傷口 肌を刺す北風が強くなりはじめ、黄金に輝く紅葉が役割を終え、ハラハラと散りゆく季節。获花洲を一望する望舒旅館は静まり帰った夜の璃月を明るく照らしていた。
「今日はほんとに災難だったけど、先生が居てくれて助かった」
「大した事はない。気にするな」
遠出の任務は少し大変で、帰るに帰れない距離にあったここで鍾離先生がいたのは不幸中の幸いだった。疲れた体に野宿は少し堪える。たまたま用事で泊まりに来ていた鍾離先生と同じ部屋で一夜を共にするのは少々不安だが、寝具で休息を取れるに越した事はない。
そろそろ体も冷えてきたところで部屋に戻ろうとした瞬間、唇に鋭い痛みが走る。
「っ……」
「どうした?」
「いや、ちょっと唇切っちゃったみたい」
軽く舌で唇をなぞるとピリっとした痛みと鉄の味がした。
「ほんとツイてないよ……クリーム忘れてたし」
「クリーム?」
「ああ、こう寒いと唇切っちゃうんだよね。璃月は故郷と比べて暖かいから油断してたよ」
いつも持ち歩いてるクリームもないので仕方なく傷口を舐める。苦い鉄の味が舌先に広がる。
「っ痛……」
「あまり触るのは良くないのではないか?」
「平気平気。これくらい舐めとけば治るよ」
ぺろぺろと傷口を舐める。傷口回りを湿らせる様に舌でなぞり、唇全体に広げるように上唇と下唇を擦り合わせる。
その様子をじっと見ていた鍾離先生は何を思ったのか急に頬をがっちり掴み、顔を近づけてくる。
「先生なにするんッッ!!」
あろう事か、先生の長い舌がタルタリヤの傷口をぺろぺろと舐めはじめる。乱暴に舐める動きにチクチクとした痛みが広がっていく。
「何するの先生!!」
「舐めれば治るのだろ?手伝ったまでだが?」
「ありえない……ほんと……ありえない」
「どうかしたのか?」
この神様ほんとあり得ない……上手く顔も見れない上に、怒りと羞恥で体全体が震える。
「公子ど…「俺、初めてだったんだからね!!」」
「……初めてとは?」
「ほんと最低だよ!!俺……初めてのキスだったのに……」
「俺は唇には触れてないからキスではないとは思うのだが?」
「うるさい!こんなの認めない!」
こんな女々しい思想を持っていた自分にも驚きだし、何も感じてないこの神様に心底腹が立つ。
怒りでギッと睨みつけても存ぜずの顔をする先生は急に俺の顎を掴む。今度は何をするんだ?と考えるより先に眉目秀麗な顔が近づく。さっと同じようにぺろと傷口を舐めたと思ったら、角度を変え、濡れた唇を広げるように優しく食むように口付けされる。
「これなら認めてくれるか?」
「ッ!!!!」
思わず出た右手は顔に当たる事もなく、一回り大きな掌でガシっと掴まれる。
「危ないではないか」
「クソッ!」
反対の手でドンっと体を押し、そそくさと部屋に入る。さっきまで北風の冷たさが心地良かったのに今は暖められた部屋が蒸し暑いくらいだ。
「俺はまだ認めてないからね!」
下の階にも響きそうなほど強い足音をたてながら部屋に入るタルタリヤの背中を見つめる。
「と言う事は"まだ"初めてが残っているのだな」
唇についてしまった赤い血を舐めると苦い鉄の味がした。