蛇は祈る手を持たない 取引先との打ち合わせから戻った茨は、部屋に入ったところで立ち尽くした。凪砂が一人、窓辺の椅子に座っていたからである。
凪砂は時おり、ぼんやりと外を眺めていることがある。ほとんど微動だにせず、焦点すら合っているのかいないのか、何事もなければそのまま平気で数時間過ごしているのだ。
幼少期からの悪癖なのか日和はすっかり慣れたものだし、ジュンも物おじしない性格なので平気で話しかけに行ってしまうが、茨はどうしても一瞬躊躇してしまう。Adam結成に伴って茨が凪砂の生活を管理するようになり、それなりの時間を共に過ごしてきたものの、こういう時に改めて凪砂が自分の理解の範疇を超えた人物であることを思い出してしまうのだ。
おまけに今日はシチュエーションが悪かった。時刻はちょうど夕暮れ時、外の世界を暖かな色に染め上げた夕日は電気が消えたままの室内にも入り込み、窓辺に並んだ机や椅子を明るく照らし出している。当然ながら凪砂も例外ではなく、柔らかそうに波打つ銀髪やスッと伸びた背筋、机の上に無造作に置かれた手の長い指まで光が当たり、まるで自ら輝きを放っているかのようだ。
部屋の内装も外の風景も、凪砂本人でさえ見慣れた姿のはずなのに、一枚の絵画のように美しく見えた。翻って影を落とされたこちら側との差異が際立ち、自分のような俗人が触れていい者ではないのだと突きつけられているような気持ちになった。
乱凪砂はこの世界の神となる人だ。そのために茨は昼夜問わず尽くしてきたし、実際に凪砂はそれを可能だと思わせるだけの能力を備えていた。だがその神の器たる素養は彼を人間離れせしめ、コントロールの効かない怪物のように見せることもあった。本人の希望とも合致したので今は契約関係で縛られてくれているが、所詮は紙一枚のことである。彼が本気で心変わりをすればあっという間にこの手を離れ、二度と会うことのないまま人生を終える可能性も大いにある。
ふいに凪砂が振り向いた。細い銀糸がふわりと背中を滑る。逆光でやや影のかかる顔がゆっくりこちらに向き、目が合った。ひとつ瞬きを落とした琥珀色の瞳がほんの少し細まって、薄く笑みを形作った唇が開く。沈みゆく晩照の輝きが後光のように差し込んで、
ーーああ、俺の神様、
「おかえり。……どうしたの、茨」
「……失敬!西日に目が眩んでしまいまして!」
どこにも行かないで、そばにいて……だなんて、神の愛子を唆した毒蛇は祈る権利すら持ち得ない。