小船の欲 ——ぐわん。
世界が揺れている気がした。実際は、男二人が乗り込んでいたベッドが軋んだだけだった。
ぼうっと、霞む天井。端に映るランタンが妙に眩しい。意識はあるのに、上手く筋肉が機能していない。例えるなら、ぬるい水面に浮かんでいた身体がどこまでも沈んでいくような。くったりと身に纏った倦怠感が、留まることをよしとしない暴れん坊への重しだ。早く帰れと急かす心を抑え込み、まだ動きたくないとシーツの海に括り付けている。
「公子殿、動けるか」
穏やかな低音と共に視界が塞がる。ついさっきまで欲に濡れていた声はいつも通りのものに戻っていた。
前髪を押し上げながら、湿った髪をタオルが拭う。僻地での任務で渡されるのとは比べ物にならないくらい、柔らかで品のいい匂いがする。
言葉を返すのも億劫だ。どこまでも怠惰に落ちた頭を、布地に擦り寄せる。ふっ、と小さな笑い声と共に唇に額が落ちてくる。小馬鹿にしているのかと開きかけた口は、その表情に大人しく閉じる。別の意味合いに気づけないほど、人心……この場合は神心か。ともかく、タルタリヤは疎くもなかったから。
「せんせ」
「どうした?」
喉を通った声は想像以上に擦り切れていた。そして、帰ってきた声音は思った以上に甘い。病にでもなりそうなくらいだ。
ん、と。相槌とも取れそうな返答で重たい身体を転がし、背中を向ける。鍾離もすぐに意図を察したようで、水桶に入っていたタオルを絞ってタルタリヤの身体に添えた。立夏を過ぎた暑い時期だというのに無駄に熱を持つ行為に耽った後だ。ひんやりとした布は心地いい。
ひたり、ひたり。背中の湿り気を別の湿り気が拭っていく。徐々に冷えていく身体に自然と息が漏れた。肩甲骨の出っ張りに引っかかった汗も、尻の表面に残っていた体液も。鍾離の手で取り去らせていく。世話焼きだな、と思う。物好きとも。
「……先生、さぁ」
今度の声は思ったよりはっきりしていた。ごろりと鍾離の方に向き直る。後は自分でやると言う代わりに、その手で持たれていたタオルを奪った。胸を拭いながら、きょとりと見つめてくる琥珀を眺め返す。
「こんなに優しいんだし、わざわざ俺なんか抱かなくてもいいんじゃないの? モテるでしょ?」
「……房事の後に言うことか?」
「生憎、情緒はファデュイで教えてくれないからね」
腋と腕を拭う。残りは湯に入った方がいいだろうと終わりにして、鍾離が持ってきた桶に投げ入れた。あからさまに眉間に寄った皺に、つい唇が緩む。深い溝を伸ばしてやろうと額に寄せた手は、すぐに鍾離のそれに捕まった。恭しい、手首へのキスのおまけまで添えられて。
「俺が何故お前を抱いているかわかるか?」
「都合がいいから?」
「違う」
「腹いせ?」
「違う」
「あ、子供が出来ないから楽とか」
「違う……公子殿の中で俺の評価はどれほど悪いんだ」
「そりゃ掌でてんやわんや踊らされる羽目になったし良くはないよね」
暴言の半分は冗談だ。鍾離の治世も、璃月の民の信仰もよく知っている。それが向けられるべき相手が己でないことも。ただ疑問だった。砂糖漬けの声も、表情も。タルタリヤと鍾離の「きっかけ」にはそぐわない。
深すぎる溜息と共に、鍾離の腕がタルタリヤに絡まりそのまま倒れ込んできた。見た目通り重い上に、見た目よりも力が強い。すっかり草臥れた身体では抵抗する気力も起きず、隣に横になった鍾離を眺める。
「ひとつ言うと、俺は元々さほど欲求が強い方ではない。食欲であれ、睡眠欲であれ、性欲であれ。人間の営みに興味はあるがな」
「え? うっそだぁ」
鍾離の言ったどれも、タルタリヤは見たことがあった。タルタリヤと鍾離の会話の席にはいつだって美食が並んでいたし、熟睡型で存外朝に弱い姿も知っている。さっきまでは何度も奥まで穿たれた。
訝しむタルタリヤに鍾離が肩を揺らした。背に回っていた手が顎に移ってそのまま傾けられる。唇が触れて、舌が擦れて、そうしてうっそりと目尻を下げた鍾離の顔。
「お前といて、尚更価値を知った。六千年生きていても、新たな発見ができる。凡人はやはり面白いな」
「……凡人は四桁も生きないんだよ」
緩んだ表情にそう返すのが精一杯だった。