覆水不返久しぶりに来たあいつからの連絡は、簡素な一枚の招待状だった。
そこには乱馬と、許嫁であるあかねさんが結婚をするということが記されていて、こんなの誰だって予測できた未来だというのにおれは思わず「え?」と声をもらしてしまった。
その瞬間、走馬灯のように脳裏をよぎるのは10代のおれたちが過ごした日々。
一番最初に、そして多く思い返したのが、早乙女乱馬の顔だ。
競い合うようにパンを奪い合ったあの日。追いかけて中国に渡っては呪泉郷に落ちて子豚になったあの日。ライバルであり、恋敵で……あいつに振り回されてきた人生だった。
そうだ。おれはあいつに、振り回されていた。
ただのライバルだったはずなのに、身体を重ねたときがある。
甘く優しく吐息混じりの声で名前を呼ばれ、普段よりも熱を持った掌で素肌を撫でられた。余裕のなさそうな表情で見下ろされては、痛みも快楽もごちゃ混ぜになったまぐわい。
……昨日のことのように思い出される。
それがその場の勢いだったか、お互い欲に流されたか……今ではもうはっきり覚えていないが、ただひとつ確かなのが、忌々しいことにおれは乱馬に対して好きという恋愛感情が芽生えてしまったこと。
発散するような行為でも、回数を重ねるごとにその想いは強くなった。
でも嬉しかったんだ。求められたことが。言葉にせずとも想いは通じている、乱馬もおれのことが好きなんだと。
連絡を取らなくたって、数年もずっと、おれは。
……これはあかねさんが居るのにそんなことを考えてしまっていた罰なんだろうか。
「…………乱馬とあかねさんが、結婚……か。」
招待状へと視線を落とす。端っこには小さく雑な文字で″迷子になるなよ!″と乱馬の筆跡で書かれていた。
少し悩んだあと、出席へと丸を書いた紙をポストへと投函した。
*
心ここに在らず。
その言葉に相応しく、二人の挙式をぼんやりと眺めていた。
陽の光が射し込んだ教会の中、純白のドレスに身を包んだあかねさんは、この世界の誰よりも一等に美しいに違いない。
みんなから祝福されている。……一部、そうではない者も居るけれど。
誓いのキスはさすがに目を逸らしてしまったが、無事に終わった挙式に、おれは何故かほっと安堵した。
気まずいし、いたたまれない。早く帰ってしまいたいと思うばかりだ。
乱馬とは今日一度も目が合っていない。言葉も交わしていない。
……言いたいことは色々あるが、話したら涙が出てしまいそうで避けていた。
披露宴の会場へと移動し、各々着席しては挨拶やスピーチなどを聞いていく。
目の前の料理や酒を食らいながら、歓談の時間になると乱馬やあかねさんは旧友たちと楽しげに話しているのが視界の隅に映った。
「良牙!」
「右京。」
名前を呼んできたのは長い髪をひとつに束ね、シックな色合いの振袖に身を包んだ右京だった。
こちらへ近寄り空いている椅子へと腰掛けては、以前会ったときと何ら変わらず、お喋り好きの目の前の女は話し始めた。
「久しぶりやなぁ、元気にしとった? 良牙は来ないんやないかって思ってたんやけど。あかねちゃんのこと好きだったやろ、ショックで寝込んでるかと思うとったわ。」
「……少し悩んだがな。おまえだってよく来たな、乱馬の結婚式に。」
「乱ちゃんのこと、このまま奪って連れ去ろうかと思って。」
こいつはおれが乱馬を好きだなんて知らない。ドキッと心臓が跳ねた。
そうやって乱馬へと目を向ける右京の顔も声も真剣そのもので、思わず目を丸くしたが、すぐに「なーんて。本気にした?」と笑顔を浮かべた。
「お、おまえなぁ……。」
「良牙はあかねちゃんのこと諦められたん?」
「…………おれは、……あかねさんが幸せなら…。」
「うちも、乱ちゃんが幸せならそれでいいかなって思えるようになったんよ。未練がない訳じゃないけど、乱ちゃんが誰を好きかなんてずっと分かっとったし……でも、うちの方が先に好きだったんやけどなぁ。」
隣の女は泣きそうな顔をしているように見えたが、すぐに笑ったあと乱馬と話しているシャンプーを指さしてはこっそりと耳打ちをしてきた。
「そういえばシャンプーちゃんもムースと結婚するらしいで。」
「あの二人付き合っているのか……。」
「乱ちゃんとあかねちゃんが正式にお付き合いしたあとやったかなぁ。最初は諦めてなかったみたいやけど、元々あの二人いい雰囲気だったやろ? ……良牙は付き合うてる子はおらんの?」
「おれは、別に…。」
『──良牙さま。私、いつまでもお待ちしています。』
忘れられない人が居ると、告白を断った女の子の顔が浮かんだ。
断ったあとも時々話しはするが、彼女は未だにこんなおれのことを好いてくれているらしい。
そんなことを考えているおれを見て彼女がいると勘違いした右京は溜息混じりに言葉を零した。
「……良牙にだけは先を越されんようにしよ。」
「勝負じゃねーだろ! こういうのは……、」
「──よっ、ウっちゃん。良牙借りていいか?」
おれの肩を叩いた声の主が誰か分かると、ぎしりと身体が固まる。
手が置かれた肩が熱を持つ。顔が火照るような感覚に襲われた、赤くはなっていないだろうか。
「乱ちゃん! ええよ、積もる話もあるやろうし。あとでうちとも話してな♡」
「もちろん。またあとでな、ウっちゃん。」
右京は立ち上がりおれの後ろに居る奴へと手を振る。このまま二人きりになりたくないと引き留めようとしたが、丸い双眸に覗き込まれるとそれは叶わなかった。
「良牙。あっちで話そうぜ。」
親指をさして向けられたのは外にあるテラスだった。少し緊張している返事が上擦っていないか心配しながら、おれは乱馬と外に出た。
*
火照った身体に外の風が心地いい。
室内から聞こえる楽しげな喧騒を耳にしながら、壁に背を凭れて暫く沈黙が続く。
気まずさから、それを先に打ち破ったのはおれの声だった。
「…………結婚、おめでとう。あかねさん、綺麗だった。」
「……おう、そうだな。ドレス選びかなり楽しんでたみてーだし。おめーは今日迷わず来れて良かったじゃねーか。」
話したいことなんて幾らでもあったのに、そのどれもが何一つ、言葉として出てこない。
心臓がうるさい。僅かに自分の視界が滲んでいるのに気づいた。
すると、不意に頭が撫でられてはビクリと肩が弾む。脈が速くなる。掌はうなじへと滑っていけばひとつに結んだ髪に触れられた。
「髪、伸ばしたのか。」
「ぁ、……ああ。」
「今日見たとき、一瞬誰だかわからなかったぜ。」
手が、離れていく。
記憶に焼きついている三つ編みが視界の隅で揺れる。乱馬の顔は、おれを抱いているときに向けていた表情によく似ていた。
昔から、こいつが何を考えているのかわからなかった。
今だってそうだ。
何を考えている。……あのとき、何を思っていたんだ?
「乱馬、」
好きだ。好きだった。
そう、喉から出そうになる言葉をすんでのところでごくりと飲み込む。
あかねさんの顔がよぎったからだ。
「……ん?」
「…………おれはおまえの、ライバル…だよな?」
俯きながら吐き出した言葉は、こいつに縋り付くようでなんとも情けなかった。
「……前にも言ったけど、おめーはおれが唯一認めたライバルだよ。それはこれからもずっと変わらねぇ。」
早乙女乱馬という男を、ずっと追いかけてきた。
こいつに振り回されてきた人生で、復讐を誓った。
こいつの幸せをぶち壊すと、そう決めていた。
……決めていたはずなんだ、あの頃は。
「……じゃあ、そのライバルであるおれから最後の頼み、聞いてくれるか?」
「最後……? なんだよ。」
「あかねさんのこと、泣かせるなよ。」
睨みつけながら伝えた言葉は少し震えていたかもしれない。
我儘になりすぎるのも、欲張りなのも、よくない。
この気持ちを封じ込めれば、あかねさんも乱馬も幸せになる。
でも最後にひとつだけ。
こいつを振り回しても許されるでしょうか。
胸倉を掴んで引き寄せる。近づいた双眸は丸く見開いていた。
お互いの唇が重なる。
一瞬だけ。触れるだけのそれを交わしては尖る八重歯を突き刺すように唇を噛んではすぐに離した。
「……ッい、…ってぇ…。…っおい良牙!! おれ、おまえのこと──」
「ばーか。……じゃあな、乱馬。」
かけられた言葉の続きを言わせまいと声を被せては、掴まれそうになる腕をひらりと躱す。
おれが噛んだ唇から薄らと血が滲んでいるのを尻目に、あかねさんの元へ向かった。
*
「あ、良牙くん! 今日は来てくれてありがとう。」
「いえ、会いたかったので。……あの、あかねさん……今日は本当に…綺麗でした、すごく。世界で一番。」
まるで告白でもしているかのような台詞に、周りに居た連中は驚いたように声を上げていた。あかねさんの白い頬にはほんのりと紅が差している。
「あ、ありがとう、良牙くん。」
「……乱馬と、幸せになってください。あいつがあかねさんを泣かせたらいつでも殴りに来るので。」
「ふふっ。相変わらず優しいのね。そのときは頼りにしようかな。」
「……おれ、用事思い出したので先に帰ります。すみません。……お元気で、あかねさん。」
「あ、良牙くん!」
引き留めるような声が聞こえたがおれは早足でその場を後にした。
荷物を片手に会場を出る。ただそこから離れたいとだけ思って一目散に走ると、暫くして息を切らしては立ち止まった。
ぼたぼたと大粒の涙が溢れていることに気づき、服の裾で拭う。
拭っても拭っても枯れずに流れてきては、耐えきれずに声を上げて泣いた。
もう二度と会わない。今度こそは。
その覚悟の上で今日、会いに来たのに。
どうしてこんなに張り裂けそうなんだ。
『っおい良牙!! おれ、おまえのこと──』
離れる前にかけられた言葉がジリジリと胸を焼いていく。
あのままおまえの言葉を聞いていたら、おれは……あかねさんを悲しませていたかもしれない。
右京が言ったように、あいつを連れ去っていたかもしれない。
ふたりが幸せなら。
あいつのライバルでいられるなら。
おれのこんな気持ちなんて、捨ててやる。
そう思ったが、無理矢理に重ねた唇の感触を思い出してしまう。
あいつを不幸にしてやりたい、おれのことを考えてめちゃくちゃになってしまえ。……と、そんな気持ちを込めたものだった。
(……きっとおれは、幸せになれないな。)
***
響良牙が遠い街で結婚した。
早乙女乱馬の元にそんな風の噂が流れてきたのは、それから数年後のことだった。
END