(スケッチ/途中)「わあっ! 参った、参った!」
柔らかな草地にねじ伏せられて、シフランがばたつきながら言いました。その細い手首をまとめて掴み、小さな背中に膝まで乗せて、ほとんど押し倒すように押しつけているのはイサボーです。
突然のことに驚かれたとは思いますが、しかしご心配には及びません。なぜなら今は、空にさんさんとお天道さんも輝いています。彼らがいる芝生の広場だって、宿屋のちょっと裏手のところにある公園です。それにほら、少し遠巻きにするあたりから、ちゃんとオディールが見ています。彼女は善しと言わんばかりに頷くと、たっぷりと息を吸い込んで言いました。
「そこまで!」
彼女らしい、実によく通る声でした。イザボーは一つまばたきをして、それからやっと全身の力を緩めることが出来ました。
「ジュヴァンテ防衛隊の捕手術、実にお見事。よくもまあ、あんなすばしっこいのを捕える事が出来るものだ」
オディールはつかつかと歩み寄りながら、ゆっくりと拍手をしてくれています。
でも、イザボーはすぐに応える事ができません。もちろん応えようとはしましたが、彼の口から出たのはこんなところだったんです――ぜい、ひい。ひゅう、ひゅう! ああ、なんど大きく肩を動かして、胸いっぱいに息を吸ったでしょう? ですが彼がこれらを言葉の形に作り変えるには、もう少し時間が要りそうです。それは誰が見たって明らかでした。
ありがとうマダム、そう言葉を作る代わりに、イザボーは大きく手を振ります。オディールはにやりと笑い、二人にタオルを投げてやりました。
ええ、もうイザボーもシフランも分かっていました。オディールの拍手はわざとらしいくらいゆっくりでした。つまり、確かに半分くらいは本当に褒めてくれているけれど、残る半分はたぶん皮肉で、なおかつシフランへの喝采なのでした。
さて。なんでこんな事になっているかというと、それは大変かんたんなお話です。
我らが英雄たち5人がかの王を倒し、ついでにちょっとした喧嘩を経て、もう少しだけみんなでヴォーガルドを旅しちゃおうか? なんて決めたのがつい先日のこと。これがどれだけ幸せなことかだなんて、今さらご説明する必要もないでしょう。
とはいえ全部が全部、彼らに合わせて幸せなほうへと移ろってくれるわけでもないのもまた世の理。王がいなくなったとしても、旅の道中で危険に出遭う可能性は変わりません。
そんな訳で、二人はちょっとした準備運動くらいのつもりで、手合わせをしてみることにしたんです。それはそのいさおしを讃えてたっぷりと休ませた身体を叩き起こすため、なにより随分とんでもないことになっていたシフランの調子を確かめるためでした。
結果は、まあ、ごらんの有様です。
「イテテ……。もうちょっと加減してくれてもいいじゃないか!」
シフランがいかにも不満そうに、けれどもケラケラと笑いながらそう言ったので、イザボーはなんとか身体を滑らせて、すぐ隣へとどかりと座り込みました。ぱくぱくと動く口元を見るに、こんなことを言いたいんでしょうか?
『――ごめん、ごめんって、シフ! でもこれで加減しろってのは、ちょっと無理な話だぞ!?』
ああ、かわいそうなイザボー。シフランもオディールも、それをばっちり見ています。でもそれは彼の言葉を聞くためというよりも、彼の事を気遣うためでしたから。
実際のところ、彼らの懸念は全く無用のものでした。
あれほどの事になっていたシフランでしたが、彼の身体に残ったのはもう本当に、ただただ飛び抜けてしまった実力だけだったようでした。ぶりかえしたらどうしよう、何か変なとこでも残ってないかしらん? そんな不安は念のためとあのオディールさえも付き合ってくれるほどに大きなものでしたが、たぶん、杞憂とはこういうものを言うのでしょう。ええ。元気になったシフランの軽やかさといったら、本当に以前とは比べ物にならないほどだったんですから。
例えばイザボーが一歩を踏み出すと、シフランはもうその前に同じだけ下がっています。逆にイザボーが一歩下がろうとすると、その間にシフランは三歩ぶんは間合いを詰めてしまいます。これにはむしろシフランも驚いたようで、はたから見ればまるで息の合う気配のない、とてもぶきっちょな踊りのようですらありました。それにただ間合いを図るだけでこれなんですから、避けたり当てたり、襟や袖を掴んだりなんて、もう全く出来っこありません! ああ、シフランの小さな木剣は、もはや広場のすみっこで草に埋もれるばかりです。彼はイザボーの手が全く自分にかすりそうもないと見るや、「せめて捕まえてみなよ!」なんて叫んで木剣を放り投げてしまいましたから。
なんてかわいそうなイザボー。彼はもう本気を出さざるを得ず、いたずらなシフランに遊ばれるだけ遊ばれました。追って追われて追わされて、そんな時間が、一体どれだけ続いたことでしょう? あのマダムが本も読まずに付き合ってくれたのは、もはや奇跡と呼ぶほかありません。
最後に決着がついたのだって、シフランがそろそろ捕まってやろうかな、いややっぱりもうちょっと遊ぼうかな、なんて近づいたり離れたりを繰り返した末のことです。尤も、これを決着と言っていいのかは、誰にも分かりませんけどね。
「……なっ、なさけ、なさけな……」
やっと落ち着いてきたイザボーが、ため息にもなりきれない息をつきながら言います。
「ああ、カニったれ! マダムも見てただろう? シフ、君、ずいぶん手加減してた! なのに、俺、ぜんっぜん追いつけなかっ……一体いつの間に……いや、分かってはいる! いるが、そうじゃなくて……悪い、怪我はないか? 痛むところは?」
そんな心配されるべきは、そんな顔をした君の方だろうに!
涼しい顔をしたシフランが、そして口元を抑えたオディールが、偶然かちあった視線に言葉を飲み込みました。
「大丈夫、どこも痛めてなんかないよ!」シフランはそう言いながら、イザボーの背中を擦ってやることにしました。そうでもしないと、堪えきれなかった笑みが次々こぼれてきそうだったからです。「僕だって結構本気でやってた。イザがやるなら、あれが最適解だと思う。うん、なかなかいい経験をした。君の身体は本当に大きくて重いなあ」
「そ、それなら、なにより……なによりかあ?」
イザボーの肩ががっくりと落ちます。どうやら、もう肩で息をしないですむ程度には落ち着いてきたようでした。オディールはそんな二人を見ながら、次は絶対にボニーとミラベルも連れてこようと考えています。こんなものはお茶かお酒か、お菓子かおつまみ、ともあれそんなのを野次と一緒にお供にしないとやってられませんでしたから……。
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「でも実際、君、言うほど本気じゃなかっただろ」
のろのろとした、反省会も兼ねての晩酌どきでした。急にイザボーにそう言われて、シフランはあんぐりと口を開けたまま固まりました。今まさにかぶりつこうとしていたつやつやのジャムとバターの乗ったパンを見て、それからイザボーの方を見て、もう一度パンの方を見てから、そっとパンを皿の上に戻しました。
「僕が嘘をついてるって? ひどいなあ」
「いやいや、いくらなんでも俺だって分かるさ」
イザボーはそう言いながら自分の皿のハムをつまんで、それからわざとらしく腕を組んでみせます。
シフランは確かに言っていました――『結構本気でやってた』と。でも、イザボーにはそう思えません。だって、そうだとしたらちょっとおかしいんです。
「君の早さ、なんというか、ガタガタだった。最初はとんでもないと思ったのに、次は妙に遅かったり……そういう作戦かと思ったが、そうじゃない。迷っているというか、困っているというか……なんというか、そう、リズムがなかった。どのくらいでやるのが一番いいのか、ずっと探られていた気がする」
「む……」
そんな風に顔をしかめちゃ、図星ですと言っているも同然でしょうに。
イザボーはシフランのそんな様子を見て、うんと大きく頷きました。これでたぶんあっているはず。
「推測でしかないけど、必要な加減の具合が想定と違ったんだな。……シフの記憶にある俺は、もう少し強かったんじゃないか?」
「う」
正解。
でも、その瞬間にシフランの顔へとさっと差しこんだ薄い影に、イザボーは心の中だけで小さく呻きました。この結論までは言わなくてよかったな。どう考えたって、これはシフランの、あまり思い出したくないところに触れる推測なんですから。
とはいえ、シフランはちょっとだけ首を振ると、皿に戻していたパンをぱくぱく二口で食べきってしまいました。言うほどショックではなかったんでしょうか? それを確認しようと思うほど、考え無しではありませんが。
「……うん。そう、イザはもっと強くなれるよ。僕は知ってる。見てきたから」
シフランはジョッキの果実水を一息に飲み干して、いかにも渋い顔をしています。それは果実水が絞りきったレモンを一切れを浮かべただけのものだったから、というだけではないでしょう。
「でも、それが君の夢に必要なものかって言われるとね。無理する必要もないと思う……」
「そうかー……」
……でもその自分って、ひょっとして今の自分よりかっこよかったりしたんでしょうか?
イザボーが考えているのは、そんな彼自身でも分かるくらいくだらないことでした。むむむ。なんだかんだ、こうもきっぱり『お前は弱い』と言われてしまえば、苦々しい気持ちになるなというのも無理な話です。ですがシフランがはっきり、きっぱりと言ってくれたのは、この手の事、時には命に関わる技術の話で嘘や誤魔化しをしてしまうと、必ずどこかしらで良くないことが起きるからです。それ以外の意味がないことは、イザボーだってよく分かっていました。言いにくい事をはっきりと言ってくれるのは、本当に有り難いことだとも。
けどやっぱり、身体なんてのは動かせるに越したことはありませんし……。それになんだか、やっぱり、やっぱりですよ。好きな人をがっかりさせて、挙げ句にこんな申し訳無さそうな顔をさせておいて、自分に腹が立たないわけがないじゃないですか?
「……よし!」
イザボーは軽く自分の頬をはたいて、心に気合を入れ直しました。
「どうあれ、シフ、少なくとも君の身体には何の問題も無いことは分かった。すごく良いことだ! 俺はそれがとても嬉しいよ」
「イザ……」
「あとは俺の問題だ。無理をするしないじゃなくて、いつか改めて、君が安心して本気を見せてくれるくらいを目標にするのも悪くない……なぜなら、その方がかっこいいからだ」
よし。我ながら良い目標だ。
イザボーはひとりうんうんと頷きましたが、シフランはなんだかきょとんとして、じっとイザボーのことを見ていました。はてな。もちろんイザボーはそれにすぐ気づきましたが、しかしそれが何故かまでもまた当然わかりません。
なんだか変な静けさが二人の間にやってきました。どうしよう、これ。なんか変な事言ったかな。ちょっとキザだったかな。わりと真面目なんだけどな。
そうこうしている間に、シフランが思い立ったようにジョッキを持ちました。残っていた果実水はそう多くありません。それを殆ど吸い尽くすみたいにして飲み干して、それから、ひょいと扉の方を指さしました。
「……じゃあ、今から行く?」
「へ?」