チョコレートを一粒
これは訓練だ、といって犯された。
それが性的悪戯だと認識したのは弓弦がきた頃で、弓弦にバレないように全てを押し殺して耐えていた。そんなこと知られたらどうなっちゃうんだろう? 汚くて、惨めで、気持ち悪い存在。そんな風になりたくない、ただ普通の同輩になりたかった。
犯された後、きまって一粒のチョコを与えられた。
高級だかなんだか知らない金の包み紙。褒美のように与えられ、そうして咀嚼し嚥下するまで見つめられていた。
「おいしいです」
俺はきまってそう答える。部屋に帰る途中のトイレで、全てを吐き出していた。
***
閣下は最近副所長室で読書をするのが気に入っているらしい。俺が打鍵しているのを横目に、毎日違う書籍を読んでいらっしゃる。
「茨、目をつぶって?」
「? なんですか?」
閣下がニコニコしながらこちらに寄ってきた。思わず従ってしまう。
くちに、なにかが触れて、思わず開いてしまった。
「むぐっ!?」
甘味と、苦味と、やわらかい食感――覚えさせられた、味。
「どう? 期間限定のビターチョコなんだけれど、おいしい?」
「う、……っ!」
胃液が競り上がってくる。止められない、吐く、だめだ――。脇にあったゴミ箱に顔を埋めて、吐き出す。吐瀉物がだらだらと溜まっていった。
「茨」
生理的な涙が溜まる。閣下はとなりでおろおろしていて、申し訳なくなってしまった。
「ごめん、茨、チョコ、苦手?」
「いえ……はい、すこし……」
「大丈夫?」
だめだった。未だに食べられない。フレーバーはなんとか飲み込めるものの、固形の、あの感触は――だめだ。
「……閣下のお好きなものを否定するのは心苦しいのですが、自分、チョコは食べられません。すみません」
「私も、茨を喜ばせようと思って……ごめんね」
「いえ、自分が悪いんです、閣下は気に止むことはありません、お心遣い大変恐縮であります!」
うまく笑えているだろうか。俺がこの人を曇らせてはいけない。自分は、今、この人のために生きている。
――過去は捨てたはずなのに。
***
今日も閣下はいらっしゃって、読書をしている。積んだ仕事をこなしながら、資料を取りに棚の上に手を伸ばす。あと数センチ背が高かったらよかった。
「あれが必要なの? 取ってあげようか」
「いえ! こんな雑務を閣下にさせるわけにはいきません! 取れますので!」
「私が取るよ」
閣下がやってきて、書類に手を伸ばす。
「わ、」
ぐらり、とバランスを崩した。頭から倒れる――!
「茨」
ぐい、と引っ張られた。しかしその拍子に閣下も倒れ込んでくる。引いて貰えたおかげで頭を強打しないですんだ。目を開けると――目の前に、男。
犯される前の、くらい影。
「ひっ」
どん、と閣下を突き飛ばしてしまった。恐怖が立ち上る。
「ごめん、重かった? ごめんね、茨……」
「ち、がうんです、違います、あの、……っは、は……っ」
くるしい。いきができない。パニックになって、くびをおさえる。
「茨、ゆっくり呼吸して。大丈夫、大丈夫だよ」
背を撫でながら、閣下は優しい声で囁く。
これは、あの時と違う。
これは、過去じゃない。
そうわかっていても――体は覚えている。
「は……っ、はっ……、は、は……」
「大丈夫?」
「……い、いえ……大丈夫……です……」
閣下は何も言わず、俺をぎゅっと抱きしめた。俺はまた心臓が縮み上がったが、逃げたいとは思わなかった。
「茨の支えになりたい。茨が大丈夫なように」
「閣下……?」
「私、茨が好き。抱きしめたくなるくらい、好きだよ」
***
あの後なんて云ったのか覚えていない。うまく答えられなかったのかもしれない。
今日は寮の部屋は一人きりだと云っていた。寝る前に、一言伝えておかないと、今後に支障をきたす気がした。
「閣下、失礼――」
します、と云いかけた。
ドアーの向こうで、閣下の息遣いが聞こえる。覗いてはいけない。慰めている。――あの美しい人も、性欲がある。その事実が体を震わせる。俺は、固まってしまった。後ずさる。
「茨、いばら……っ」
離れようとした時、そう、閣下が呻いた。
「……っ」
閣下の、「好きだよ」に含まれるものを、示される。美しい体が、自分を求めている。――求められている。
泣きそうになった。
汚くて、惨めで、気持ち悪い存在。
それを知られたら、どうなっちゃうんだろう?
かれのためなら体なんていくらでも差し出す。でも――それで、この体の使われ方を知られてしまったら――。
息がつまる。
未だにチョコレートの一粒さえ飲み込めない。
過去は、消えていかない。
***
あれから、何事もなかったように日々が過ぎた。意識しているのは俺だけなのかもしれない。閣下のことを、考える。好きだよ、の言葉を思い出す。胸が苦しくなった。
「閣下」
終業の時間、立ち上がる閣下の服の袖を、引っ張った。
目と目が合う。
「閣下に、だけ、俺が……自分が、チョコレート、食べられない、理由、を、云います」
「うん」
幼少期、上官、性的悪戯、レイプ、チョコレート。冷や汗が出た。体が熱い。
「……以上、です」
閣下は表情を崩さず、聞いていた。そうしてまた、俺を抱きしめて云う。
「つらかったね。もう、大丈夫だよ」
「……っ」
涙が出た。
俺はずっと、そう云われたかったのかもしれない。
「おれ、おれっ……、だから、汚いからっ……! すきだなんて、いわないで……」
「汚れてなんかないよ、茨は、綺麗だ。私はここのみんなより、少しだけ茨と一緒にいる時間が長いから、知ってる。伏見くんには負けるかもしれないけれど――。茨の過去を知れて、嬉しい。好きだって、いわせて。どんな茨でも、私は、好きなんだよ」
甘くて、苦くて、やわらかい。閣下は優しく背を撫でて、好きだよ、と囁く。
チョコレートを一粒、抱きしめる。とろけて、嚥下して、幸福になることを約束された、味がした。
(210202)