終わったものは仕方ない ふわ、ふわ。仰向けに寝そべったまま、海の上に浮かんでいるようだ。頭のてっぺんから足の先まで、くったりと滲んだ浮遊感が収まらない。それなのに、波の音も帆の音も、随分遠くから聞こえてくる。妙な、心地だ。
「——、あ」
ぱちり。開いた視界に映るのは空の青でも海の蒼でもなく、木目の並んだ天井だった。背中の下敷きになっているのも揺らめく水面ではなく、真っ白なシーツ。その下の布団も程よい反発がくたびれた身体を適度に支えてくれていた。
生まれたままの姿を包む羽毛布団も心地よく、目覚めきっていない頭が再び沈みそうになる。それと、強烈な違和感。ここはどこだったか。ぼんやりしたままの脳から警鐘がひびき始める。
自分の宛てがわれた部屋のベッドも上等な寝心地だが、布団の素材感は別のものに思える。天井だって違う。そして何より……鼻を掠める香が、どうにも落ち着かない。深く染み込んだ木蓮と白檀の匂いが、タルタリヤの鼻先から入り込んで奥まで満たしてしまうような。だめだ、だめだ。傍らからの微かな息遣いに気づいても、振り向いてはいけない。早く、逃げないと。
「……公子殿」
「っ、う」
タルタリヤの思考と動きを阻むように、鍾離の穏やかな声が届き、腹に腕が回される。タルタリヤに触れる腕は掛け布団と同じように軽やかなのに、組まれた指は岩のように強固だ。これじゃあ、暴れて抜けだすのだって困難だった。
しかも今、神の目は手を伸ばしても届かない箇所にあるし、楔のように身体に打ち込まれた倦怠感のせいで、どうにも力が込めにくい。対して背後の男は、何がなくとも星やら柱やらを生み出すやつで、携えた神の目だってただの硝子玉。その気になれば人ひとりを抑えておくのも容易いだろう。いくら鍛えているタルタリヤだってまだ、人間の域を出てはいないのだ。
「どこにいくんだ、まだ早い」
ぐいぐいと腕を押し続けるタルタリヤのことなど全く気にしていない。むしろタルタリヤの身体をさらに抱き寄せて、耳朶に唇が寄せられた。触れた唇がむず痒くて、背にあたる鼓動がこそばゆい。鍾離の手が当たる腹がぐうっと押し上がったままの変な熱で落ち着かない。そして、腰とあらぬところが痛い。知っている、全部。さっきまで鈍っていた思考だって全力で周りだし、覚えていたくない記憶まで掘り起こしてしまう。
わかっているが、逃げたい。認めたくない。
「……いや、ほら。寝起きだから厠を済ませておこうかと思って。まったくこんなこと言わせないでよ、早く離して欲しいな」
努めていつも通り、軽薄で相手に考えを読み取られないように。そう思ったが、喉から絞り出した言葉は思っていた以上にかすれていた。ちょっと咳でも漏れそうなくらい。
自分は「公子」らしく上手く笑えているだろうか? 緊張と、後悔と、ほんの少しの充足で。どくどくと煩くなる鼓動を察されていないだろうか?
鍾離はしばし間を置いてから、寄せたままだった腕を解いた。それを確かめてからもぞもぞと身体を滑らせてベッドの端から足を下ろす。よし、このまま部屋を出たらあとはもう——。
「あれ、」
床に置いた足から力が抜けてふらつく。思わずベッド脇の棚に手を置いてなんとか身体を起こしたものの情けなく震える脚は動きづらい。壁やら調度品やら、その辺のものを支えにしながらのそのそと進むタルタリヤを見かねた鍾離が立ち上がり手を繋いできた。しかも嘲るでもなく、心底心配そうに。なんという屈辱。そんな顔をされたら、もう認めざるを得ないじゃないか。
「……先生、ベッド戻ろう」
「厠は?」
「嘘だからまだいい」
鍾離に少しばかり体重を渡して、ひょこひょこと寝床に帰る。ただ座るのも落ち着かず、手近にあった枕をとって抱きかかえ、隣に並んだ鍾離にもたれ掛かった。
「昨日何回したっけ」
「ん……三、いや四か」
「ハハッ……そりゃ動けないわけだ」
自嘲と鍾離への嘲笑を混ぜた乾いたつぶやき。なんで身体を重ねてしまったんだったか。多分酒に酔ってて、妙な高揚感で勢い任せにキスをした。それで、窘める鍾離が面白くて押してみたら、引くに引けずにいけるところまでいってしまった。喉もカラカラ、身体もくたくた。どんなに乱れたものだったかも記憶に刻まれている。向こう水で愚かだな、昨晩の自分を沖にでも沈めてやりたい。
タルタリヤはもとより、鍾離だって大概だ。
自分よりもずっと幼い人間の戯言に流されてうっかり関係を持ってしまうなど。神の座を降りたとはいえ、魔神生の汚点確定だろう。同性だし、テロの主犯だし、璃月の嫌われ者だし。何もいいところがないし、鍾離が抱く理由もない。この男はただ、ちょっと親しくなった酒呑み仲間の勢いに押されてなんとなく答えてしまっただけなのだ。力づくにでも止めてくれたらいいものを。
ぶつくさと文句を言う代わりに、あれやこれやと頭の中で並び立てる。そうして、ふっと。鍾離の様子が気になった。先程の寝起き顔といい、この男は優しすぎるんじゃないか? 抱きたくもない相手を抱いて、あんな顔するくらいなんだから。
ちらり、枕に半分顔を隠したまま鍾離の顔を覗き見る。鍾離は何を考えているのか、ただぼんやりと壁を眺めていた。
「……鍾離先生、考え事?」
「ん? ああ……昨日の公子殿は随分愛らしかったからな。つい思い出していた」
ふわりと、目にしたもの全ての心を掴んで甘やかに蕩けさせてしまいそうな。整いすぎた笑みなのに、口にした言葉は「情事のことを考えていました」と。情緒も気遣いも遠慮もない発言にため息がこぼれた。
「……煽った俺が言うことじゃないけど、そういうとこどうかと思うよ先生」
「む」
なんだよ、もっと嫌そうな顔してくれ。そうじゃないと、誤魔化せなくなってしまう。
そう、一番どうかしてるのは。
こんなやつに抱かれたことを後悔こそすれど、嫌ではないと思ってしまっているタルタリヤの方なのだが。