わたしを離さないで
作品は作者を物語る、作者の内部をさらけ出す、でしたか? だいたい当たっています。言い直しましょうか。あなた方にも魂が――心が――あることが、そこに見えると思ったからです。
――『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ
「芸術の心得も多少はありますよ」
茨は左の手でホワイトボードに落書きをして、そう云った。
「施設にいた時はよく作品を作っていましたよ。それが仕事でした」
白い部屋に、私と茨だけがいた。
「魂が宿っているか、の確認だったんですかね」
臙脂の艶やかな髪が揺れる。振り返って、海色の目と目が合った。美しかった。静謐を塗りこめて、佇(たたず)んでいる。
時間がきてしまう。
「君の作品、見てみたいな」
「はあ。展示館にあるかわかりませんが。もう破棄されているかもしれません」
「そう」
もっと知りたかった。初めて会った人物に、これほど惹きつけられることは今までなかった。初めて、ではないのかもしれない。難しい表現だ。
時間のベルが鳴る。
「……いこう」
私は茨の手を引いて外へ出た。
***
くらい海沿いをリムジンは走った。座席に並んで座った茨はぼんやり水平線を見ている。
「二人きりだから、気楽に喋って。敬語ではなくて……私、その方がいいな」
「そう」
曇天がどこまでも続く。もうすぐ雨が降る。
「あんた何歳?」
「十八」
「年上じゃん。いいの?」
「うん」
こちらを見た。澄んだ海色をとらえる。
「なんて、呼べばいい?」
「私の名前は乱凪砂。なぎさだよ」
「なぎさ」
なぎさ、なぎさと、小さく、茨は繰り返す。
「俺は茨。まあ知ってただろうけど」
「うん」
茨はまた海を見た。二人して黙ったまま、揺られながら曇天の先を目指した。
***
屋敷について、食事をする。ミートローフに赤赤としたドミグラスソースがかけられていた。茨は綺麗にそれを食べている。静かだった。
「若い血を浴びると、本当に若返るんだよ」
茨が思い出したようにつぶやく。
エリザベート・バートリのことではないらしい。最近の細胞学の論文にそんなことが書いてあった。
「よく血を抜かれてた。たぶん使ってたんだと思う」
「そう」
「肉の塊も若い方がいいっていうの、理にかなってたんだね。俺たちのことだけど」
茨はわざとらしく笑顔を作ってから、皿にフォークとナイフを置いた。食べ終わったらしい。
「俺、何時に帰るの?」
「茨の家はここだよ」
「なんで?」
「私の家族だから」
茨は美しい青をこちらに向けていた。怪訝な顔をする。
「なんで俺を?」
「もっと話したかったからかな」
「……」
茨は黙ってこちらを見ていた。不信な目をしている。
「俺を買ったの?」
「うん」
「バラして売る?」
「売らないよ」
「じゃあなんで?」
ナイフとフォークを置く。ナフキンで口元を拭った。
「……私が茨を貰ってはいけない?」
「こんな産業廃棄物を?」
「茨はそんなのじゃないよ」
黙っていた。窓に雨が流れる。青がただひかっている。
「一緒に生活しよう、茨」
返事はなく、遠くの雷鳴だけが響いた。
***
曇天を眺めながら廊下を歩く。たしかあそこの空き部屋に茨がいる。
茨はキャンバスに向かってくらい海をかいていた。濁った色に、少しだけ鮮やかな青が潜む。好きな絵だった。
「あんたは白いからこう云う絵に映えるね」
パレットナイフで絵の具を削っていく。ぼんやりとした人の輪郭が浮き出て、そこに私が現れた。
「この絵、好きだな」
「そう」
筆が走る。荒れた海に白い男が立って、遠くを見ている。天使の梯子が下がって、そこだけが救いのようにひかる。
きっと魂がある、そう思う。
午後の光のなかで、埃がキラキラと舞う。茨はくしゃみをして、また絵の具をとる。ターコイズブルーを、直接キャンバスに塗りこめた。
***
夜中に水を飲もうとキッチンへ降りていったら光が灯っていた。食料庫のドアーが開いている。奥へ入ると、小さなワインセラーの前に茨が座っていた。
「ワインって変な味」
「茨はまだ飲んじゃダメだよ」
ワイングラスを傾けながら云う茨の隣にしゃがむ。
「いいの」
そう云ってくいと赤黒い液体を飲み干す。赤が茨の顎を伝って滴り落ちる。
「茨」
「この体壊したい」
雑に滴りを拭って、茨はぼんやりと云った。
「もう良いんだ、壊しても」
美しい青がひかる。何を云おうか考えていると、茨が私の襟首を掴んで云った。
「俺を壊してよ」
キスをした。アルコールの味がする。押しつけて、震えるだけの、キス。それ以上を知らないキス。しなだれかかった茨を抱いて、背をさすった。
「壊さないで、茨。私、君と長く一緒にいる予定だから」
「なんで」
「茨が大切だから」
「そんなの……」
茨はなにか云いかけて黙ってしまった。触れ合った肌が熱い。しばらくして茨の手が私の背に伸びて、縋る。
「一緒に寝よう、茨」
熱い体を抱き上げて、さする。灯を消して、キッチンを後にした。
***
雨が降っていた。
薄暗い書斎にランプが光る。茨がいた。書類が散らばっていた。
「茨、冷えるよ」
ブランケットを肩にかける。茨はアルバムを見たまま云った。
「あんたの"父"のために死んだほうが良かった?」
生前の父をなぞって、指を止める。表情は伺えなかった。
「……父は君を殺したりしなかったでしょう?」
それは事実だった。
「君の内臓を貰わずに死んだよ」
死期を悟った父の指示。
「でも俺の前に何人か"仕事"をしている」
それも事実だった。
「俺も役目を終えたかった――あと少し成熟が早かったら」
「でももう君は臓器提供をする必要はない」
「あんたが買い取ったからね。――なんで? 俺が……」
「茨が、……私は、君のことを好きになったから。出会った時に、君を」
「俺が“父”のクローンだから、好きなんだろ」
「茨は茨だよ」
「嘘だ」
「茨」
茨は私の伸ばした手を払って、顔を上げた。
「ひどいよ」
海色の目がひかって、潤む。
「おれは、生まれる前から決まってた。生まれた時から家族なんて無いし、自分の体さえも他人のものなんだよ。この体は変えられないんだ。どこまでが自分のものかわからないよ。あんたは“父”が好きなんだろ、だからおれを引き取ったんだろ、おれが、おれが別のクローンだったら、そんなことしないんだ……」
涙が伝う。拭ってあげたかった。
「私は、茨が好きなんだよ。父も好きだった。けれど、君と父は違うでしょう?」
「おれが“父”のクローンだっていうことは変えられない」
茨の涙がひかる。興奮しているのか、頰と鼻が赤い。
「――そうだね。茨は父のクローン体だ。だから、会いに行った。君も父の遺産の一つだから。どんな人間なのか興味があった。会って、ね、茨。私は君に惹かれて、だから――連れて帰った。君をもっと知りたかった。君が欲しかった。それが理由じゃダメかな」
茨の頰に触れて、涙を払う。涙は収まらなくて、きらきらと溢れた。
嗚咽混じりのこえが、響く。ぎゅっと、縋って、離れない両の手。
「このからだぜんぶすてて、たましいだけになったら、ひろってよ、あいしてよ、おれを、ねえ……」
雨の流れがガラスを通して茨の体に映り込む。
「茨」
「……離さないで、ずっと、そばにいて……おれをおいていかないで」
「離さないよ、決して」
抱き寄せて、背中をさする。青い影が、どこまでも冷えていた。
(201217)