ファーさん、ファーさん、黒猫にかまえ!足音、足音、足音。鍵どうしがぶつかる音。シリンダーの傾く音。古い蝶番が軋む音。
「やあ、待ってたよ」
少しくすぐったいオレの声。あの人は踵から歩く癖があるから、足音がゆっくり床に響く。オレが綺麗にしておいた鞣し革の黒い靴は、手で触れても分かる程しなやかに、使い込めばその分持ち主のものとして矯正される。いいな、靴になりたい。脚へ添うことは、人間の文化では忠誠、服従の態度を表すらしい。そんな分かりやすい方法があるなら、もっと早く知りたかった。現に今、オレはこんな革靴ごときに遅れをとっている。貴方が室内履きへ履き替えた隙に、靴箱の一番奥へ仕舞い込んでやった。革靴はそこで大人しくしてなよ。悪いね、あの人に添える装身具の中でオレが一番じゃないと嫌だってだけさ。
「人差し指より薬指の方が少し長いね」
勝手に取り上げた左手を緩く揉みながら、ベリアルは手の甲に向かって話しかける。
「爪も細長くて四角い。オレのはもう少し短くてコンパクトだね。でもつぶが揃ってて可愛い。お気に入りなんだ」
ほら、と左手の持ち主に差し出す。よく見て、触れて欲しくて、昨日のうちに手入れを済ませた指先は誰から見ても美しい。
「ーー後にしろ」
ようやっと書き物を進めていた彼の目線を奪えた。低い声からは不愉快さが読み取れるものの、本当なら先に手が飛んでいる。
「だめ、だめ。もう作業を始めてから6時間近く経つ。ひと息入れないと」
「前のあれは、お前が勝手に部屋まで入り込んで来ただけだろう」
「ファーさん、普通ヒトは、何日も部屋に籠って出て来なかったり、ペンを机に突き刺したまま寝入ったりしないんだぜ。またじっくり寝息を聴かせてもらうのも悪くない提案だけど?」
「・・・チッ」
「今日のところは降参しなよ。何か甘いものをつまむのは?先にすこし眠るかい?」
珍しく丸め込まれてくれるご主人相手に甘い声の獣。跳ねる踵が視界にちらついて、主は堪らずため息を落とす。
「ファーさん、今日のは特別製だぜ」
少しすると、奥から既に用意してあったらしい大きめの皿と、いつものティーセットが一式サイドテーブルへ運ばれてくる。皿へ几帳面に並べられた焼き菓子を指差して、何やら手間がかかるらしいその工程とこだわりを幾つか聞かされたが、美食に関心の薄いルシファーにとっては余計な情報でしかない。二度目のため息の原因になるのみであった。もう一声くる前にテーブルを小突く。
「俺にひと息つけと言ったのはお前だろう。いつまでも口を動かしていないで早く茶を注げ」
はぁい、と巫山戯た返事が返り、ようやっと二人分の用意がされた。
その後もあれこれ構うので傍らのソファーに着席させたが、それでもこいつは嬉しそうな顔をして。
「ね、ほら、オレが食べさせてあげようか」
くい、と口を開けて促す。
「そうだ、仮眠も一緒にとっちまおう。オレの膝に頭乗せてさ、もちろん脚を乗せてくれたって構わないぜ」
そう言って、太腿を叩いて見せる。押しても引いても今日は振り払えなさそうだ。少し相手をしてやれば良いだろうと思い、獣に備えた長い脚の間に割り込み、ルシファーはそのまま座り直す。胸へ頭を置くと案外収まりが良く、ベリアルの前面にもたれ掛かる体勢で身体を預け切ってしまった。
「お っと、││嘘だろ?」
「なにが嘘だ。馬鹿を言うな」
落ち着かない様子で、背の下でもぞもぞ動くので脚を蹴飛ばして諫める。驚いて顔を上げたベリアルに、己の下唇を軽く叩いて指図した。
「││ああ、それじゃ前へ、少し失礼するよ・・・」
ベリアルはもたれ掛かられたままぐっと手を伸ばし、サイドテーブルを引き寄せる。キャスターの軋んで回る音が可笑しくて、小さく笑う。こんなことで笑ってしまうほど、今、幸せだ。
「どれが良い?どれでも良いかい?」
「どれでも良い」
「それじゃこれは、おっと、こっちも捨てがたいな、フフ」
皿の上でふわふわと指は踊り、そのあいだ耳の後ろで獣が甘えた声を聞かせる。これのどこが休憩だ。ルシファーは黙って、背に触れるベリアルのぬるい心音を知覚している。
「お待たせファーさん、ほら、口あけて」
口先へ差し出された焼き菓子を大きめに齧る。ただ香ばしく甘いのみのシンプルな味付けのそれは、柔らかく崩れて舌の上に落ちた。飲み込むまでの間に、齧った菓子の残りをベリアルが平らげてしまう。オレの残飯を喜んで食うコイツの行動は理解できないが、曰く「せっかくなんだから、新しいものに口をつけたら良いじゃないか」との事だ。
さすがに4つも食わされれば、細身のわりに大食のルシファーでも甘さにやられてきた。嚥下のペースが落ちてきていることを獣も承知しているようで、次を促すことはなかった。先まで機嫌の良かった指先は、手拭きの布をちょいちょいといじって所なさげにしている。このまま寝室の方へ向かう前に、最後にもうひとつ、相手をしてやる。目の前の皿からベリアルの口へ、一番大きい焼き菓子を掴んで放り込んだ。椅子がむせて咳き込んでいるうちに立ち上がって、さっさと歩き出す。ドアの前で立ち止まるも、履いてきた革靴が見当たらないので、ああ、と何かを察して室内履きのまま出ていくことにした。
部屋にひとり置き去られたベリアルは放心した顔で、口から詰め込まれた焼き菓子が溢れて床へ落ちる。もう菓子の重く残る香りなど分からない。胸が貴方のことでいっぱいになって苦しい。今の短いやり取りをオレは死ぬまで忘れないよ。それも星晶獣に死があるなら、の話だけど。