サマー・ソルジャープロローグ
そろそろ部屋へ戻り、宿題をしなければならない。その前に喉を潤して一息つきたい。
麦茶をグラスに注ぎリビングへ。なんとなく音が欲しくなり、普段ならあまり観ることもないテレビを点けた。バラエティ番組か、芸人と思しき出演者が宣伝の後に話すと予告されている。あまり興味はないが、手持ち無沙汰を潰すにはいいか。ぼんやりと眺めていると、映像が切り替わった。
雲ひとつない青い空に、どこまで続く真っ白い砂の道。そこへ、向こうから一人の人物が歩いてくる。
俺はあまり芸能人とやらを知らない。ゆえにその人物が誰なのかは、遠目ではなおさら判らなかった。まあ、誰でもいい。そう思いながら眺めていると、テレビはその人物を大きく映し出した。
空のような青い瞳が俺をまっすぐに捉える。その瞬間、心臓が激しく鳴り出した。部屋中に響き渡るのではないかという音で。テレビの中のその青年としばし見つめ合う。視線を逸らすことがかなわない。俺は指の一本も動かすこともできずその場に固まっていた。
やがてテレビは再び切り変わり、白地に青い文字で商品の名前が刻まれた。青年と見つめ合ったのは時間にしてほんのわずかな間だったのだろうが、俺には永遠のようにも感じられた。
顔が熱い。鼓動は未だ収まらない。あの青が焼き付き離れない。もはや俺にはテレビの音も、内容も、何ひとつ入ってこなかった。いてもたってもいられなくなり、震える手で麦茶を飲み干すと、急いでグラスを片付けて己の部屋へ。
衝動の赴くままに検索する。すると、一人の人物の名前がヒットした。
(藤丸……立香?)
***
一睡もせぬまま、日の出を迎えた。どうせ布団に入ったところで眠れはしなかっただろうが。
激情に突き動かされ、ひたすらにその人物について夜通し調べ続けていた。藤丸立香、二十歳――まだほとんど無名の俳優だ。あまり情報がなく、分かったのは彼の血液型がAB型ということと、端役で出たいくつかの出演作品だけだった。
しかし、そんな目立たぬ俳優が、どうしてゴールデンタイムに放映するCMに抜擢されたのか。そこは素人の検索の限界だった。企業ウェブサイトによると、どうやら昨日からあのCMを流し始めたらしい。国民の誰もが知るスポーツ飲料だが、商品名は最後に映るのみ。無名の俳優を全面に打ち出すという大胆なものだ。演者が普通に飲料を飲むような宣伝方法では、少なくとも俺の生活はそれまでと変わらぬものだっただろう。藤丸立香に出会ったことで、俺の胸はずっと高鳴り続けている。俺にとっては大きな変化だ。それまで誰か一人がこんなにも焼き付いて離れないことは、ただの一度もなかったのだから。
今までに宿題をすっぽかすということはなかったため、教員に驚かれた。
俺には趣味がない。幼い頃からそうだ。することが勉強しかない。毎日、帰宅すると宿題や予習復習をおこなって時間を潰していた。おかげで成績は良かったのだが、面白みに欠ける人間になってしまった。ゆえに、この十六年、友達と呼べる存在はできたことがない。それで困ったこともなかったが。
友達がいたならば、昨夜の衝撃的な出会いについて話すこともできたのだろうか。家族に語ることは憚られた。血のつながらない女性を母と、これまた血縁ではない少年を弟とし、いつも何気ない会話は交わしていたが、己の心を曝け出すことに俺は慣れていない。母は眠らずに朝を迎えた俺に気づき、どうしたのかと案じてくれたが、たまたま目が冴えてしまっただけだと答えるにとどめた。
今日は一日中、上の空だった。気を抜くとあの眼差しを思い出し、体がかっと熱くなる。
昼休みに検索してみたところ、彼に辿り着いたと思しき人々の呟きが散見された。かっこいい、目力が強い、ファンになった……そういった言葉を目にし、同意すると共にふと少しの焦りを感じた。何故だろうかと不思議に思うが、こうやって心を突き動かされる相手に出会ったのは初めてのことゆえに、その理由は分からなかった。
家に帰り、夕食の準備に取りかかる。母は仕事、弟は部活があり、帰ってくるのはいつも十九時頃だ。一番帰宅の早い俺が夜の食事作りを担当していた。そろそろ暑くなるこの時期、火を使う台所仕事は少々堪えるが、弟は運動部で力が要る。しっかりと栄養を摂らせなければならないため、手を抜くことはできなかった。夏野菜と肉を下ごしらえしておく。あとは二人が帰る頃に仕上げをすればいい。しばしの休憩だと、部屋から携帯端末を持ってきてリビングのテーブルについた。
少しでも新しい情報はないかと検索していると、あのスポーツ飲料の企業ウェブサイトに動きがあった。今週末から、渋谷の街に藤丸立香を大々的に使った広告を打ち出すのだという。
この週末の予定が決まった、と思った。
一
最寄りの駅から渋谷までは電車で、片道一時間ほど。一枚の広告を見るという目的のためだけに、俺は電車に乗り込んだ。
どうしてこんなにも衝動に駆られるのか、その理由はよく分からない。分かっているのは、藤丸立香という人物に強く心を動かされているという、それだけだ。
昨日の夜、彼がほんの少しだけ出演しているという映画を一本、観賞した。注意深く画面を見つめ、ようやく分かる役。花屋の店員で、セリフは「はい、お待ちください」の一言のみ。エンドロールには確かにその名があった。たとえ画面に現れるのはほんの一瞬でも、映画を構成する大事な役に変わりはない。俺の中で、藤丸立香は立派な助演男優だ。他にもいくつかの映画に一瞬ずつ、登場するらしい。それらを一本一本観ていくのが楽しみだ。思えば、俺の人生の中で、何かを楽しみにするということは初めてのことかもしれなかった。今日だってそうだ。流れていく車窓を眺めながら、わくわくが止まらない。
俺を含め、藤丸立香にはここ数日でにわかにファンが増えた。その多くは、検索の結果を見る限りでは女性が多いようだ。彼女たちからは親しみを込め「立香くん」と呼ばれているらしい。アイドルと同じような存在なのだろう。俺はアイドルという職業に興味も関心も、または偏見もない。歌い踊り、人々を勇気づけるものだという認識だ。藤丸立香――立香くんはどちらかというと、立っているだけで陽の気を放つ、それそのものが光のような存在なのではないかと思う。あのスポーツ飲料のCMを見る限りでは。アイドルも立香くんも、どちらに貴賎があるものでもない。それぞれのやり方があるのだから。しかし、立香くんが俳優としてどの程度の力を持っているのか、それは分からない。「はい、お待ちください」だけでは、芸事に疎い俺には判断のしようがなかったのだ。もっとも、それが悪いものではなかったから、その後の仕事につながっているということもあるのだろう。
俺は普段、小さな街で暮らしている。外に出ることはほとんどない。渋谷を訪れたのも、十六年と少し生きてきて初めてのことだ。
慣れない大きな駅に、しばしうろうろした。そしてようやく、日本一有名な交差点を臨む出口から外に出ることができた。
テレビで見たことのあるように、人が多い。今日は土曜だからなおさらだろうと考えたが、それにしても多い。よく見ると、駅前に人だかりができていた。その輪から離れてこちらへ来た、小さなペットボトルを手にした若い女性が、どこか興奮したような様子で友人と何事か話している。ボトルには立香くんが宣伝を務めていたスポーツ飲料のロゴが見えた。
まさか、と思い顔を上げる。背伸びをして見た人だかりの奥では、立香くんが笑顔を振り撒き、ペットボトルを配っていた。
俺はその場に固まってしまった。今日はこの人の広告を見にきただけで、それですら胸が高鳴ってたまらないのに、実物がこんなにも近くにいるなど。今にも体が爆発しそうなほど、鼓動は速くやかましい。本人が来るなら来ると言っておいて欲しかった。まだ心の準備は整っていない。
思えば俺は、テレビのCMと映画の端役の立香くんしか知らない。あんな風に「ありがとうございます」と微笑みを浮かべる姿は初めて見た。こういったプロモーションにどの程度の人が集まるのか、俺は他の例を知らないが、テレビでただ一度きりの放映だったにも関わらずこの人出だ。人気の高さを窺い知ることができた。
複雑な気持ちだった。多くの人が彼に魅了されたのだということに満足しつつも、その魅力を知るのは俺だけであってほしいという相反する感情が、心の中でぐるぐるとかき混ざる。俺だってあの日たまたま立香くんとの出会いを果たしたに過ぎないというのに。
そんなことを考えながら遠巻きに人だかりを眺めていると、不意に立香くんがこちらに視線を向けた。やかましく打つ心臓が突然止まってしまいそうなほどに驚いた。彼は、はっきりと俺の姿をとらえ、そして柔らかな微笑みを浮かべた。
そこからの記憶はない。
電車は自宅の最寄り駅に着いたようだった。上の空で降り、改札に引っかかって我に帰った。
手に小さなペットボトルがあるということは、俺は立香くんからこれを受け取ったのだろう。もっと心の準備ができていれば、今日の出来事は頭と心に焼きつけられていたのにと悔やまれる。覚えているのは、立香くんの穏やかで優しい笑顔だ。思い返すと、胸がぎゅっと苦しくなる。そして、あれは俺だけに向けられたものなのだと思うと、喜びで口元が弛んでいく。
しばらくは幸せなその記憶に浸り、明日は立香くんの出演作品を見よう。ペットボトルをそっと握り締め、俺はそんなことを思った。