー、お前がいくら菓子作りが得意でも、修行を積んだショコラティエのチョコレートに味で勝てるわけがないだろう」
「そ、そこまで、は、はっきり言われなくてもわかってる!!」
そんなこと誰よりも自分が分かっている。改まってはっきりと告げられたくない。
「だが、どんな高級チョコレートよりもお前の贈り物が勝っている点がある。何だか分かるか?」
「そ、そんなもの、あるわけない」
「いいや、確かにある。ゆっくりでいいから考えてみなさい」
断言されてしまった。こうなったら何を言ってもセルヴェは譲らないだろう。
仕方ないので必死に思考を巡らす。味は既に負けている。値段だって原価からして安物だ。見た目だってトッピングもないし容器は食堂にあったマグカップ。好みを考えて味の調整くらいはしたが、セルヴェはそもそも甘いものが取り立てて好きということはなかったはずだ。駄目だ全然思いつかない、出まかせでもいい、商品にできなくて私だけができること……
「……お、お前のことを、考えた時間、とかか?」
何を言っているんだと自分でも思う。だが、おそらく、売り物にするチョコレートを個人を思って作ることはないだろう。ならば完全に的外れということも、ない、はずだ。とにかく、答えは出したのだから正解でも不正解でも何か言って欲しい。
「……っふふ、そうなのか」
セルヴェは口元を押さえているが、どう見ても!笑っている!
「な、何だ、お、お前、だ、騙したのか!?」
与えられた返答が正解でも不正解でもなかったことに腹が立つ。ついでに、もしかして私はかなり恥ずかしい発言をしてしまったのではないか?という後悔の念もやってきて、じわじわと顔が熱くなる。
「いや、すまない。嬉しかっただけで騙してなどいないさ。それとも先ほどの答えは嘘だったのか?」
「う、嘘では、ないが、」
「ならば正解だ。それがどんな高級品にも勝る価値であり、私が求める理由になる。」
「う……で、でも、」
「クリーチャー。私のわがままを聞いてくれないか?」
理由も告げずに飲めと言ったり、受け取ろうとしたら理由をつけて渡そうとしなかったり、わがままを言っているのはクリーチャーの方なのに。
いつもそうだ。逃げられなくさせて、それでもまだ逃げ道を用意して、いじわるだ。
「……ま、まずくても文句言うなよ」
最後の抵抗にテーブルの上をずりずりと引きずってマグカップを渡す。
「ありがとう」
セルヴェはマグカップを受け取り、中身を確認するとゆっくりと口をつけた。喉仏が1回2回と動くのをじっと見つめる。
「……これは、ホットチョコレートか」
「あ、その、本当はもっと凝りたかったんだが、か、買えたのが板チョコだけで、い、いつも飲んでる牛乳はあったから、」
セルヴェが口を開いたのに対して、勝手に口が回り出す。聞かれてもいないことまでべらべらと並びたてるなとどこか冷静な自分がいるが止められない。
「大丈夫だ、とても美味しい。チョコレートの風味がしっかり残っていて、それでいて甘さは控えめで私好みだ。本当に私のことを考えて用意してくれたんだな。」
「よ、よかった……あ、いや、く、クリーチャーがわざわざ用意したんだから、と、当然だ!」
今までの不安が嘘のように消えていく。何を不安になっていたんだろう。クリーチャーがわざわざ用意したんだ。セルヴェは喜ぶに決まっていた!
「ふふ、そうだな。さあ、お前が用意したものには及ばないがチョコレートは沢山ある。一緒に食べるとしよう」
テーブルの上に並んだ箱たちももう怖くない。ふん!ただ高いだけのチョコレートがクリーチャーに勝てるわけがない!
「あ、」
そういえば一つだけ忘れていたことがあった。
「うん?どうした?」
「……は、ハッピーバレンタイン」
「ああ、これ以上ないほどに素晴らしいバレンタインだ」
。。。
ほわほわとした倦怠感の中、ぼんやりと暗い天井を眺める。
このまま眠ってしまいたいような、もったいないような。いや、シャワーを浴びないまま寝るとまた小言を言われるので眠ったりはしないが。
「そういえば、昔のチョコレートは媚薬として扱われていたそうだ」
セルヴェが思い出したかのように口を開く。
「ふーん?」
何となく聞いたことがある話だが詳細は知らない。ただの雑談なのか何か期待しているのか。クリーチャーには分からないしどちらでも嬉しい。なので曖昧な相づちを打つだけだ。
「いつもより乱れていたのはチョコレートのせいか?」
雑談、だろうか。チョコの効果はよくわからないし、そうでなくても最中はいつもよくわからなくなってしまっている。そんなこと言ってやらないが。何と答えても別にいいのだろう。
ああ、でも、シャワーを浴びるのが面倒になってきた。そうだ、クリーチャーが気をやってしまえばそのまま寝てもセルヴェは小言を言わない。
「こ、効果が気になるなら、じ、自分で確かめてみたらどうだ?ひひっ」
ベッドサイドに置いてあった小箱を引き寄せ、中からチョコを一粒取り出してセルヴェに差し出す。
もしかしたらセルヴェもどちらでもいいのかもしれない。ならばセルヴェに選んでもらおう。
「……ああ、これは間違いなく媚薬だな」
セルヴェはクリーチャーの手首をつかみ、クリーチャーの指ごとチョコに歯を立てた。