紫のアネモネとドッグタグ「──撤退しよう。一旦本拠地に戻って、作戦練り直す。お前は救護室に行って」
「っ、私はまだ、」
「撤退。隊長命令に歯向かうの?」
すでにボロボロな体で両脇から肩を支えられていてもなお抗おうとする部下に背を向け、隊長の意味を持つ胸章を携えた男は、まだ辛うじて自分の足で立てる隊員達に指示を始めた。
歯向かえる訳ないでしょうが、と怒りを滲ませるか細い声は、背後から叫んでいる救護隊員の声によって、掻き消される。
男の緋色の髪と背後の燃え盛る炎が色を重ねる。光を映さない眼は、部下のカーキの軍服から染み、滴り地に溜まる血と同じ色をしていた。
* *******
「容態はどう?」
「右腕骨折、左足首銃弾貫通が主です。命に支障はないですが、しばらく戦地に赴くことは出来ないかと。担ぎ込まれてすぐ意識を失ってから、それから一度も目を覚ましていません」
「……そう」
目の前の救護ベッドで静かに寝息を立てる部下を一瞥し、男は隣に立つ軍医に視線を向ける。カルテに書き込まれた怪我の詳細を横目で見ると、その怪我に至った理由は、近くで戦っていた男にも心当たりのあるものばかりであった。
先の戦争相手であるI国との戦争は、開始してから年単位の刻が過ぎていた。
日を追う毎に激戦が相次ぎ、戦死する者、怪我により戦線離脱を余儀なくされる者が後を絶たない。ベッドの横に立つ男のように支えもなく立てる者は日に日に減る一方で、全面降伏も目前かと囁かれており、兵士達の士気も降下の一途を辿っていた。
男に常に付き従い、丁寧な口調で憎まれ口を叩きつつも互いに背中を預けても良いと思うぐらい信頼はしていた部下の戦力外通告は、思っていた以上に重くのし掛かる。
というのも、戦地から一度撤退して戻って来るや否や、本拠地で座す司令官に呼ばれ、ある命令を下されたのだ。
もし万が一にも部下が動ける体であれば、任務遂行の為に連れ出そうと、自分の部屋に戻る前にこの病室に立ち寄った。
しかし、出発は明日の早朝。今の様子を見る限り目が覚めても、一人で歩くことさえ無理だろうと軍医も首を横に振る。男は再び部下に向き直り、先程課された任務を脳内で反芻する。
命令内容は、単純明快。単独で敵中枢へ講話する呈での特攻で、自爆して一でも多く数を減らすことであった。男は現在務める小隊長以上の能力はあるものの貧しい家から軍人に上がってきた為、これ以上地位が上がることはない。しかし、とにかく勤勉で影で努力を重ね、人付き合いの良い笑顔と懐っこい性格は部下からの信頼も厚く、この戦争でも着々と戦禍を積んでいた。
それ故、金とコネで乱れる上層部にとってこの男の存在は異端であり、邪魔だった。今回の命令も、中途半端な地位で動かしやすい上に体よく彼が居なくなればという厄介払いも含まれているのだ。
男もそのことは重々承知しているが、そこで拒否の一言でも言えばその場で自分の首が飛ぶことが分かり、言葉を飲み込んだ。
一番信頼できる部下もおらず、文字通りの単独で命令を遂行できる確率はほとんどない。ここで自信を持てるならば、今の戦争でこんなに圧されている訳がないのだ。
「……起きてよ」
寝ている相手にも関わらず無意識に命令してしまい、言い終わってから手で口を覆う。しかし、本能か偶然か、死んだように動かず眠っていたはずの部下の瞼がふるりと震え、そのままゆっくりと開かれた。軍医も、呼んだ張本人の男さえも驚き、周りを見回して恐らくまだ現状が理解していないであろう部下の様子を窺う。
そして、ようやく思い出したようで、何かを言おうとしたのか口を開いて上体を起こそうとするが、そこから放たれたのは痛みによる呻き声であり、軍医が慌てて宥めにかかった。黒の横髪が目にかかったのを手で払う。
「……今の戦線は?」
支えられながらも振り絞ったであろう掠れ声の内容は、男への謝罪でも罵倒でもなく状況確認であった。
一瞬にして青灰の瞳に勝利への執着を見せる炎を宿す。そこに戦争への萎縮、怪我への恐怖は一切ない。
戦地では感情を殺せと常に隊員に説いていた自分の意志が継がれていることに少々嬉しさも交えながらも、男は戦況を、そして自身に課された命の行く先を伝えると、部下はベッドから身を出そうとし、軍医に慌てて止められた。
「私も、」
「その傷じゃ足手まといだから、連れていかないよ。大人しくここで待ってて」
「っ……本当に、一人で行くんですか」
「手負いじゃないお前以外に、背中預けられる人がいないから。仕方ないよ」
男の言葉に部下は複雑そうな表情を浮かべるが、紛れもない事実であり、それが本心であることは一番近くで見てきた部下も分かっているだろう。
それでも納得していない様子に、男は見せつけるようわざとらしく大きな溜め息を吐き、両手を自分のうなじに回した。首から外れたチェーンを、そのまま部下の布団の上に投げる。
男は一人で解決したような顔をするが、部下は不可思議そうに眉をひそめていた。
「何、ですか、これ」
「何って、オレのドッグタグだよ。お前に預けておくから、お守りにでもして」
「は? 顔が判別出来ないぐらいむごい死に方したら、誰もあなただって分かりませんよ」
「……バカだなぁ」
はあ?と部下は凄むが男はどこ吹く風だというように表情を崩さない。それどころか部下が男の真意を分かっていない様子にやれやれと呆れた仕草をし、それを見て殴るぞといわんばかりの殺気を漂わせる。
正に一触即発となってもおかしくなかったが、それは両者共に健康体であれば、の話だった。
「オレがそんな簡単に死ぬわけないじゃん。きちんと決着つけて帰ってくるからさ」
その言葉に部下は何か言いたげに口を開くも、男の無線に受信を告げる音が鳴ったため、喉より先に出ることはなかった。無線を繋げるとそれは上層部からの呼び出しのようで、聞き慣れぬ敬語と声色で了解の返事をしている。
「ちゃんと治して、またオレに背中を預けさせてよ」
労りの言葉を最後に、男は足早に救護室から出て行く。軍医も奥へと引っ込み、部下は一人唇を噛み締め、閉められた扉を睨んでいた。
出発時刻まで残りわずか、荷物と地図を確認し男は自室を出る。いつ戦死するかも分からない状況で元より私物が即座に捨てきれない家具のみで構成された質素な部屋となるも、そのがらんどうな部屋に何か特別な思いを持っている訳でもなく、リュックを背負って後にする。
廊下を歩くが、左右に連なる扉の奥からは物音一つ聞こえない。通常ならばこの時間でも騒いでる声が、或いはいびきなんかも聞こえてくるが、部屋の持ち主達はまだ己の体を張って前線を駆け抜けているか、とうに散らしているだろう。
悲しいという感情は感じられなかったが、足を進める度に後ろ髪引かれる気持ちが大きくなっていく。
それでも男は前を向き、いよいよ玄関に到着した。ガラス扉の奥ではすでに車が一台待機しており、兵士二人が敬礼して出迎えていた。一瞬、救護室で寝ている部下のことが頭をよぎったが、ひとたび外に出たらもう戦地だと言ってもおかしくない。
戦場では敵を見ることで精一杯だ、置いていく味方を思い出す程度の集中力では、死ぬ。
男はゆっくりと扉を開けた。歩く度に肌に触れて存在感を表していた自分の名は、もう捨てたことさえも忘れていた。
「──待ってください!」
静かな空気を割いた声は、聞き覚えがあるもののこんなに張りのあるものだっただろうか。少々逸れた疑問を持ちながらも男は振り向く。
声の持ち主は、軍医と松葉杖の支えを借りてゆっくり歩を進めていた。そこに駆け寄ると、今まで見てきた中でもとりわけ一番の不機嫌顔を見せる。
「あなたって人は……何も言わずに出て行こうとしたんですか!?」
「だから、死にに行く訳じゃないんだから。ちょっとだけ、いい子にしてて」
「……はあ。これ、道中暇でしょうから」
部下の合図で軍医から手渡されたのは、詩集と紫のアネモネが挟まった栞だった。早速中を開こうとするも「今は見ないでください」と釘を刺され、大人しく従って背負っていたリュックにしまう。
「詩集は戦場には邪魔でしょうから、車内に置いてってください。そんな大層なものでもないですし……栞は、まあ、ドッグタグを貰っただけなのも居心地悪かったので」
暗に栞は身につけておいてほしいということなのだろう。遠回しな部下の言い回しに、男は苦笑いしながらも小さく頷き、空を仰ぐ。
もうこの場にいられる時間は僅かだった。
「行ってくるね」
男はくしゃりと部下の髪の毛を撫で、柔らかく微笑んでから車の方へ足を向ける。
大声の罵倒が一つ飛ぶかと思ったが、返ってきたのは至ってシンプルな言葉であった。
「待ってますよ、──さん」
* *******
「イオリ、ちょっといいか」
一小隊の隊長を担っていた男に、部下として付き従っていた男、イオリ。
二人が所属していた軍の本拠地は、あの約束を交わした数週間後には火の海となり、本国の無条件降伏で戦争は幕を閉じた。
当時ある程度回復したイオリは培ってきた勘を見事に当て、戦火に巻き込まれる前に、中立国として一切戦争に加担しておらず、唯一の肉親が暮らしているはずの隣国まで亡命した。覚束ない身体を支えながら共に逃亡していた軍医は、入る直前ではぐれてしまい、その後の行方は分からない。風の噂では、ドッグタグを噛んだ白衣の男の死体が、はぐれた場所の付近で見かけたとのことだった。
奇跡的に亡命先として選んだ地方で、実兄であるミツキと再会することが出来、すっかり体も完治したイオリはその国の軍人──にはならず、兄が営む輸出業を手伝っていた。
「兄さん、どうしましたか」
「今日の仕分け表なんだけどさ、最初の客対応任せてもいいか? ここ数日バタついててさ」
「分かりました。任せてください」
勢いよく振り向き黒髪を揺らしたイオリの首元で、カチッと二枚のドッグタグがぶつかって音を鳴らす。
今も毎日付けているその二枚にイオリという文字はない。刻印されている名前は、軍属の為に入国する際に作った仮名であったからだ。
元いた国が傀儡国となり早二年が経つものの、その意味のない、軍人ではない者には必要ないはずの未だ毎日付けていることにたまにミツキや周りの人間に問われることもしばしある。しかし、イオリはきまって、慣れてしまって落ち着かないから外してない、と常套句を返していた。
その含まれた意味に気づくのは、持ち主のイオリと、行方知らずの男だけだろう。
もう一枚のドッグタグの元持ち主は、あれからイオリがいくら情報を探しても一切出てくることはなく、生死さえも分からなかった。
しかし、イオリは死んでないだろうと見込んでいる。いつか再び相見えた時に、長い時間待たせたことへの罵声をどうするか、心の中で並べシミュレーションすることも彼の日課の一つであった。
今日の自身に割り当てられた仕事を確認すると、初めて、この生活に変わることになった元凶であるI国の名前が連なる。恐らく今まではミツキが意図的にイオリの目に入ることを避けて割り振ってくれていたのだろうが、ここところ特に忙殺されていたようで、そこまで手が回らなかったのだろう。その優しさに今更気づき、イオリは自分自身に呆れながらもこっそりと口角を上げる。
輸出するものは最新の物から長らく親しまれている銃、銃弾、手榴弾、携帯食料──相手は軍人らしいことに気が付く。イオリが軍人時代に愛用していたものが多く、目についた。
しかし、その物騒なラインナップの中、一際可愛らしい名があり、イオリは思わずその文字を愛しそうに撫でる。
「紫のアネモネ、か……」
木枯らしが吹くこの時期に株を注文するのはよくあることだが、戦時中だと人を殺すことが当たり前である軍人が、花を育てるという事実が割と異色に感じてしまい、一人苦笑する。
昔、己が死んだら花の面倒を見る者はいなくなるからお勧めしないよ、と同じ色のアネモネで作った栞を渡した探し人に言われたのを、思い出す。
「今日の相手、I国、ナナセさんというのか……午前一番にわざわざ他国まで来るなんて。早く積み荷の準備をしないと」
引き渡す相手の名前まで確認してからようやく立ち上がり、倉庫へ荷物の搬入へ向かった。ミツキの手で予め荷物を纏める準備はすでに済んでいたらしい、一ヶ所に纏めて置かれている。
銃などの武器が入った箱を丁寧だけど迅速に、次々と運んで、最後にアネモネの株の植木鉢を持ち上げる。まだ芽の状態だが、きちんと育てればきっと次春には綺麗に咲くだろう。
ちょうどアネモネの株も指定の場所まで運び終わったところで、倉庫の裏から兄に呼ばれた声が聞こえ急ぎ足でそちらに駆け寄る。
「すみません、遅れました」
「いいよいいよ! リク、ほらイオリだよ」
相手の顔を見る前に反射的に頭を下げたため、視界の上部が隠れ、リクと呼ばれた男の顔は見えていなかった。
「怪我、治ってんじゃん」
えっ、と咄嗟に口から漏れた頓狂な声に羞恥心を覚えつつも、イオリは顔を上げる。
そこには、自分の記憶より少し大人びた顔があった。
「なに、して……」
「久々の再会で開口一番がそれ? ドッグタグ返してもらいに来たんだけど……大切にしてくれてたんだ」
とんと自分の首を指したことで、ようやくドッグタグを付けていたことに気が付いたイオリは、反射的に自分の首に掛けていたドッグタグを二つ握り締める。
「でも、さっき名簿にナナセリクって……名前、違うじゃないですか。もういらないでしょう」
「あー、もう聞いてよ! 任務であっち行って暴れてたらI国の最高司令官が拾ってくれてさ、もうこのまま丸腰で帰っても殺されるだけだし、それならって寝返ることにしたんだよね。バレないように名前も変えてさ」
「はあ……」
「それでさ、そのままとんぼ返りで本拠地攻めながらお前拾って行こって思ったら救護室空っぽだし。まさかいつも物資調達でお世話になってるミツキの弟だと思わなかったから、見つけるのにかなり時間かかったよ」
「俺も、リクがずっと人を捜してるとは聞いたけど、まさかイオリのことだとは思わなくてさあ。ほら、I国相手だとイオリもいい気がしないだろうしさ」
リクとミツキの言葉で、イオリは合点がいったように頷く。
「……ああ、見事すれ違ってましたね。お互いに名前変えてしまっていたから情報が出てこなかった、と。それで、今日ようやく兄さん伝いで顔を合わせられたってことなんですね……」
「そうそう! てか、そのずっと守っててくれたドッグタグ、受け取るよ」
「って、適当なこと言わないでください。今日偶然付けていただけで……」
「え、でもイオリ、毎日付けてるじゃん。外したら落ち着かないって、」
「兄さん言わなくていいです!」
ミツキの暴露から明らかに顔を綻ばせたリクに向かって、イオリは見せつけるように大きい溜め息を溢し、定位置であった首のドッグタグを外して投げる。リクは懐かしい、と呟きキャッチしたドッグタグをポケットに入れた。彼のうなじには先ほど投げたものと少し違う色のチェーンが巻かれており、あの時とはもう何もかもが違うのだと悟る。
自分は軍人を辞めて輸出業の手伝いをしているが、相手は現役の軍人だ。背中を預けたいと言われたのも過去の話で、今のイオリにはその願いを叶えられないことであると目の当たりにし、思わず目を逸らした。
「じゃ、行こっか! もう出る準備は出来てる?」
「は?」
「え?」
手を差し出したリクに、イオリはぽかんと訳が分からないといった表情を浮かべる。リクもイオリの反応に首を傾ける中、ミツキがあー、と何かを思い出したように声を上げた。
「……準備で忙しすぎてイオリに言うの忘れてた。これから俺、I国で直属の調達員として働くことになってさ。で、イオリはリクの下でまた軍人になってほしいって熱烈歓迎されてるみたいだけど……どうする?」
「……え」
「というか、ミツキから本当の名前はイオリだよって聞いちゃったから、もうイオリでドッグタグ作っちゃった! 無駄にしない……よね?」
「っあなたって人は……!」
昔と変わらない、懐っこい笑顔から放たれる悪びれのない無茶ぶりにイオリはわなわなと体を震わせ絶叫する。
「これからオレのことはリクって呼んでよ!」
「……よろしくお願いしますよ、ナナセさん」
「おい!」
こうして、二年越しに目まぐるしく状況が変わり目を白黒させたイオリは、結局リクの部下となり、再び軍属することとなる。
長らくイオリの首元で揺れていたドッグタグは、イオリという名で再びリクのドックタグと同じ色となっていた。
「そういえば、あのくれた栞、まだ使ってるよ」
「……あなたのドッグダグ返したので、さっさと栞を返してください」
「なんで上から目線なんだよ!?」
紫のアネモネの花言葉:あなたを信じて待ってます
END.
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ここまでお読みいただきありがとうございました。
冒頭にも記載した通り、過去ジャンルのリメイク作品です。当時のジャンルではブロマンス括りで見ていたため、本作も直接のCP表現は入れませんでした。
ただ、私自身はいおりくの民であるため、受け取り方によっては滲んで見える場合もあるかな…と思いフラウェではなくいおりくで記載した次第です。
そういう流れを期待されていた方がおりましたらすみません。再会した彼らがそうなっていく可能性もあるとお考えいただけましたら。
また、作品をリメイクするにあたって、違和感ないかな〜と黒あめさんにお願いして先読みでご確認いただいたんですが、そうしたら本作の三次創作イラストを誕生日プレゼントでいただきまして…
それもあり、今回許可を得てキービジュアルとして使わせていただきました。本当に本当にありがとうございます!
もう少し文字数あれば、いただいた絵を表紙裏表紙にして、自分用に刷りたいレベルで最高イラストで…読んだらイラストの意味が全て分かるんですよね、あのシーンかなみたいな…凄すぎる……
ちなみに推しポイントはイオリのサスペンダー胸筋です。元軍人現輸出業で鍛えているおかげで完成された体…!(細かい描写はなかったのに、そこまで汲み取っていただけてすごい)
あと陸の体付きを考えると持つならレイピアとか細身の剣だろうな…等々自作品なのにいただいたイラストから更に妄想が膨らみました…♪
是非、本作読んだ上でもう一度イラストをじっくり見ていただけましたら!最高~!