(タイトルどないしよこれ) 前略、拗れた。
イザボーは瞑目した。そうだ、拗れたという他なかった。事態は既に子猫に弄ばれた毛糸玉の如く、混迷の果てに鎮座ましましている。であれば解きほぐしを兼ねて原因を辿るのもひとつの手ではあろうが、それでここに至る過程も結果も先行きさえも、もはや何一つ変わるわけもなかった。無意味甚だしい。
窓の外にはのんきな午後。花はほころび甘く香り、小鳥は思い思いに愛を囀り――これ即ち地獄の業火の現出である。向かいに立つシフランは何が気に入らなかったのか、うららかな陽に揺れるカーテンを乱暴な手つきでまとめてしまった。
「イザ」零度であった。「……別にね。僕は別に、きみが何をどういうふうに考えていても、怒ったりはしないよ。でもね、それでも哀しいとは思う。とても思う! ……もう一度聞くよ。僕、なにかした?」
「してない! 誓って!」
「じゃーあ何でだよ! 吐けよ!」
「い、言えない……!」
繰り返すこと、たしか三度めかそこいらのはずの会話である。
シフランは暫しじっとイザボーを睨んでいたが、やがてため息をつくと、そっと目を逸らしてしまった。
「……別に、イザが僕のことを嫌いになったなら、それでいい」
――あああ、そんなことを言わせたいわけじゃないのに……。
シフランという人物は、言葉そのものよりも態度と振る舞いで語る人物だ。事実、今発されたそれもその実『でも、そうじゃないよね?』という問いかけと信頼であった。だがしかし、震える声色が示すのは『そうじゃないんだよね?』という哀願でさえある。
苦しかった。それでもなお、イザボーはただただ瞑目していた――守りのクラフトの使い手というのは、時として彼ら自身でも驚くほどの頑迷さを持ってその意地を通そうとする、というのが世間の通説である。おそらくそれは真だろう。少なくとも、ここにその一例が誕生している。
さて。無意味を承知で遡るならば、それは些細なささくれの爆発だった。
まずシフランが身体的接触について非常にナイーブな――時には頑なに恐れ拒んで跳ね跳んで、しかしまたある時にはけして逃さぬと言わんばかりに追い立てて求め、その相反する性質には中間といえるような地点がほぼほぼ無い、そういった本当に厄介な性質を持つに至ってしまった事は周知の事実である。
しかしながら、それはある程度親愛なる友人、頼れる仲間、愛する家族たちの手によって、他所様に迷惑をかけない程度には落ち着いているのが現状だ。そのぶん酔うとすごいけど。その沈静化は抱擁の大先生たる我らがボニーの手腕によるものも大きかったが、やはりイザボーこそは最重要人物であったと言えよう。
すなわち、ラブ。ラヴァーズ。小指を立ててあなたに語ろう。この二者の関係は意図的にその宣言に至る一歩前で留められているとはいえ、しかしながら所詮は意図的なもので、実質、まあ少なくとも、周りから見れば大体はそんな感じであった。誰がみても、ほぼそうだった。それこそ二人の立ち振舞のみで花はほころび鳥は歌い、万象に春の訪いを告げて回る始末であった。
では、なぜそれが唐突に、時を冬へと逆巻いたのか? ――簡単だ。イザボーが、急にシフランに触れるのに躊躇を挟むようになったのだ。それも、理由を聞いても答えもせず。
まあ、拗れた。すっごい拗れた。そりゃもうびっくりするくらい。
イザボーは未だ瞑目している。
残念ながら、既に事態は「良いからとっとと何とかしろよこのカニ野郎が」という所まで進展していた。と言うよりこんな状況がパーティ内に知られない筈もない。秒だった。マダム・オディールの差し込んでくれた「黙って放っておきなさいばか者ども」という心底有り難い忠告は、残念ながら二対一で不採用となっている。
今この場でミラベルとボニーの二人が睨みを効かせてないだけ、全く持ってまだマシである――イザボーにはその理解があった。義務を果たさねばならなかったが、それでもなお、躊躇いは重く巨大な岩戸の如し。
「違う。違うんだシフ……」やっとのことで開いた口に、冷たい北風が吹き荒ぶ。「本当に、これは全部俺のせいなんだ。誓って俺だけのせいなんだ。なんなら好きなだけ罵ってくれて構わない……!」
「はあっ? 何で罵んなきゃいけないんだ? やりたいわけないだろ、そんなの」
「ああ……だがもう、そうでもしてくれなきゃ、俺の気が済まないんだよ!」
「……何を考えていても怒らない、とは言ったけど。イザ、まさかきみ、そういう?」
「そそそそれはない!」
ホントかよ。
その無言は言外に『まあ、お望みならお付き合いしますけど……』という気配を滲ませている。違う。その勘違いはすごいよろしくない。なにか……なにか本当によろしくない。ちょっとこれは、すごくまずい!
「……その、シフ、すごく単純な話なんだ」
「なに?」
その声色の重さたるや、いつぞやに鳩尾へ入ったボニーの頭突きより余程重い。何とか堪え、俯いたまま言葉を紡ぐ。
「認める。俺はいま、きみに触れるのがすごく怖い。理由は言えない。でも、それは間違ってもきみのせいじゃない。俺をこれを、なんとか自力で解決したいと思ってる」
「それはもう何度も聞いた」
「だよな」
「納得もしてない」
「だよな……」
だからこうも拗れたのだ。
がくりと肩が落ちる。だが話したくない。本当に話したくないのだ。であれば何とか、何とか迂回路を……。一端の陶芸家がひとつの作品を練り上げるようにして、イザボーは己のうちに道を探す。無意識に手もそんなふうに動かして。
「……例えば、うん、例えばだ。俺にとって今この状況は、非常に貴重なヴィンテージの布が手に入ったようなものなんだ」
「へえ?」
シフランの眉がぴくりと跳ねる。よし、これで何とかならないか。
「そう……それはとても素晴らしい一反なんだ。これを使って服を仕立てたのなら、確実に素晴らしい一着になるだろう! 想像するだけで心が踊る! 触れるだけ、眺めるだけでさえインスピレーションが溢れて止まらないくらいだ!
……だがそれだけに、恐ろしいんだ。ハサミを入れたらもう戻れないんだから。考えれば考えるほど、俺が仕立てようとする一着は、本当にこの布に相応しいものなのかわからなくなってくる。そもそも俺がこの一反に触れる資格自体あったのかどうかさえ……」
これでどうだ。
「そう」
あ、だめだこれ。全然納得してない。それどころかどうみても『この臆病者め』という罵りが混ざっている。
イザボーは再び瞑目する。シフランを納得させられるようなたとえ。――うん、布は駄目だった。それは俺の趣味だ。シフランにとっても分かりやすいもの。シフランの好むもの。