パヒューム・バイ・ジ・エデン
薔薇の精油一滴には薔薇二百輪が必要だという。今日もそのために薔薇の谷は数多(あまた)の薔薇を摘み取っているのだろう。
凪砂と茨のプライベートマンションに、今夜は日和とジュンもいる。突然決まった映画観賞会が決行され、くらい部屋にエンドロールが流れているところだ。
「いや――なんかすげえ話でしたねぇ」
「ほとんど原作通りでよかったな」
「凪砂くん原作通りで退屈しない人? 僕は退屈するね! でも読んだことないからよかったね! 映像が綺麗だったね」
「ああ、最近読了したからこの映画だったのですね。なるほど」
『パヒューム―ある人殺しの物語』は二〇〇六年の映画。パトリック・ジュースキントの『香水 ある人殺しの物語』の映画化だ。魚市場のゴミ溜めに産み落とされ、そのまま捨てられるはずだった赤子は、産声を上げ母親を絞首台送りにする。ジャン=バティスト・グルヌイユは異様な孤児として成長した。かれには驚異的な嗅覚が備わっており、どんな匂いも嗅ぎ分けることができた。しかしかれには全く体臭がなかった。かれを虜にしたのは美少女の匂いで、それを追い求める故にころしてしまう。その失われた匂いを永遠にするために、調香師に弟子入りし、どんな香りでも抽出できる冷浸法で美少女をころしていく――という話。
「誰にも愛されたことがない、ゆえに愛を知らない男の話だったね」
「愛を知らないからころした、っていうのがまた」
「いやでも主人公、驚異的な嗅覚をもっと商用利用したら成功したのでは?」
各個口々になんでもない感想をつぶやいた。
「匂いは物質を直接脳に取り込むような五感だから、原始的なんだと思う。――あの香水、嗅いでみたいな。どんな匂いなんだろう、茨」
「おっとぉ、流石にファンタジーの産物は用意が出来かねます閣下! 現実世界にある香水なら取り寄せますので」
「あ。そういえばナギ先輩は香水つかってるんすか?」
凪砂がリモコンのボタンを押す。
「うん。茨が用意してくれたから」
「そうなんだね! 僕はシャネルのエゴイストだね。お気に入り!」
「名前からしておひいさんにぴったりですよねぇ」
「ジュンは?」
凪砂の質問にミネラルウォーターを飲みながらジュンが云った。
「あー、あんまりつけませんけど。おひいさんから使いかけもらった、なんだっけ」
「ブルガリのブラックだね! ちゃんと覚えて?」
「殿下のお下がりなんてジュンにはもったいないですね!」
「そういう茨は?」
眼鏡のツルを触ってジュンに答える。
「自分はいつもはつけておりません」
「なんで?」
「……閣下のご要望でして」
「うん。茨の匂いが好きだから」
「あー……そういう」
「うるさいですねジュン」
「いで、暴力反対~~」
照れた茨がジュンを叩いた。その横で日和は凪砂に近づいて匂いを嗅ぐ。
「凪砂くんはグルマン系の匂いがするね。なんの香水?」
「今日はキリアンの『ノワール アフロディジアック』を使ってる。チョコレート職人のジャック・ジュナンをインスパイアしたパリ・ブティック限定のものらしいけど、茨が手に入れてくれたんだ。ビターなチョコレートを齧っているみたいで私は好き」
「キリアンは『グッド ガール ゴーン バッド』が有名だよね。金木犀の香りのする……」
そうなんです! と茨が嬉しそうにこえをあげた。
「アダムとイヴの原罪をインスパイアしたコレクション『イン ザ ガーデン オブ グッド アンド イーブル』は『グッド ガール ゴーン バッド』を筆頭に四作品からなりまして。白と黒の美しいボトルはまさにEden! 香水界のロールスロイスと云われるキリアン、閣下にお似合いにならないはずはないです!」
「茨、そういうの好きっすよねぇ~~」
「ふふん、いいでしょう? 何事も物語性が大切で――」
「あれ、茨からフローラルな香りがするけど。付けないんじゃなかったの?」
「う、いえ、その……」
茨に寄った日和があどけなく尋ねた。しどろもどろになった茨を遮って、凪砂が答える。
「ああ、さっきつけてくれたんだよね、茨。日和くんたちが来ること云ってなかったから」
凪砂が浴室から黒いクラッチを持ってやってきた。艶やかな黒に二匹の黄金の蛇が絡み付いている。
「女性が好きな甘い香水なんだけど。キリアンの『ヴレヴ クシュ アヴェク モワ』はね、「今夜は私と寝たい?」って意味。催淫効果のあるイランイランもサンダルウッドも入ってて、とてもそういう気分になるよね。ね、茨?」
「うう、閣下、黙ってください」
「あ、そういう……」
「ジュンも黙ってください!」
「ふーん。じゃあ僕たちはもう帰ろうね、ジュンくん!」
「ういーっす」
部屋は目に見えない黄金で満たされていた。
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Edenで香水についてのエピソードやお話
(210117)