今日、いちばんにあなたの声が / 昨日、夢のさいごから 今日、いちばんにあなたの声が
今日は朝まで遊ぼうね、と言っていたのは俺でなくあいつの方だったのに、当の本人は先程、俺が攻略途中だったゲームの中ボス戦に手を拱いているうちに勝手に俺のベッドに潜り込んで寝てしまった。
父は二日前から出張、母は夕飯の準備を済ませそのまま夜勤に出かけており、不規則なシフトでの勤務が多いふたりでも、両親揃って一晩留守にするのはかなりレアなケースで、その事を聞いた織部は、俺が言わんとしている事を勝手に悟った顔をして、へえ、と笑った後に、
「じゃあファーさん、その日は朝まで遊ぼうね。」
そう言って、もう一度笑った。
夕方、駅前のスーパーであれこれ夜食になりそうなものを買い込んで、その足で俺の家までやって来た。両親に織部が訪れることは伝えていなかったが、とにかく頻繁に来るもので、その日も一人分よりかなり多めに米が炊かれていた。そして、コンロに置かれたままの鍋にはとにかく具沢山の味噌汁だか煮物だか分からないような汁物。放っておいたら野菜を食べない俺のために、肉も野菜もありったけ放り込んで作られる味噌汁は立派におかずとして扱える。今日のはさつまいもと蓮根と人参の根菜中心の具材に、豚肉と薄揚げまで入って少々油っぽい仕上がりだが、さっき炊き上がったばかりのご飯にかけると良さそうだ。さつまいもが入っている時は、仕上げに七味をかけて食うのが一番うまい。冷蔵庫を開けると、「夕飯に食べること」とメモの貼り付けられた銀色のボウル。きっと中は葉物野菜とトマトと市販のポテトサラダか何かを放り込んだサラダが入っている。何度も見ないフリをして別のものに手をつけ、その度に量が減っていないと気づいた母にボウルいっぱい食わされるのを繰り返している。コレは正直気に入らないので織部にも処理を手伝わせるとして、その奥に昨晩の揚げ物の残りがあったはずだから、もし俺だけならこれでとりあえず十分だが、今日はもう一人食い盛りがいる。追加で即席麺でも食えば、と思っていたが、織部は冷蔵庫を開けながら別の提案をする。
「ね、ファーさん、卵使っていいかな。オレ、最近卵焼き作る練習してるからさ、今から作ってあげる。」
そう言って勝手に戸棚から深めの器と菜箸を探し出し、冷蔵庫から取り出した卵を割り入れていく。
「ファーさんは卵焼き、甘いのよりしょっぱい方が好きって言ってたよね?」
さっきついでに出してきた刻みネギと、顆粒の調味料を混ぜ込んだ。
「今混ぜ込んだこれ、すっごく便利なんだよ。醤油で味付けした時よりも綺麗な色で焼き上がるんだ。蕎麦とかうどんなんかもこれで炊くと美味しいから、明日の朝はどっちかにしよっか。」
そう言って温まった卵焼き器に油を敷く。溶き卵をうすく流し込んで、そこから先はあっという間だった。普段母親が作るものより焼き時間が少ない分、生のときに近い柔らかな黄色を失わないまま皿にのせられる。刻みネギの緑がちらちら見えて、ゆっくり湯気といい匂いを放つそれは、正直かなり美味しそうだった。その事がどうやら俺の表情に出ていたようで、
「ウフフ、上手に焼けるようにすっごく練習したんだ。だから美味しかったら、ちゃあんとそう言ってね、ファーさん。」
こいつを調子に乗らせたようで気に入らない。続けて、機嫌の良さそうな声で俺に指図する。
「ホラ、ファーさん、テーブルに運んで。もう一つ焼いちゃうから、お味噌汁ももうすぐ温まるし…あ、ご飯も自分の分は自分でよそってね。お箸と取り皿もだよ、いい?」
「……」
ため息、とまではいかないちょっと重めの息をついて、戸棚に寄っていった。機嫌の悪い時のこいつは手も付けられない程だが、かといって今のように、妙に上機嫌な時も少々扱いに困る場合が多い。巻き込むな、と都度口では伝えているものの、それが実行された試しは殆どなく、おかずを一品得るためにこうして付き合わされる。
「! ちょっと、お尻叩かないで。」
「どけ、食器棚はこの奥だ。」
「なんだよファーさん、いつもはオレにお構いなく何だって言うくせに。」
「この方が早い。」
「あ~!それセクハラって言うんだよ!イヤだよ、オレ、ファーさんが将来セクハラオヤジになっちゃうの。」
「…そのフライパンの中で焦げている方はおまえが食え。」
「えっ、あ!なんでそっち先に言ってくれないの⁉」
慌てる織部を尻目に、戸棚に納められた皿へ手を伸ばす。揃いで用意された食器は嫁入りすぐの母がこだわって選んだもので、縁がブルーのものは大黒のもの。グリーンが父で母はオレンジ。客用はイエローとマゼンタだが織部が使う色は決まっている。マゼンタのものを少し前まで引き出して、そのまま扉を閉めた。
大盛りのご飯、味噌汁と卵焼きがふたつずつ、向かい合うように並べられた真ん中に、さっき勝手にマヨネーズをかけたサラダボウルとレンジで温めた揚げ物の山がひとつ、立派に夕食としてテーブルを彩る。最後にグラスへ冷やしてあった麦茶を注いでようやく織部は席に着いた。
「ふう、お待たせ。じゃあ、いただこうか。」
いただきます、と小さく口にして、一番に箸をつけたのはあの卵焼きだ。箸を入れると綺麗に割れる。それが俺の口に入って飲み込まれるまで、織部は箸と茶碗を手に持ったまま待っていた。
「…どう、おいしい?」
さっきまで得意な顔をしていた織部は、不安そうに俺に聞く。
「…柔らかくて、好みだ。味はもう少し、塩辛くても良い。」
「うん、うん…わかった、覚えておくね。」
ほ、と綻ぶように笑って、やっと飯に手を伸ばした。
「わ、美味しい、新米だね。こっちの舞茸の天ぷらも美味しい。鮭も豚肉も天ぷらにするといつもと違うね、さすがファーさんのお母さん、忙しいのに料理も上手で尊敬する──」
「おい、」
家での癖だろうか、美味いと感じる感性は本物でも、とにかく褒めないとという形式ばった態度が癪に触った。
「明日の朝も、卵焼きを作れ。あと、うどんでも蕎麦でもいい。それも作れ。」
「明日も、オレの料理、食べてくれるの?」
「今そう言った。聞いていなかったのか?」
「ううん、ちゃんと聞いた。」
食事が終わるまで会話らしい押収はこれきりだったが、揚げ物の山から鮭と豚肉のふた切れめを俺の皿に入れたり、二杯目のご飯を寄こしたり。その間の織部の表情は忙しなく、やかましかった。
「じゃあ、先にお風呂借りるね。」
夕食の片付けを終え、部屋へ招き入れたはいいものの、手をつけ始めたゲームに思ったより苦戦する俺の背中に、いつも長風呂の織部はそう言って部屋から出て行った。
その時、別の暇つぶしを考えれば良かった。なかなか戻ってこない織部と、さっきの不完全燃焼の戦績で、セーブしたばかりのデータをもう一度開く。しばらくして戻ってきた織部へ何度か、生返事をしたところまでは覚えている。
「…織部」
続く声がないので振り返ると、織部は掛け布団を抱く体勢で小さく寝息を立てていた。
「織部、おい──」
もう一度声をかけてみるも、しっかりと眠り込んでいて簡単に起こせそうにない。肩に触れようと手を伸ばした時、目に飛び込んできたのは白い太腿。いつものように俺の部屋着のパーカーを着て、しかし一緒に渡したはずのスウェットのズボンを履いていない。大きめのパーカーはワンピースのように腰の辺りまで覆い隠しているが、剥き出しの脚は、抱き締めた布団に絡み付くように力なく伸びて、シーツの上に放り出されていた。
「何…?」
思わず小さく疑問の声が漏れる、が、今朝のこいつとした会話を思い出していた。そう、今晩は父も母もいない。その意図を汲んだこいつは、その為の準備をしていたつもりなのだろう。
「……なら、なぜ眠る…」
今度こそ大きく一つ溜息をついて、返事のない相手に心底呆れていた。いっそ尻をはたいて叩き起こしてやろうかとも思ったが、大人しく先程まで座り込んでいた座椅子に体を戻した。普段なら織部に対してこんな殊勝な態度を取る事はない。しかし今回に限っては少し分が悪い気がする。もう少し具体的に言うと、格好が付かない。それに、あの薄く血管の透ける柔い肌に誘惑され、いそいそとベッドサイドの引き出しに準備万端のものたちを取り出して、無抵抗の織部へ手を出す己の姿はいかにも、格好がつかない、のそれだろうと思えた。
ベッドのど真ん中を取られてしまった今、部屋の中で居場所はこの座椅子しかなく、サイドのテーブルには織部が買い込んで来た夜食と、織部が観たいと言って借りてきたままのレンタルビデオ、織部が脱いだ服、織部が身に付けていたアクセサリー、織部の鞄と、いつもくっついているりんごのマスコットキーホルダー。すでに逃げ場のないほど部屋中に溢れる織部の切れ端たちから一晩どう逃げるか、もう一度舌打ちと溜息をひとつずつした。
「…イレギュラーが過ぎる……」
「──織部、いつまで寝ている。」
起こす気のない弱い声は、背後のベッドで眠る織部に向けてではなく、目の前のテレビ画面へ向かって吐き出される。
「お前が観たいと言って借りてきたんだろうが。」
ビデオデッキにテープが差し込まれた。織部が今夜俺と一緒にと準備して来たものを俺ごと放り出して寝ているのだから、腹いせに全部手をつけてやることに決めたのだ。朝、何も知らずに起きてきた織部相手にいくらでも口論してやる。知らない映画の番宣がいくつか入り、本編の冒頭が再生される。去年放映されたばかりの舞台作品で、猫に扮した役者たちが自由に舞台中を歩いて歌う。見せ場も山場もないような筋書きは不破の好みではなかったが、娼婦風で汚れた身なりの孤独な女猫の役者が切なく身の上を歌い上げるシーンだけは、画面に目を奪われた。そして最後に、彼女は天界へ迎えられる。しかしそれは彼らにとって別れではなく、新しい世界への旅立ちであるように思えて、人の手から離れて生きることを選んだ彼らの独特の生死感は、手垢がついた感動モノに比べ非常に新鮮で、もし明日の朝にも、織部が観たいと言うなら付き合ってもいいかも知れない。そう小さく呟いて振り返ると、織部は壁の方へ寝返った体勢で眠っていた。めくれたシャツの裾からグレーのボクサーブリーフが見え、今度こそ本当に叩いてやろうと思ったが、さっき観た映画が良くなかったのか、緩やかに上下する背中と弱い寝息を聞いて、馬鹿馬鹿しくなり肩から力が抜ける。
時計は、0時を過ぎたところを指す。普段ならまだ二人とも起きてだらだらと過ごしているような時間帯でも、窓の外がいやに静かで、少し冷えるせいもあり余計にひとりで起きている事を感じた。テーブルに積んである織部が持ち込んできたビニール袋へ手を伸ばして、中を探る。甘い炭酸のジュースは好かない。これは織部が良く食べているチョコ菓子。ポテトチップスがあるが、昨日食べたものと同じ味で、これもどけて置く。あといくつか引っ張り出してきたものも、みな今すぐ欲しいものではなかった。最後に出てきた菓子パンがなかでも最悪だった。あのりんごのキャラクターが描かれている。袋の端に応募用のシールがついており、織部はまだあのよくわからないキャラクターのキーホルダーやらぬいぐるみやらを増やすつもりがあるらしい。普段は大人に食ってかかる態度を見せる織部は、一方でこんなキャラクターひとつにひどく執心する幼い感性もあわせ持つ。不安定で、アンバランスで、このキャラクターに絡んだ思い出をいつまでも離したがらないのが、正直不破には理解し難い。出会ったその日に、たまたま持っていたそれを欲しがったので渡しただけ。俺がその場の気まぐれで与えたものが、織部を形作るものになっていく。そんな、神様のような。それでも、これが他の神を愛でるような事があれば、きっと許しはしないだろうと自覚させられる。赤色のアホづらを見るたびにそんな感情が差し込んでくるのが不快で、度し難い。菓子パンの袋を開けると、赤い着色がされただけの蒸しパンが出てきた。口に含んだ途端、安っぽいリンゴの味がして、気に入らないので大口で噛みちぎって飲み込んでいく。
応募用のシールはいつも、手帳の内側に貼って保管している事を知っていた。あとで無くしたとでも言われるのが嫌で、ファスナーが半分空けられている織部のスクールバッグに手を突っ込んで手帳を探す。その時、一緒に出てきたアパレルブランドの小冊子の表紙に目が留まった。モデルが着用しているのは、この間渡された指輪とネックレスと同じもの。ちらとベッドの方を伺うと、織部は口元に掛け布団を引き寄せて、こちら側に体を向けていた。起きる気配はないが、アッチの方向を向いて小冊子を開いた。
夏が終わり、本格的に秋冬の装いが並ぶラインナップ。モデルたちが着込んでいるトップスやシューズは、何となく織部の持ち物に雰囲気が近い。いくつか好みのデザインのものを見つけ、隅に小さく書かれた商品名と価格を確認し、思わず声に出して読み上げる。
「いちまんろくせん、はっぴゃくえん…?」
ただ、黒地にロゴと刺繍とが施されたカットソー。コートや靴に至っては数万以上のものがズラリと並んでいる。織部が身に付けてきた、今は机の上にはだかで置かれているブレスレットとチョーカーも最後のページに載っていた。それぞれ、ポイントとなるパーツに組み込まれた意匠にこだわりであるそうで、思わず溜息の出る数字が見えたが、その隣の、俺に渡されたものはもう一つ大きな溜息の原因になった。
織部の全てを知ることが己の義務とは到底思わないが、一時期、駅の辺りを歩く度やたらと見知らぬ大人に絡まれていたのを思い出し、急に合点がいった。冴えないオヤジに対してはどうでも良いが、OLらしい女相手は拗れると手が付けられないだろうからやめろ、とだけは言っておかないと、こちらにも飛び火しそうで苦い顔になる。
「──いつまでも、世話の焼ける。」
織部は小学生の時、俺に喜んで欲しくて誕生日プレゼントを買うために親の金を盗んだ事がある。どれだけ愚かな行為か、親にも俺にも散々言われ、それ以降は人の金へ手を出すことは控えていると思っていたが、その辺りの罪悪感が薄いのも織部らしさと言わざるを得ないかも知れない。座椅子を引き寄せ、織部の顔を覗き込むようにベッドの縁に頭を引っ掛ける。そのまま、もたれるように体を傾けた。
「俺に、こんなことまで、──」
言いかけて、口を噤む。目が離せないと言えば聞こえはいい。その実、織部のペースに巻き込まれて、しっかり立っていられないのがどうにも。穏やかに眠るこいつを前にして、普段は思い付かないようなことが頭を巡り、そのせいでうっすらと表情筋が歪む。慣れない事で気疲れしているだけだと言い聞かせて、壁沿いに積んであった予備の毛布をこちらへ強く寄せる。無理に引いたせいで積んだままの本や衣服が絡まって部屋のレイアウトをもう一段崩していく。急いでこの疲弊した思考を止めてしまいたかった。客用の寝具からは清潔な香りがして、無機質なそれが今はちょうど良かった。肩まで覆い被せたところで、す、と落ちるように不破の意識は途絶える。
そばで無防備を晒すその行為がお互いにとってどれほど特別か、それは先程まで脳内を支配していた感情に対してほとんど答えに近いのに、当たり前すぎるせいで自覚が生まれることはない。
がさ、と何かが動く音で目が覚めた。柔らかい栗色の毛が寝返りを打つ頭に引かれて、白いシーツの上を滑る。目線を窓の方へ少し向けて止めた。
「──あれ、あかる…」
くぐもった鼻声でつぶやかれたオレの声を聞いて、ファーさんは窓と反対へ頭を置き直して少し唸る。
「ふぁーさん、いまなんじ」
傍らの白いふわふわのつむじへ声をかけた時、彼の体がベッドフレームからはみ出していることに気づく。椅子に座ったまま寝ちゃうなんて、ファーさんってそういうところ、あるんだよなあ、とぼんやり考えていたところに、一拍遅れて返事が返る。
「…9時過ぎ。」
「くじ…?」
そこでやっとオレの頭は起動したらしい。
「くじ…って、朝の…⁉」
直後、織部は飛び上がるように体を起こし、まだ少しこもった声のままベッドの上からぎゃあぎゃあと言い訳、質問を一通り言った最後に、もう一段大きい声でこちらを責める。その間暴れる織部のせいで引っかけていた頭をマットレスごとぐらぐら揺らされ、これ以上ない最悪の寝覚めだ。
「し、信じらんない…!オレ、一晩じゅう脚剥き出しで寝てたのに、ファーさんってば、何とも思わなかったワケ⁉」
こうやって自信が揺らいだ時だけ年齢相応の幼い顔を見せる。気の強い切れ長の目尻は、その睫毛のもとに小さく感情をのせて、伏せた眉も幼い頃から変わらない。何度も見てきたが、さすがに最近はご無沙汰かもしれない。掠れた声で返事をした。
「…なら、もっと声を掛けるなり、他にも…意思伝達の方法は、あっただろう。お前の選択ミスを棚に上げて、イイ子で待っていたその態度ごと反省しろ…」
「だって、オレばっかりがっついてるみたいで、嫌なんだもん。ファーさんに起こして欲しかったの!」
「やかましい…、この阿呆、」
思わず織部の方を睨み返したが、寝起きにこの癇癪玉を素直に相手したのが悪かったと後から反省した。
「おまえの寝ぎたない恰好で、──何かあるとでも思ったか。」
しばらく無言が続いて、どうしてもそれが耐えられず、織部は口もとを緩ませ掌で少し隠す。
「……ファーさん、キミ、オレに嘘つくとき右へ目が泳ぐの、知ってた?」
昨日、夢のさいごから
夜中の3時を過ぎた頃に、ようやっと眠気がやってきた。机の上、足元問わず積まれた参考書や雑誌などの書籍は一見、なんの関連性もなさそうだが、不破の脳内にふと生まれた疑問を解きほぐすのにどれも重要なパーツとなってその役割を果していた。散らかした本たちを場所というより位置で覚えているため、積み方ひとつとっても法則は不破本人にしか分からず、家族や織部に美しく整頓されてしまう度に何度も説明しているが、いまいち分かってもらえていない気がする。その散らかった部屋そのものが、外部出力された不破の思考領域なのだ。記憶に座標を結び付け、辞書を引くのと同じように立体的な本の海から欲しい一冊を手に取る。見たいページも数でなく凡その位置で覚えており、近いところでがばっと開いて前後にパラパラとめくれば、欲しい項目が見つかるのだ。織部にはなにそれエスパー?と言われているが、膨大な記憶の仕分け方が珍しいだけで、逆に不破には織部が得意としている単純な暗記の方がよっぽど馴染みがない。
スタンドライトを消すと、部屋は青い窓あかりで満ちた。椅子から体を起こした折に膝の上に伏せてあった大判の資料集が滑り落ちていく。それを拾って代わりに椅子に座らせて、自分の体をベッドまで引き摺っていった。今日のは、いや、正確には昨日からの降って湧いた疑問は久々に大物だった。まだ何点か決め切れていない部分があるが、それは明日に引き継いでしまって、今はとにかく早く横になりたい。もし、不死に近い、休息も食事もほとんど必要なく活動可能な体が手に入れば、と思いついて、起きながらに寝言じみた思考に傾きつつある自分が思っているより疲れていることを悟る。放り出すようにベッドへ体を投げた時、舞い上がった匂いからいくつかの項目が頭の中で拾い上げられる。いつもの柔軟剤、使い古したタオルケット、シャンプー、嗅ぎなれないお香、──汗。
ああまずい、と思っても、落ちゆく瞼に逆らえるほど余裕はなく、のしかかるような睡魔にそのまま引かれていった。
目を覚ました時、倒れこんだ時と同じ横向きの姿勢であることに気が付くのと同時に、寝覚める直前に見た夢をうっすらと思い出し、眉を顰めた。そして今起こっているこの現象は、夢の内容のせいでなく、身体が疲れているだけだと思いたかった。
今日はこの後、織部と喫茶店で会う約束をしている。二階が本屋で一階が喫茶店の変わったつくりをしており、三百円のコーヒー一杯で何時間でも居座って購入したばかりの本を読めるところが気に入っていた。メニューもホットコーヒーとたまごサンドくらいで、高齢でヘビースモーカーの男性常連客しか寄り付かない店内では、いつどこで何を話したか顔も覚えていないような女子から声がかかる事もない。時々はくたびれた男から話しかけられる場合がない訳ではないが、織部の言う「オンナノコたち」よりよっぽど適当にあしらって問題ないため隠れ家としてちょうど良かった。レジで取り寄せていた目当ての本を受け取って店を出ると、入り口近くの雑誌コーナーで立ち読みしていた織部と目が合う。そのまま奥の階段へ向かうと織部はその後ろをついて来た。
案内されたテーブルへ着席しようと屈んだ時に、織部の首元から立ち上った香り。この古臭い店内には似つかわしくない上品でふくよかなお香の香りは織部の制服からのもので、昨晩部屋のベッドから同じ香りがした原因はひとつしかない。先週のあいまいな口約束が未遂になったまま、二日前に再びやって来た織部は、いつものスクールバッグひとつで部屋までやって来た。
その夜、何があったかを鮮明に思い出している。忘れられない程の思い出に煽られて、浮つくこの気持ちを悟られるのが嫌で、届けられたばかりのコーヒーを熱いまま飲んで誤魔化した。
「あれ、ファーさんミルクと砂糖は?」
「いらん。」
「じゃあオレがミルク入れちゃうよ。」
二杯分のミルクを回し入れ、そこに砂糖を少しだけ足す。
「…いつもはぜぇんぶ入れて冷めてから飲むくせに。」
スプーンは一周回った後、かちゃん、とソーサーに置かれる。織部が飲み物を口につける時、カップを両手で持って支えるのは、俺の部屋とこの店の中でだけだ。他では誰かの目があるから、わざとカトラリーを乱暴に扱う時が多い。こいつなりの護身と見栄がそうさせるのだろう。だけど今、織部はきれいな姿勢のまま、細い右のゆびで持ち手をつまむ。カップが口もとからテーブルへ返ってくるまでのわずかの時間、つよく、俺の目を奪った。
「…ファーさん、オレのこと見過ぎ。」
普段からの戯れでよく聞くセリフに、今日は湿った熱が孕んでいる。織部もきっとあの夜のことを思い出していた。
「──それで、オレのこと、もっと好きになった?」
その時ばかりは、いつも年下のように思えた織部が俺より少し大人に見えて、逆に俺は、自分の子供じみたこの感情が目の前の織部にバレてしまわないか、そればかりが気になっていっそう逸る。織部を相手に、自分はこんなにも余裕がなくなるなんて可笑しい。そう思っていても、目を細めて笑う織部から、顔を背けた。
「こんなに簡単にオレの方を向いてくれるなら、もっと早くああすればよかった。」
胸に湧く気持ちも、髪に触れたいという気持ちも、他のも全部、今は言えない。認めてしまうには十五歳という年齢は未熟すぎて、そのせいでどれだけ苦しめられるとしても、他でもない織部の前で、取り乱すような自分がいちばん許せない。止まらない思考の中で唯それだけは確かだった。