天つ日が昇る 思いも寄らない提案に、千寿郎は瞬きが止まらなかった。つまりは、冷静さを欠いているということだ。こんなところでも修行が足りないとはこういうことか、と自覚し、落ち込む気持ちもあるが、今は、それどころではなかった。横目で兄を見やれば、口は真っすぐに引き結ばれ、表情は聊か強張っているようだった。少なからず、兄の杏寿郎も動揺しているようだった。
「何も、鬼と対峙しろと言っているわけではない」
びくりと肩が震えてしまった。それは恐怖からではなかったが、そう思われても仕方ない。何か言わなくては、と思い千寿郎は口を開いたが、何を言っていいかわからず、結局、何も言えずに閉じた。その代わりに、杏寿郎が大きく息を吸って口を開いた。
「しかし、千寿郎は隊士ではない」
「…千寿郎も最終戦別を生き残っているのだ。本来は、任務に出る資格はある」
大きくはないが、しっかりとした声色に兄がまたしても口を引き結んだ。見知った仲ではあるが、互いに今は柱の立場。思うところや迷いはあるだろうが、ゆえに互いの主張に引きもしない。沈黙の中で、千寿郎は目の前の人を見た。その昔、兄弟の父親が助け、一時共に過ごした伊黒は、千寿郎にとっても親しい相手であった。
多忙な中、兄が任務の途中に家へ立ち寄ってくれた。それだけ千寿郎は嬉しかったが、後から旧友も来ると聞いてますます心が華やいだ。兄と揃って三人で会えるなんて、いつぶりだろうかと喜んでいた。しかし、伊黒はただ煉獄家に顔を出しにきたのではなかった。再会を喜んだのもつかの間、相手方の雰囲気がいつもと違っていたことに兄弟はすぐに気づいた。挨拶もそこそこに茶の間に座った瞬間、伊黒は兄弟が予想だにしない話をしたのだ。
千寿郎を連れて二人で任務に行け、というものだった。千寿郎はもちろんだが、杏寿郎も知らなかったようでひどく狼狽をした。千寿郎も戸惑いはしたが、伊黒が推薦するくらいなのだから、本当に自分が必要なのだろうと理解した。
千寿郎は、伊黒を慕っていた。現在、兄弟と父親の関係が悪化しているのは、伊黒にもまた知られていることだった。特段隠してもいないが、方々に言いふらすような内容でもない。二人が柱になる前、父が酒を片手に任務に赴いているという噂が出た頃から、伊黒もまた任務の合間にふらりと千寿郎を訪ねてきていた。ただ土産物を置いて去ろうとする伊黒を千寿郎が無理矢理引き留め、少しならと言いながらも千寿郎の話に付き合ってくれていた。茶を一杯飲む程度の長さの滞在だったが、千寿郎は彼の優しさが何よりも嬉しかった。口数も多くなく、人と接するのが得意ではない彼だが、まだ拙いおしゃべりしかできない千寿郎の話を根気よく聞いてくれていた。相槌が上手く、千寿郎のこともよく誉めてくれた。兄のように大袈裟な表現ではないが、的確で心温まる言葉ばかりだった。
千寿郎が成長した今も、大層忙しいだろうに時々顔を出してくれていた。勉学好きになった千寿郎に、兄よりも難しい書物を贈ってくれるのも、伊黒だった。兄の杏寿郎も千寿郎に沢山の本を与えてくれたが、だ。まだ千寿郎を幼子と思うのか、絵本や図鑑が多かった。内心で苦笑いをしたこともあったが、ただの絵本ではなく、趣向を凝らしたものが多かった。もの珍しい諸外国の美しい装丁の本や、文や兄との会話で興味があると呟いた分野の図鑑など、そこらの本屋では手に入らない品も多かった。
伊黒が与えてくれる本は、兄と対極と言っても良かった。純粋に学問に関係あるものや、歴史書や兵法書が多かった。それらは、千寿郎が望みながらも、自分には相応しくないのでは、と怖気けて手を引っ込めてしまうような蔵書ばかりだった。まるで心を見透かされたのかと驚くばかりだった。何も言いはしないが、漏れ出てしまった千寿郎の葛藤や悩みを汲み取ってくれているのかもしれない。彼は、千寿郎を肯定も否定もしない。ただ、心身の準備を怠ることなく、と言外に伝えられているようだった。
伊黒という人は、そういう人だった。だから、今も目の前で、千寿郎の思いを代弁してくれているのかもしれない。ならば、千寿郎も黙ってはいけない、と頭を振った。結論を二人に委ねるのではなく、自ら決めないといけないのだ。
「兄上、小芭内さんの仰る通りです。微力ながら、鬼殺隊や兄上のお力になれるのなら僕にも協力をさせてください」
身体ごと横に向き、兄を見上げた。弟の言葉に、兄は面食らったようだった。千寿郎をしばし見つめると、目を閉じた。
「何も千寿郎一人に行かせるわけじゃない。お前と一緒なのだから、お前がしっかり千寿郎を守ってやればいいだろう。それとも、自信がないのか」
突き放すような伊黒の言葉に、杏寿郎がため息をついた。しばらくそのまま考えこんでいたが、目を開き、杏寿郎も千寿郎に向き直った。兄弟がしっかりと顔を合わせると、兄がゆっくりと口を開いた。
「わかった、お前を連れていこう。ただし、無茶はするな」
「…もちろんです」
ふわ、と千寿郎は自分の頬が緩むのを実感した。兄弟の様子を黙って見ていた伊黒が、決まりだな、というと立ち上がった。
「では、詳しい話は改めて文を送る。千寿郎は、いつでも出立ができるように準備をして待っていろ」
それだけを言うと、要件は終わったとばかりに伊黒がさっさと部屋を辞そうとしたので、千寿郎は慌てて後を追いかけた。いつもなら兄も共にあるが、思うところがあるのだろう、難しい顔をしたまま立ち上がる気配はなかった。千寿郎は一瞬だけ兄を見たが、声をかけずに一人で玄関に向かった。
「あの、小芭内さん、ありがとうございました」
草履の紐を結ぶ伊黒の背中に、千寿郎は礼を言った。
「千寿郎、俺とてお前を危険な目に合わせたいわけじゃない」
振り返った彼の瞳が、千寿郎をしっかりと捉えていた。色彩の違う両目を見て、千寿郎は幼い頃、彼は妖精ではないかと疑った。それほど、彼の瞳を見ていると、人間離れした吸い込まれる魅力があった。伊黒は、生い立ちから人に対して疑り深く育ったため、相手よく観察し、人の心を汲み取る能力に優れていた。だから、伊黒に見つめられると、考えがなんでも読み取られてしまうのではないかと感じることがあった。千寿郎も、どうにか彼の真意が読めないかと、じっと目を見た。しばし見合っていれば、彼の相棒の鏑丸が千寿郎へと首を伸ばしてきた。撫でろと言いたげに身体をくねらせる姿に、可笑しくなって千寿郎は噴き出してしまった。要望に応えて千寿郎が指の腹で頭をやると、ちろりと伸びてきた舌が指に触れ、くすぐったさに微笑んだ。伊黒は二人の様子に目を細めた。
「今回は、俺との共同任務に近い。時々、顔も出す」
伊黒が話しだすと、鏑丸がゆっくりと千寿郎の手から離れていった。
「任務に出られる資格はあるとは言ったが、お前は自分の身の安全を第一に考えろ」
千寿郎の後押しをした張本人なのに、兄よりもずっと力強い言葉を放った伊黒に、千寿郎の口は弧を描いた。
「ありがとうございます。身の安全を優先すると、約束します」
千寿郎の返答を聞くと、では、と伊黒が踵を返した。
「でも、不謹慎ですが…兄上と、小芭内さんと御一緒できて嬉しいです」
もう伊黒は振り返らなかった。代わりに、鏑丸が首を左右に振って千寿郎に別れの挨拶をした。戻っていった。煉獄家の門をくぐるその背に向かって、千寿郎は深く腰を折った。
ーーーーー 中略 ーーーーー
知らないことは知れば良い、と兄に言われた。実際に千寿郎はこの村に来て、知らないことを多く知った。初日に狭いと言ってしまったあの家が、けして狭い家ではなかった。むしろ、二人で住むには広く、設備も整っているのがわかった。そして、千寿郎と同じ年頃であれば、既に働き手であるのも珍しいことではなかった。親のどちらかが健在でなければ、なおのことだ。子供たちが千寿郎の存在に興味をもったのは、そういう部分もあったのかもしれない。杏寿郎もその意味では、千寿郎と同じ年齢の頃には剣士になっていた。がつんと頭を叩かれたような衝撃があった。自分はどうだ。才がないと嘆くだけの日々ではなかったか。途端に恥ずかしさが出てきた。しかし、そんな時に、兄からの言葉を反芻した。知らないことを知る。知らないことを恥じるではなく、新しく学ぶのだと頭を切り替えた。
程なくして、兄に懇願した本が届いた。初めて見る絵本の数々に、子供たちがはしゃいでいた。千寿郎は、忙しい親たちに代わり、字を教え本の読み聞かせをした。たとえこれが、たった一時のことであると自覚をしていても、止めることはできなかった。
杏寿郎は、やはり夜更け前の僅かな時間だけ帰宅するだけの毎日だった。千寿郎の横rで寝ていた日が、千寿郎が兄の寝ている姿を見た最後だった。兄が帰宅すれば、千寿郎は家事の手を止めず、その日の出来事を話した。その度に杏寿郎は目を細めて、そうか、と相槌を打った。そして、暗くなる前、戸を閉めて出立をしていく。
戸を開けてはならないと言い渡されているため、千寿郎の家の中での滞在時間が長かった。時間があるからと蟲柱の許可を得て、今回のために作成してくれた書付を書き写す作業をした。一つは自分に、一つはこの村の者へ贈るつもりで作成をした。この書付の内容も、千寿郎には知らぬことばかりだった。
時折、こっそりと要が窓から千寿郎を覗きにきた。ご飯を与え、頭を撫でてやると音もなく月に向かって飛び立っていく。窓は小さく、夜も小さくしか見えない。まるで自分の世界のようだと、千寿郎は思った。
サンプルここまで