色めき立つ女の子たちを尻目に、さっさと校舎を後にした。同じ学校の高等部の教師である兄上に会わないためだ。正確には、兄上に会わない、というよりは兄上が女子生徒からチョコレートをもらう場面に遭遇したくないからだ。毎年、あれだけ多くのチョコレートを紙袋に詰めて帰ってきていたのだ。生徒から大量にプレゼントされているのは、入学前から認識していた。生徒はイベントに参加したいだけだから教師は丁度いいんだ、と貰った本人は笑い飛ばしていたけれども、絶対にそんなことはなかった。確かに冷やかしや友チョコの延長のようなチョコが入っているのは、否定できなかった。しかし、中には明らかに手の込んだラッピングの手作りの品や高級ブランドの箱が含まれていたのだ。それらが「丁度いいから」なんて、適当な理由で他人に渡しやしないだろう。まぁそうなんだろうな、と思ってはいたが、実際のその現場を目にすると破壊力がある。そう、僕は去年、兄上が本命チョコをもらう場面に遭遇してしまったのだ。危うく声が出そうになったが、寸で止めた。そのまま立ち去ればよかったものを、思わず覗き込んでしまった。フルフルと震える細い手は見えた。表情は窺いきれず、声は聞こえない。聞こえずとも、出刃が目には違いないのだから、とっとと立ち去るべきだった。なのに、まるで地面に足が縫い付けられているかのように動けなくなってしまった。そもそも、兄弟の恋愛に触れるなって嫌なもんだ。ましてや、年が離れているから兄上の恋愛事情なんて知らない。でも、僕の胸のモヤモヤは、そういうものとは違うような気がした。
僕は、まだ子供だという自覚はある。それでもやっぱり、うんと小さい時は違う。小さい頃は、なんにでも興味津々で、無邪気だった。バレンタインだってそうだった。母上からチョコレートを貰えるのは嬉しかったが、なんで貰えるのかは不思議だった。どうしてですか?と聞けば、好きな人にチョコレートをプレゼントをする日だと教えてくれた。そうなれば、幼児の行動は一目瞭然だ。僕も兄上上のあげたいです!とお願いをしたのだ。その年から、僕は毎年兄上にチョコレートをプレゼントした。兄上は天才だの気遣いが素晴らしいだの、ととにかく誉め倒してくれた。そうやって何年かはプレゼントをしていたが、バレンタインが愛の告白をする日だと教えてもらった。ほぼ同じ時期、兄上が毎年大量にチョコレートを貰っていることに気づいたのだ。つまり兄上は、モテるという事実にだ。幼心に、そうなれば急に自分のチョコレートは必要ないな、となってしまった。そこから数年、僕は兄上にチョコレートをあげていない。兄上は寂しそうにしていて、ちょっと可哀そうだった。でも小さい頃と違って、今は弟から貰ったところで可愛くもなんともないだろう。
兄上が貰ったチョコレートの食べる係に慣れた頃、兄上が勤める学園に僕も入学した。この頃は、数多くのチョコから本命チョコだけを選り分けて兄上に渡すこともできるようになっていた。すると、兄上はなんだかいつも複雑な顔をしていたものだ。まぁ弟からチョコの選別されるなんて、気持ちがいいものではなかっただろう。でも、僕は対照的に実に冷静なものだった。綺麗なラッピングされた箱は、確かに想いが零れ出てくるだった。ただチョコを見ているだけなら、問題なかった。目の前で渡されるのを見るのは、とても衝撃的だった。頭を打たれたような痛みを感じ、その年はチョコの選別はできなった。紙袋に積まれた大量のチョコレートの中から、ちらりと見えてしまった赤いリボンを見つけるのが嫌だった。家族には不思議がられたが、選別された後のスーパーでよく見かける大袋のチョコレートの数々に、どうしてかホッとした。
モヤモヤの理由はよくわからないが、気分が良くないのはよくわかった。逃げるように学校から出たが、すぐに帰宅する気分にもなれなかった。あてもなく街を歩き、ふらりと立ち寄った商業施設を歩いていると甘い匂いが漂ってきた。『本日最終日』と大きく書かれた看板の場所は、チョコレートの催事場だった。今日が当日だが、まだ催事場は賑わっていた。嫌だと思っていたが、遠目でも分かる綺麗なチョコレートたちに思わず足が向いてしまった。近頃は自分用へのチョコレートが増えているとテレビで聞いたが、まさにそんな感じだった。チョコレート自体もだが、ラッピングまで凝っていて、まるで芸術品のようだった。確かに、これなから自分用にと欲しくなるのも理解できた。
ぐるりと一周回って、とあるチョコレートが目に留まった。形はまん丸でシンプルだが、周りのコーティングのさりげない装飾が綺麗だった。派手すぎず、上品だった。箱も渋いがセンスがいい。ちらりと値札を見ると『柑橘のトリュフ』と書かれている。チョコと柑橘と言えば、オレンジピールが思い浮かぶが、トリュフは初めて見かけた。シンプルで上品な佇まいと爽やそうな風味、兄上の顔が浮かんだ。それに驚いて、頭を横に振った。途端になんだか恥ずかしくなってくる。
「贈り物ですか?」
ふいに声をかけられ、びっくりする。売り場のお姉さんがにっこりと微笑んでいる。
「あ、はい、あげてみようかな…って」
つい、そんな言葉出てきて自分でも驚いてしまう。
「どんな方に差し上げますか?」
問われて、ぐっと喉が詰まる。柔和に微笑むお姉さんは、僕のことは何も知らないのだ。
「え、っと、年上の男性、なんですが…日頃の感謝で…」
どうしてだが、兄と言えなかった。兄弟であげることが可笑しいとかそういう理性が働いたわけではなかった。明らかに学生の僕が、年の離れた兄にあげると言えばきっと微笑ましく思ってくれただろう。でも、熱くなった頬から何かが零れてしまう気がしたのだ。それなら見て頂いているチョコレートはお勧めですよ、とお姉さんがもう一度微笑んだ。
幸いチョコレートは、お小遣いの範囲で帰る品物だった。持ったことがないお洒落な紙袋を持つのが恥ずかしくて、せっかく袋に入れてもらったけど、ひとまず畳んでチョコも紙袋も鞄にしまった。
「どうやって渡そう…」
先ほどから何度も自問自答している。さて、どうしたものか。小さな頃は無邪気に兄上に渡せていたが、今はもう無理だと分かっている。昔はどうやって渡していたっけ。沢山の素敵なチョコレートの中で、ずば抜けて良くはないかもしれない。でも、兄上に似合っている気がしたんだ。胸がきゅっと痛み、鞄を抱きしめた。
渡してしまったら、モヤモヤの正体が分かってしまう気がする。渡したいけど、渡したくない。盛大にため息をつく。今日が終わるまで、あと数時間。このドキドキと共に生活をするのかと思うと、ちょっと憂鬱だった。でも、破顔する兄上の顔を想像しては、口元が緩んでくる。
「喜んでくれたら、いいなぁ」
重かった足取りが急に軽やかになり、小走りで家に向かった。