ペパーミントと百度の紅茶「ねえファーさん、それ本当に美味しいのかい?」
たかが栄養補給に見た目なんて、とは言っても、あまりにも目の前に積まれたそれらは、無機物だった。噛み砕かれる音も文字通り味気がない。
「不都合はない」
だって、でも、と食い下がる獣に、人間は言い放つ。
「星晶獣にその機能は備え付けていないというのに、未知領域の理解への苦心など」
最後は少し嘲笑ぎみだった。食事を邪魔された人間は特に指図せず、その不愉快そうな声に乗せて、さっさと獣を部屋から追い出したがっているようで、日頃からその者の対応に慣れた獣にそれが分からない筈はなく、自ら扉を開いて部屋から出ていくより他なかった。
獣には、人の言う美味しさの正体が一体なにで出来ているか、見当すらつかないし、きっと当てずっぽうで正解を見つけることも出来ない。舌が全く不能の無感であるわけでなく、痛みや温度のような刺激は感じられる。が、そんなもの、足の裏でやったって同じじゃないか。
「それはなんとも友らしい返答だ」
だらだらとオレの愚痴を聴き、それでも楽しそうに笑ってカップから黒い飲み物をひとくち。似た顔の男に八つ当たりでもすれば少しは気が晴れるかと思ったが、こいつも違う軸でオレとはズレている。
「もしかして、その黒い液の良さがキミにはわかるのかい?」
最近ルシフェルは、中庭の一角で会うたびに焦げた香りの黒いものを用意する。聞けばそれは、派遣先の人間から交友の一環として贈られたものらしい。もちろん人間に彼の認知は不可能だ。それはきっと彼宛ての贈り物じゃない。ようは捨て先としてルシフェルが選ばれたと言うだけなんだろうが。珈琲、というただの飲み物のくせに原材料の準備から口に入れるまで非常に世話のかかるもので、その手間が人には何か良いらしかった。
「いいや、人の様に分かりはしないよ。私の体も、君と同じ構成で出来ている」
どうだか、その悪意のない悪意に気づかない感性こそ、彼らしさではある。結局さっきからのオレが溢した愚痴もただの茶請けだ。
「しかし、だ、ベリアル」
言いながらカップをソーサーに置き直す。
「これは味覚で楽しむことが本懐ではない。香りを服むものであると、彼らは」
「・・・へえ、それは粋な贈り物だね」
「以前、派遣先の地域で採れる果物を贈られたことがあったが、後日、あまりにも良い香りだったので自室に飾っていると派遣員たちに話をしたら、次からこれが贈られるようになった。笑っていたよ、それは経口摂取する事で完結するものだったらしい」
難しいね、と笑ってもうひとくち珈琲を含む唇は柔らかい三日月。愛おしそうに嚥下されていく贈り物。オメデトウ、人の子たち、今度こそきちんと受け取ってもらえたよ。相互理解ここに成る。めでたしめでたし。
「それじゃオレは帰ろうかな、おジャマしたね」
立ち去ろうとする腕が軽く抑えられる。
「君の次の予定は二時間後だろう?これを、君も頂かないか?是非感想を聞かせて欲しい」
こうなると彼はシツコイ。しぶしぶ持ち上げかけた体を席へ戻した。
「黒いものの多くは空の民の身体には毒、だと聞いていたんだけど」
数年前、交流を始める準備のため受けた研修の内容で、しかも一番つまらない教本の「食事に同席する際の留意点」の項目、その欄外に小さく記載してあった。個を有する生命体の集合を大きく一括りにしたような思想の読み物で、心底つまらなかった。目の前のこいつは、その席にいつか自分も呼ばれることを夢見て随分と楽しそうに目を通していたが、オレには。
「心得ている。人の子はこのカップで20杯も飲ませれば命を落とす。だから我々もそれに倣って、少しだけ」
「二十等分の死のかけらがひとつ溶かしてあるなんて、珈琲の愛好家は自殺願望者ばかりなのか?」
「しかし、そのかけらには良い効果も含まれる。人は体内の循環が滞れば生きてはいけない。それを手助けする効能がある。そして作業の効率化を補助することも。すこしの間、身体の疲れを和らげる」
「ああ、酒とかいう飲み物と似た成分が?それなら人が好むのも納得だ」
「依存の恐れがある点も共通だ」
「オレにはますます意味が分からない」
「その一見意味不明な、余白の部分に解釈の自由を持たせてあるのだろう。空の民の文化では珍しく無い事象だ。慣用的な表現でそれは含み、と言われている」
「物は言いよう、ってことか。ソッチはオレの専門だけど、空の民と口喧嘩で負けるようじゃ、ねぇ」
「何を、謙遜しなくとも。君の役割は一言で割り切れるようなものでは無いはずだ」
くだらないやり取りを交わしながら、湯が沸くのをふたりして待つ。これが余白。豆を引く手間も、カップを温める工夫も、蒸らす時間も、ぜんぶ余白。手元にカップが運ばれるまでに、話題は出尽くしてしまった。この一連の儀式めいた手順が、相手の時間を奪うのに丁度良い口実に思えて、なんとも人間らしい。
その手間だらけの珈琲の味は相変わらず分からなかった。それでも、こんな食べものらしからぬ深い香りを食むなんて、やっぱり人間は変わっている。
「今度はさっき話してくれた砂糖とミルクも用意してくれよ。受け取る印象が変わるかもしれない」
文言通りに、この透き通った美しい香りを台無しにする添加物を準備しても、オレとの二杯目はきっと起こり得ないよ。なら他のオトモダチは?そうだねぇ。こいつもオレとは違う軸で世界からズレている。
それからのち、ベリアルは良い機会を伺っていた。茶葉の封を切る。新しいものからは清々しい香りがして心地がいい。せっかくだし、少し茶葉を多めに。流し台のそばに立ち、お茶の準備はとんとんと進められる。カップを温めておく時間も、ガラスの容器の中で回る茶葉を見る時間も、全部この間の余白と同じだ。でもこの時間を誰かと共有する程オレは酔狂じゃない。ファーさんの口に入れるものを用意するのに、他のことへ頭をやる隙間なんて有るかよ。
いつものように一瞥もくれないまま差し出された紅茶をひとくち飲み、キミは思わず咳き込む。机の脚を蹴り、息が詰まったように胸元を押さえて眉を顰めていた。睨みつけた先のオレの手元のカップからも、側にあるものと同じように熱い湯気が立っている。
「ーー不調の申請は徹底しろと言ったな」
「フフ、熱かったかい?ファーさん。オレも同じ気持ちだよ」
何か小賢しいことでも考えているらしく、ベリアルは煮えた紅茶を飲み込んで、にんまりと笑う。
「それにこの後味は何だ。またどこぞで妙な知識でも拾ってきたか」
「正解、今日のはミントティーだよ。刺激的だったろう?」
「先に伝えろ。要らん手間を」
ソーサーにティーカップは戻る。きっとよく冷めるまで二度と手をつけてもらえない。それでも。この小さな嗜虐でオレが得るものは重大だ。痛め付けちゃってごめんね、ファーさん。ポットに残る紅茶が熱いうちに、二杯、三杯と飲み干していく。それは喉元を通るたび内耳を内側から焼き、熱さのかたまりのまま内臓へ落ち込む。火照る舌の上をミントの冷たさが刺してヒリヒリと痛むが、これしか獣にはないのだ。
「そんなにこれが気に入ったのか?大層な偏屈め」
一瞥もくれず、しかし口調は少しだけ軽い。そう、そうとも。とても気に入った!ベリアルは笑って何も答えないが、ルシファーからもそれ以上の返答はない。
再開した作業へ集中し始めると、もう彼の目に従者の用意したものは映らず。ティーカップに残されたお茶が冷めてしまうのを放る者と見る者、それですっかりいつも通りに戻ってしまった。