私が結婚する際に、ふと親友のことを思い出した。私は春が好きだった。私たちが出会ったのは大学のまだ寒い春の日だった。毎年こうマグノリアの香りが漂うようになると、私はいつも彼を思い出す。香りというのは記憶を呼び起こす作用があるようだ。
外からは少女の耳飾りのようなクチナシの甘い香りと、湿気を含んだ柔らかい土の匂いが漂っていた。電気を付けていない薄暗い書架に、埃を被った写真立てが飾られていた。ドアのベルが鳴らされる微かな音が聞こえた。使用人が廊下を駆けるパタパタという足音が響く。
写真屋がやってきたのだ。
私は田舎町の貧しい生まれだったが、彼は生まれながらの貴族だった。私たちは同じ授業を取っていて、それは古典電磁気学の授業だっただろうか。マクスウェル方程式の解法の求め方を教授が説明している間、他の生徒はうとうとと船を漕いだりしている様子が見られた。元々履修している生徒が少ないからクラス全体の様子が見渡せた。私は窓からそよぐ秋の風に気を取られ、ぼんやりと外の枯葉を眺めていた。
「ロレンツ」教授の声が唐突に響く。「この式の名前は分かるかな?」
マクスウェルの力場に関する方程式だった。私はすっかり意識が飛んでしまっていて、教授が説明した式の名前を聞き逃していた。何とかその式の名前を記憶の底から引き出そうとするがどうも焦りで思い出せない。私が惚けたみたいに黒板を見ていると、ちょんちょんと後ろから肩を控えめに叩かれるのが分かった。
「ビアンキ恒等式だよ。電磁場の拘束条件を揃える」
私はハッとして、礼を言う間もなくその言葉を復唱していた。教授は授業中にも拘わらず上の空だった私を諌めるつもりだったのだろうが、思惑は叶わず、ふんと鼻を鳴らし授業に戻った。荒っぽく黒板を引っ掻くチョークの音が耳障りだった。
「ありがとう」私は少し振り向いてそう囁いた。「助かったよ」
「君、確かアルヴァ・ロレンツだろ?物理学者のローレンツと同じ名前だから覚えてたんだ」
そう言って男性はにっこりと笑った。笑うと八重歯が覗き見え、綺麗な緑色の目が三日月形になる。人好きのする笑顔だった。嫌味になりそうなくらい白く品のいいシャツを着て、アイボリー色の肌をしたこの青年は、どこか教室では浮いて見えた。
「色々話したいが、こうしてるとまた教授に目をつけられるぜ」
彼は悪戯っぽく囁き、促すように私の背中をとんとペンで叩いた。慌てて前を向くと、教授がじろりと私を睨むのが見えた。
講義が終わるとその男性は私の机の前に立ち、「私はヘルマンだ」と言った。「ヘルマン・ゼーマンだ。よろしく」
「驚いたな」私は呆気に取られて言う。「さっき君は私を電磁力学者と同じ名前だと言ったが、君もじゃないか」
「そうだな。しかも2人とも古典電磁気学を研究してる」ゼーマンは笑いながら私に手を差し出した。「君とは何かの縁を感じるよ。よろしく、アルヴァ」
握り返した彼の手は、暖かくて滑らかだった。私はこの青年のことが一気に好きになっていた。愛想がいいだけではなくて、情熱的で野心があり、どこか心を許してしまうような気の良さがあった。私は内向的な性格や人目を引く見た目のせいで友人が少なかったが、ヘルマンとはすぐに仲良くなった。
私たちは学内でも不本意ながら目立つ二人組だった。ヘルマンは学校内としては不適切なくらい高価な仕立て服を着ていたし、私は知っての通りやたら背が高くて陰気な雰囲気を振りまいていた。そんな二人がつるんでいたら誰だって驚くだろう。『ノッポのロレンツとボンボンのゼーマン』だ。ヘルマンは自分の能力や裕福な生まれ育ちを誇示したがると言うよりも、それを隠す必要はないと考えているようだった。ヘルマンは何を言われようと気にしていないようだった。
彼と話をするのは面白かった。ヘルマンは貴族の生まれではあったが、それを鼻にかけず誰とでもフランクに接した。彼は常に人の注目を集め輪の中心にいたが、それでも私とはよく二人でいてくれた。今でも彼が無邪気に笑う横顔は鮮明に思い出せる。ツンとした猫のような鼻、可愛い八重歯を見せて笑う彼の横顔。その素敵な横顔を一番間近で見られることに、私は密かに優越感を覚えていた。私は彼を特別に好いていたし、ヘルマンも、私によく懐いていたと思う。私は彼を独り占めしたいとよく思ったものだ。
彼は貴族として自分にレッテルを貼られることを忌避しているらしく、言葉遣いや身嗜みは上品だったが、たまに少年のような無邪気さや無鉄砲さを見せる時があった。彼は案外詩や歌が好きなようだった。ヴェルレーヌやランボーの素晴らしさだとか語られても私にはちっとも分からなかったが、楽しそうな彼を見るのは好きなので放っておいた。
秋になり所属研究室を選ぶ際、偶然と私たちは同じカイザー教授の研究室になった。これは私たちが仲のいい友人だから同じ研究室を選んだ訳では無い。本当に偶然だ。配属決定の連絡が来て研究室に向かい、見知った顔がいた時は二人で声を上げて笑ったものだ。
「つくづく君とは縁があるな」
「私もそう思うよ、ヘルマン。でも君と研究が出来ることは嬉しい」
そう言うとヘルマンは照れくさそうに笑った。
研究室に配属されて暫く経った頃、茶色いジャケットを着た写真屋がやってきて、私たちの為の写真を撮ることになった。カイザー教授の伝え忘れのせいで私は何も聞かされていなかったから、着古した鼠色の薄汚れた作業着を着て、長い髪は緩い紐で纏められただけのだらしない格好だった。ヘルマンはストライプのジャケットに、よく糊の効いた真っ白なシャツを着ていた。私は作業で乱れた髪を軽く手で抑えたが、緩く纏めただけの髪はパラパラと額や項に落ちてきて、ヘルマンと対称的な自分の格好が恥ずかしかった。
「君だけで撮りなよ」私は顔を赤らめて言った。「写真は嫌いなんだ」
「君がいないと意味が無いだろ」
ヘルマンはそう言って笑い、私の肩を抱き寄せた。そうして私の解れた糸のような髪を耳にかけ、額に張り付いた前髪をそっと払った。私の作業着をジッと見て汚れを軽く叩き落とした。
「これでいい」
よくないよ、と私は言った。しかし時間に駆られている写真屋は促すように私たちを見つめていて、私はヘルマンに身体を押されるようにして二人で写真台の前に立った。
「君の写真嫌いは異常だな」
ヘルマンは写真を撮り終わった後そう言って笑った。私は顔を隠すように前髪を弄り、「目立つから本当に嫌なんだ。……」と言った。するとヘルマンはきょとんとして「目立つのは良いことだろう」と言った。
「いいかいアルヴァ」彼は私に顔を近づけて言った。「容姿は君の印象を決める一番の武器なんだ。君なんかは上背があるから迫力があって見える。折角だからもっと堂々としていればいい。私ならそうしてる。……服ももっといいのを着た方がいい。自分の容姿に無頓着だと相手の印象を悪くするんだ。君は折角の美男子なんだから自分をもっと魅力的に見せる方法を探した方がいい」
「僕は美男子なんかじゃ。……と言うよりも、そんなこと言われたって私には分からないよ。君は詳しいんだろうけど。……」
「そうか」ヘルマンはそれだけ言って暫く黙ってしまった。私は何か彼の機嫌を損ねたのだろうか?心配になって彼の顔を覗き込むと、ヘルマンは素晴らしいアイディアでも思いついたように、ニッコリと私に笑いかけた。
「アルヴァ、この後は空いてる?」
私はきっと、今日は帰るのが遅くなるだろうと思った。
その後私はヘルマンに連れられ、私は数時間百貨店や街に連れ出された。私はそう言った賑やかな場所はあまり好き好んで行かなかったから、ヘルマンに犬のように引っ張られるままだった。彼はこう言った人や店が集まる場所が好きだから、一人だけやたら楽しそうに「君にはこんな服が似合うんじゃないかな」だとか「私はこういう服が好きだけど、君は?」とか言ってはしゃいでいた。私はもう疲れて、公園のベンチに座ってるから、君一人で行ってくれば?だなんて言ったが、ヘルマンは「老人みたいだな。今日は君の日なんだから」と言って聞かなかった。結局服を一式揃えるだけなのに、昼から夕方までかかってしまった。
「最後は香水かな」ヘルマンはそう言って私の手を引き、化粧品の香水売場に連れて行こうとした。私は正直な話もうウンザリとしていた。ヘルマンは前から買い物好き(と言うよりも浪費癖だ)なのだが、それに付き合わされるのはいつも私だった。
「待ってくれ」私はぐったりとして言った。「香水なんか買うのか?」
「もちろん。香りも身嗜みのひとつだろう」
確かに、いつも彼の項あたりからは甘くツンとするような匂いがした。その事を尋ねると、彼は「ウビガンの新作の香水だよ」と言ったが、香水なんて洒落ているものは私はからきしだったから、少し喋った後には香水の名前を度忘れしてしまった。
「アルヴァもつけるかい」とヘルマンは言ったが、私に香水なんてものは似合わないような気がした。それにヘルマンの香りはヘルマンのものであり、私が付けるのは何となく気が引けた。私が曖昧に笑って「香水なんて私には似合わないよ。それに高いし。……君みたいに華やかな人が付けるのは素敵だけどね」と断ると、呆れたようにヘルマンは大きなため息をついた。まるで分かっていない、とでも言うようだった。
「君はどういう印象を人に与えたい?それくらいはあるだろう?」
「えっと、……そうだな、あまり悪目立ちしすぎないで……真面目で誠実に見られたいかもね」
「それは今の君の人柄だろうけど、分かったよ。そういう印象の匂いを一緒に探そう」
私が反論しないから、一人で決めてしまうのは彼の悪い癖だ。別に欲しいとは一言も言っていないのにと思いながら、私は彼と一緒に、生まれて初めて香水売場に足を踏み入れることにした。
私は彼に引っ張られて、フランスやイタリアの香水だとかの匂いを嗅いでまわったが、正直どれがいいなんかは分からない。しかしヘルマンの偉いところは、私のそう言う正直な無知を、笑ったり否定せず受け入れるところだ。一時間ほどそうしていると嗅覚が疲れてしまって、私はぐったりとして、休憩場のソファに座り込んでしまった。
「何かいいのはあった?」
「正直どれがいいかなんて分からないよ。どれもいい匂いだし、やっぱり私には香水なんて似合わない気がする」
「さっきのイリスの匂いは君にあってたと思うけど」ヘルマンは言った。「君が好きで付けたいと思わないと意味が無いからね」
じゃあ、と私が言うと、彼は答えを促すようにジッと見つめた。
「君と一緒のでもいいかい。……」
「僕と一緒の?」
「うん……」
ヘルマンは正直呆気にとられたようだった。まさか散々時間をとって色々なものを見たのに、自分と同じ、嗅ぎ慣れた新鮮味のないものを選ぶと思っていなかったのだろう。私も確かにバニラだとかシナモンだとかタバコの葉だとか麝香猫の香囊だとか、色々興味をそそられるものはあったのだが、どれも自分の一部として身につけるのは妙な違和感があった。それならいっそ思い出として、彼の、ヘルマンの香りを持ち帰ろうと思った。
「気に入ったんなら買ってあげようか」
それはさすがに悪いよ、と私は断ったが、彼は既に店員を呼んで、購入する準備を始めていた。私はなんだか申し訳なくて隅に大人しく立っていたが、ヘルマンはなんでもないことのように「早めのクリスマスプレゼントだね」と笑っていた。
紙袋を大量に抱えた私たちは帰路に着いたが、折角だから私の家で、購入した服と香水を付けてみようということになった。それにヘルマンは帰り道の途中でケーキとコーヒーを買い、私の家に居座る気のようだった(これはいつものことだ)。
私たちが夕食代わりのナポレオンパイやフルーツタルトを食べながらしばらく喋っていると、ヘルマンが「そういえば折角買ったやつを着て見せてよ」と言った。私はすっかりそのことを忘れていて、口についたクリームを拭いながら「今?」と笑った。
「明日でもいいんじゃないかな。もう眠いよ、ヘルマンも疲れてるだろう」
「いいじゃないか。一番最初に見たいんだ」
彼は甘えるように机に凭れ、上目で私を見ながら言った。結局流されて私はもう出かけないのに着替えることになった。私一人では付け方が分からないものは、ヘルマンがああだこうだと指導しながら着替えさせてくれた。いつも私ばかりが彼の面倒を見ているから、こうして私の面倒を見られる時のヘルマンはどこか得意げだった。
「最後は香水だね」
「もう寝るのにつけるの?」
「勿論!君、絶対学校なんかにつけてこないだろ」
図星をつかれた私は苦く笑うと、「項を出してご覧」とヘルマンが言った。
「首に付けるものなのかい」
「そうすると香りがよく立つんだ」
彼は私の後ろにしゃがみこみ、背中に垂らした私の毛束にそっと触れた。
私は言われるがまま、ゆっくりと長い髪を左右に分け、彼の眼前に私の無防備な首筋を晒した。私はなんだか落ち着かなくてちらちらとヘルマンを横目で見ていたが、彼に「大人しくして」と言われてしまった。
彼の熱い吐息が項にかかった途端、私はビクッと背筋が震えるのがわかった。彼は私の頚椎の形を確かめるように、私の後れ毛の生え際から、ゆっくり指を這わせていった。その仕草が、恋人の肌を愛撫するような丁寧さを持っていて、何だか部屋全体が妙に熱っぽい湿り気を帯びている気がした。
ヘルマンの熱い手。………それが首を縊るように私の首を掴んだ。私の喉仏、鎖骨の窪みに触れた。どうして恋人同士のように甘ったるく火照ったような手つきで私に触れるのだろう。私が彼に抱いている愛情が、仄かに友情以上のものを帯びているということを、気づかせようとしているんじゃないか?
私はすっかりこの熱に当てられていたが、その時の私は、それを彼に察されてはいけないと思っていた。だから平静どおりの顔をしていたが、頭がぼんやりとして何も考えられなかった。
「綺麗な首だね」
彼はそう囁いた。この薄暗い書庫には私たち二人しかいないのに、誰にも聞こえないような秘密を共有するようだった。私は軽く笑おうとしたが、頬が引き攣ったように火照ってしまって動かせなかった。
そうしてシュッというスプレーの音と冷たい霧が首筋に降りかかる感覚がして、ベルガモットとアンバー、クマリンの甘い香りがふんわりと漂った。
キスをするようにヘルマンが唇を近づけ、彼の高い鼻筋が私の項にチョンと触れた。そうして息を深くゆっくりと吸い込む熱い音がした。彼は私の耳朶を後ろからそっと擽り、そうして最後に、私の項から肩までを手の平で優しく撫でる。
「君に似合ってるよ」……とヘルマンは言った。「私と同じ匂いでよかった?」
「うん………」
私はその時催眠にでもかかったような妙な感覚を覚えていた。いつもは夏場でも冷んやりとしている私の肌は、忽ちカッと火照ったようになった。額に汗が滲んで頭の中が揺すられているようだった。
私は彼の胸に凭れ掛かるようにすると、彼は私の頭を、恋人にする愛撫のようにやさしく撫でるのだった。その庇護のようなやさしい行動に、私は今だけは彼の恋人であるような錯覚を覚えた。
彼の手つきに、安心感ではなく、他のもっと、少年期以来久しく感じていなかった、本能的なものが突き上げるのが分かった。……彼は私の手を握った。そうして指の間から指先までを何遍も触った。
少し前屈みになったせいで、少し乱れたリネンの白いシャツから、アイボリーの柔らかそうな胸元がはだけ見えていた。そこからは、僅かな汗の匂いとアプリコットのような肌の匂い、そして彼のお気に入りの香水の香りが混ざった、甘く強い匂いが漂っていた。私はそのすべすべとした彼の肌から目が離せなくなり──やがて彼のジッと見詰める視線に気が付き、私は慌てて顔を逸らした。今もまだ心臓がバクバクと激しく鳴っていた。
「本当に似合ってるよ」
彼は私の瞳を覗き込んだ。
「綺麗だ、アルヴァ」
「綺麗だなんて。……」
本当さ、とヘルマンが言った。彼は乱れた服のまま私に近寄った。そうして私の背中に凭れるように後ろから抱きついた。あのうっとりするような甘い匂いが身体いっぱいから広がる。頭が爆発してしまいそうだった。心臓が壊れるんじゃないかと思った。
「アルヴァ」
彼の甘く低い声が、耳の中に吹き込まれた。……私は導かれるように彼の方を振り向いた。
ヘルマンの綺麗な顔が私の間近にあった。彼はいつもの悪戯っぽく可愛らしい少年の目ではなかった。
声を上げる間もなく、唇に柔らかく熱いものが触れ、キスをされたのだと分かった。触れるだけのキスだ。唇が離れたあとも、その柔らかく、甘いペパーミントの匂いが余韻として残っていた。
彼は私の髪をそっと撫でた。
その後のことはあまり覚えていない。結局そのために買ったスーツは着なかった(このことに関してヘルマンはぶつくさと文句を言っていた)。後日渡された、現像された写真の中の私は、薄汚れた作業着を着て、オドオドとして自信無げに見えた。対して高級なスーツを着こなしたヘルマンはぴんと胸を張り、自信に満ち溢れた微笑を称えていた。彼は現像された写真を見ると私の肩を軽く叩き、「次撮る時はもっと堂々としてくれよ」と言った。彼はあの時のことには何も触れなかった。あのことに触れることは私も少し躊躇った。
やがて私は、あの時のことは白昼夢だと思い込むことにし、一瞬過った彼への特別な感情も、二度と思い出さないようにしようと決意した。
学部生、修士、博士時代はあっという間に終わった。彼は学部生時代からずっと『永久機関』というものの研究を行っていた。永久機関とは、こちらから何か作用させなくても永遠に外部に仕事し続ける装置のことだ。アルキメデスの無限螺旋などが有名だろうか。慣性の法則で言うと物体は永久に等速運動や直線運動をし続ける。しかしそれは外力が働かない時のみの場合だ。実際は空気抵抗などにより永久に外部に仕事をし続けることは不可能だと考えられていた。しかしヘルマンはそれに執心していた。
よく彼は「完璧な永久機関を完成させることが私の使命なんじゃないかと感じるんだ」と冗談交じりのように言っていたが、不可能な夢は彼を止めるどころか情熱を駆り立てたようだった。
カイザー教授はヘルマンの異常な執念にやや恐怖や不安を覚えていたようだった。彼はロマンチストと言えば聞こえはいいが、夢見がちで、情熱に駆られて実現しないロマンを追い求めてしまう嫌いがあった。誰しも生まれてきた意味があり、それを一生をかけ実現することが人生で、それが出来なければ生きる意味が無いと本気で信じているようだった。
私はよく教授に君がゼーマンのサポートをしてくれと頼まれていた。研究だけではなく私生活全てのサポートだ。彼は一度集中すると周囲や自分のことが疎かになり、飲食を忘れて没頭してしまう癖があった。一日中机に齧り付く彼のために、コーヒーを入れたりサンドイッチを作ったことが懐かしい。彼はよく「アルヴァは私の母親だね」と笑って言ったが、彼にそうして頼られることは満更でもなかった。
博士課程まで進む学生は少なく、大抵は親が勧める見合い結婚や、教授の推薦で企業に入社する者が殆どだった。ヘルマンはその気になれば新しい友人を作れただろうが、大学院に進学して以来私の他に親しくしている人はいないようだった。
そうして彼と一緒に私は博士過程を終了したが、彼の卒業論文は今までの研究は失敗続きであったため、永久機関についての憶測や展望のみのものだった。私も彼の発表の場にはこっそり参加していたが、彼の口から一向に成果が話されないことに、聴講していた教授たちは呆れているようだった。
「卒業後に起業するって言っても、成果が出ないんだろう」
「主な事業とは別に、研究は続けるつもりです!」ヘルマンは熱っぽく反論した。「それこそ成果が出るまで」
教授達は言葉が出ないようだった。質問した教授ははあ、と溜息をつき、ヘルマンの卒業発表は終った。帰路のヘルマンは珍しく苛ついているようだった。
「なんで誰も理解してくれないんだ。私はただこの世界をよりよくしたいだけなのに」彼はそう吐き捨てた。「馬鹿ばっかりだ、僕と君以外」
そう言うと彼は私の肩を抱いて「君のアパートで飲もう、アルヴァ」と荒っぽく吐き捨てた。彼の気持ちはわからなくもない。大学生活全ての研究を『成果が出ていない』だけの一言で嘲笑されたのだ。同じ学生の身分として、彼の苛つく気持ちは痛いほど分かった。
前述したが当時の私はあまり生活が豊かな方ではなかった。アパートは木造で床が軋み、薄暗い廊下は申し訳程度の光が照らしているだけだった。ドアを開けて少し行くとキッチンとユニットバスがあり、奥にある狭いダイニングは男ふたりが座ると窮屈になった。
「なんでいつも私のアパートなんだい。ヘルマンの家の方が大きいだろう」
「君のアパートの方が落ち着くから好きなんだ」
彼はわざとらしい明るい声で「話はシャンパンの後だ」と言って袋からシャンパン瓶を取り出した。自分の奢りだと言って買った、私には手が届かない額のシャンパンだ。
「私たちの未来に」
にやりと笑ってヘルマンはグラスを掲げた。私もつられてくすくすと笑い、控えめにグラスを鳴らしてそれを飲み込んだ。
「すごい美味しいよ」
「そうだろう?」彼は自慢げにふふんと笑う。「せっかく君と卒業できるんだ。奮発しないとね」
「こんないいシャンパン、私なら絶対飲めなかった。ありがとう、ヘルマン」
私が笑顔でそう言うと、ヘルマンは照れたように「そんなに喜んでくれたら私も嬉しいよ」と笑った。
その後は取り留めもない話をした。酔いが回ってきたのか彼はいつもより饒舌になり、大学時代の馬鹿話や研究に耽った思い出などを語った。9年近くも大学にいると話すことが尽きなかった。私は彼の言うこと全てにけらけらと笑い、ヘルマンの語りぶりに涙が出るほどだった。
夜も深けた頃に、彼は急に真面目腐った様子で静かにこう言った。
「君は卒業後はどうするんだい」
「私か?」少し考えて言う。「地元に帰るつもりはないから、こっちで仕事を探すよ。人と関わることは苦手だから少人数でできる研究職とかがいいかな。カイザー教授の知り合いに、電気系の会社をやっている社長がいるんだ。運が良ければそこに勤めさせてもらえるかもしれない」
ヘルマンは起業だろう?そう言うと、彼は溜息をついて額に手を寄せた。そうした後、呟くように「君と一緒がいいと言ったら困るか?」と言った。
私は曖昧な笑みを浮かべて彼を見つめた。冗談だと思ったのだ。しかしヘルマンはじっと上目で私を見つめて押し黙っていた。
「本気で言っているのか?」
「私はいつだって本気さ」彼はムキになったように言った。「大学時代は君がいつだって横にいてくれた。君がいてくれないと私は何も出来なかった」
「私を横にいさせてくれたのは君じゃないか。君は私よりずっと社交的なのに」
「君じゃないと駄目なんだ!」
いきなり声を荒らげたものだから、思わず身体がビクッと震えた。彼ははっと我に返ったのか、「大声を出して悪かった」と罰が悪そうに言った。
「君だけなんだ、私を見捨てないでいてくれるのは。……」
彼は私の手を熱く汗ばんだ手で強く握り、瞳を覗き込むように顔を近づけた。彼のヘーゼルグリーンの瞳が熱っぽく潤んでいた。
「誰も私や私の研究を馬鹿にする。成果が出ないものに時間と金を費やすのは無駄だと言う。つまらない連中さ。…………理想のない人生に生きている意味などない。君にすら私を否定されたら、この世で誰が私のことを理解してくれる?君しかいないんだ、私を理解しているのは。………」
感情的に訴える声は震えていた。彼はそう言い終わると俯いてしまい、背中が幽かに震え、頬からぽたりと涙が零れるのが見えた。私は何と言えばいいか分からず、その背中を遠慮がちに摩ることしか出来なかった。彼は縋るように私の手を強く握って頬擦りをする。彼の熱い涙が掌に染み込むようだった。
「ヘルマン、………泣かないでくれ。君に泣かれるとどうしたらいいか分からないんだ。……」
「ああ、アルヴァ。………」俯いたまま小さく言う。「君は優しいね。出会った時から」
「優しいのは君の方だよ。私にビアンキ恒等式を教えてくれた」
そう言うと彼は涙混じりの声でふふっと笑った。ようやく上げた彼の顔は、涙や鼻水でドロドロになっていて、美男子が台無しになっていた。私はその顔を白いハンカチで拭ってやると、甘えるように彼は目を閉じた。その様子が子供みたいで思わず笑ってしまう。
「君がいないと、私は涙を拭くことも出来ないよ」
「本当にね!」思わず吹き出すと、ヘルマンもつられたように声を出して笑った。
そうして夜も更けると、ヘルマンは今更申し訳なさそうに「泊まってもいい?」と尋ねてきた。もちろん断る訳がない。もう冬も終わりだと言うのに、窓の外では雪が降っていた。酔いが回ってきた私たちは、ピッタリと暖を取る動物みたいに寄り添って、何がおかしいのか目が合う度にクスクスと笑っていた。薪暖房があるから寒くは無いはずなのに、ヘルマンは私の肩にしなだれかかり、私の長い髪を指先で弄っていた。
「こんな日がずっと続けばいいのに」
彼はふとそう言った。彼の目は熱く潤んでいた。最初はそれはアルコールによるものだろうと思っていたが、彼が鼻を啜る音がして、彼が涙ぐんでいるのだと分かった。
「君、泣いてるのかい」
「ごめん」彼は涙声で言う。「君とももう離れると思うと、寂しくて。……」
「卒業まであと一ヶ月くらいあるのに!」
私は彼を慰めようと笑ってそう言ったが、彼の目は以前子ウサギのように涙が滲んでいた。私は困ってしまって、子供にするように、彼をそっと抱き締めて「大丈夫だから」……と囁いた。
「卒業してからも一緒だよな?」
「もちろん。……」彼をあやす様に言った。「ずっと一緒さ、ヘルマン。……」
「僕は不安なんだ」私の胸に縋りながら、彼が言った(ヘルマンは気を抜くと自分のことを『僕』と呼ぶ、少々可愛らしい癖があった)。
「誰もが私を見捨てるんじゃないかって。昔からずっと、誰も私のことを理解してくれないと思っていた。だけどアルヴァ、君が私の前に現れてくれて、私の世界は変わったんだ。君しか僕を理解してくれる人はいない」
そう言って私を強く抱き締めた。迷子の子供が、ようやく親を見つけて『もうはぐれないぞ』と言っているようだった。
「君に話してないことがあるんだ」
ヘルマンはやおらそう言った。私はなんだかドキッとした。彼がそう言って話を切り出すのは大概いい知らせではない。私が彼をじっと見詰めると、彼は気まずそうに目を逸らして言った。
「両親から、見合いの話が出て来て……」
「見合い?」
私は驚いて大きな声で言った。
「君、結婚するの?」
「まだ決まったわけじゃない!」
ヘルマンは叫ぶように言ったが、やがて苦々しい顔で「今はまだ……だけど、卒業後にもしかしたら。両親がやたら乗り気で……相手が貴族なんだ。きっと金目当てさ」
「そんなこと言ったらいけないよ」
「君はそんなこと言えるけど、その場にいたら言いたくもなるさ!両親は目をギラギラさせてご機嫌取り。勝手に話を進めて僕の話なんて聞いてもくれない。興味があるのは、相手の身につけた宝石や真珠や身分だけさ」
彼は大きく溜息をついて「結婚なんてしたくない」と言った。
「結婚なんてしたら、今やっている研究も出来なくなる。起業の話も打ち切りだ。相手はもう、子供は何人欲しいとか、そんな話までしてるんだぜ!僕の意思なんて無視して。……子供が欲しいなんて僕は思ってない。子供は嫌いじゃないけど、自分の時間が欲しい。ずっと君と一緒に研究をしていたい……」
彼は縋るような瞳でこちらを見た。一緒に逃げてくれと言っているようだった。彼の言うことは分かる。若すぎる私たちには、結婚はどこか遠い事のように感じた。しかし私は平民の生まれで、彼は貴族の生まれだった。私には私の人生があり、彼には彼の、持って生まれた育ちの運命というものがあるのだろう。彼の力になりたくてもなれないことは辛かった。
「ああ、ずっと学生でいたいな」
彼はため息をついて言った。「君との大学生活は本当に楽しかった。結婚するのが君だったらいいのに」
「ヘルマン、そんなこと……」
「本気だよ」
ヘルマンは言った。
「君が私のものならいいのに」
酔いすぎだよ、と言おうとしたが、彼は至って真剣な眼差しをしていた。あの時と同じだ。……私はそう思った。この瞬間、動物電気というものは実際に存在するのではないかと思った。……彼の視線はビリビリと痺れるようだった。彼の視線は、たまに炯々として凄まじい時があった。その強い視線に射竦められると、動けなくなるくらい、ゾッとする時があった。
彼の手が私の頬を撫でる。私は思わず目をギュッと瞑ると、ヘルマンが微かに笑う声が聞こえた。彼の睫毛が私の下瞼に触れるかすかな感触がする。ヘルマンの息からはシャンパーニュの甘酸っぱい香りがして、彼の吐息を吸い込む度に頭がくらくらとした。委ねてしまおうか。……私はすっかり彼に身体を凭れさせ、私の髪を愛撫するヘルマンの心臓の音を聞いていた。
彼は私をベッドに押し倒した。彼の影が私を覆う。手首を掴まれて抵抗出来なくなる。
「キスしてもいいかい」私たち二人しかこの場にいないのに、囁くようにヘルマンは言った。いいよ、だなんて言える訳がない。彼の視線で石になってしまったように身体は動かないのに、首筋や胸が矢鱈と火照って汗ばんでいた。
「駄目?」
……ヘルマンは少し甘えるような口調でそう尋ねた。何が、だなんてことは私にはわかった。彼にはどうせ私が断れないことなんて分かっているのに。ヘルマンの舌が私の唇をゆっくりと舐める。私はキュッと口を閉ざしていたが、少し開いた唇の間からぬるりと柔らかい舌が入り込み、そこからの籠絡はあっという間だった。彼の舌で歯茎や上顎をなぞられ、舌を優しく吸われると、背筋がゾクゾクと震えた。彼はそんな私の身体をぎゅっと抱き締める。ヘルマンの髪や身体からは、香水と煙草と体臭が混ざった独特の香りがした。彼の腕の中は熱く火照っていて、私の背中に添えられた腕が腰へと下がっていく。その羽根で撫でるような手つきに身を捩ると、彼は余計に興奮したように口付けを深くした。頭がぼんやりして何も考えられなくなり、このままぬるま湯に浮かぶような心地良さに身を任せてしまいそうになる。ヘルマンの手が私の髪を撫でる。女性のように長い髪だが、彼は綺麗だとよく褒めてくれた。その子供をあやす様な手つきとは裏腹に、お互いの甘い唾液が混ざり合うような激しいキスに、私は為す術もなく翻弄されていた。彼の熱い唾液や吐息も不思議と甘く感じた。
漸くヘルマンは口を離すと、ぷはっと情けない息継ぎをしている私を見て、赤らんだ顔で笑った。
「可愛いな、アルヴァ」
「急に、何するんだ……」
「君とずっとこうしたかったんだ」ヘルマンは私の頬をそっと撫でて、額を合わせて言った。うっとりとしたような瞳の奥には、確かな情欲が灯っていた。「アルヴァは嫌だった?」
ずっと? ずっと前から、私とこうしたかったというのだろうか………私が顔を伏せて何も言わないのを見ると、彼はうっとりとして私の首筋に頬ずりをした。
「あの時の香水、つけてくれてるのかい」
私の首筋に、熱い息を当てるようにして言った。腰が痺れるような感覚が走った。私は朦朧としたように頷くと、ヘルマンは「嬉しい」と笑った。
「ここから同じ匂いがするね」
「君に……教えてもらったから」
「だろうね」
彼は薄く笑うと、私のベストのボタンを外し、シャツ一枚越しに、私の腹や腰にそっと触れた。それだけの動作に、大仰なくらい身体を跳ねさせる。私の荒い息を吸い込むように、彼は私を見つめ、キスをした。唇同士の触れ合いがこんなものだなんて知らなかった。私が知ってるキスは、もっとやさしくて、穏やかで、……私は恐ろしくなった。
やめてくれ、という言葉は吸い込まれて消えていった。私はヘルマンの胸を押し戻そうとしたが、それがねだっているように感じたのか、彼は私をより一層強く抱きしめる。私は必死で彼を突き飛ばすようにした。
「ヘルマン、嫌だ!」
彼は驚いたようだった。突き飛ばされたヘルマンは床に倒れ込み、目を見開いて私を見ていた。私は思わず「ごめん」と言い、ヘルマンの方に近寄ろうとしたが、彼は私が差し出した手を払い除けた。その激しい仕草に私は少し胸が痛んだ。
私たちは気まずく目を逸らし、しばらく無言のうちに相手の様子を伺っていた。二人の熱を包み込んだ沈黙は、やがて冷たい静謐に変わっていった。
「すまなかった、アルヴァ。君も……私と同じ気持ちかと思ったんだ。君を傷つけたくなかったのに、私は君に酷いことをしてしまった」
同じ気持ちって? ……そう尋ねようとしたが、私は答えを聞くのが怖かった。もし、私の考えているものと同じ──もしくは全く違ったとしても、その時の私には、それを受け止める強さはなかった。彼は罪悪感に押し潰されたように視線を逸らした。やがて、彼は無言のまま、部屋を出ていった。
許してくれ、…………そう呟く声が聞こえた。窓の外では雪が降りしきっていた。机の上には先程のグラスが二つ残っていて、中にはまだ飲みかけのシャンパーニュが残っていた。それを見ると私は無性に泣きたくなってしまった。
私は自分が恥ずかしくて堪らなかった。実の所、私は嫌ではなかったのだ。彼の好意は嫌という程知っていたけど、それは結局友愛、兄弟愛のようなものの域を出ないだろうと思っていて、私のものとは違うと勝手に信じていた。彼が私を押し倒した時、私が彼に抱く感情という同じものを抱いてくれていると思った。私が彼に抱いていた感情が肯定されたような気がしていた。ひどい自惚れだ。
結局その後卒業まで彼と話すことはあまりなかった。私は卒業後どうするかをカイザー教授に尋ねられたとき、ヘルマンの縋るような顔が頭を過った。しかし私は「まだ決まっていないです」と言った。彼がその場にいたらなんと言っただろうか。私を非難しただろうか。
卒業後の二年間、彼から連絡はなかった。彼はたまに連絡を寄越したが、『子供が出来た』という連絡以降、やがて無くなった。私はお祝いとしてささやかな餞別を送ったが、彼から返事は無かった。