同病相憐れむ 最近はどのレストランも間接照明を取り入れて、店内が薄暗い。空港の近くの名店で、やましい店でもないというのに。レアステーキの最後の一切れを口に運び、ナデシコは考える。客席と客席の距離を開けて感じさせるためだろうか。防犯のためならば相互監視も悪くないのだが。ワインで口の中を流していると、空いた皿をウェイターが片付ける。テーブルが広がったのを確認し、ディナーの相手が唇を開いた。
「こちらが、ご依頼の品物です」
テーブルを迂回するように、小さなブランド店の紙袋が渡される。中身は知っていた。ネットショップと店舗で、同時に数量限定で発売された高級コスメ。世界的に人気な限定色、シアーピーチのリップだ。ナデシコには淡すぎる色だが、スイが欲しがるのも解る純な色。
「ありがとう、チェズレイ」
ナデシコは軽く確認し、チェズレイに礼を言う。
「いいえ。君にしか頼めない――そう言われてしまっては、逆らえません」
チェズレイも愉快そうに目を細める。二人の密会を作ったのはスイだった。
多忙なスイ社長が、ナデシコとの貴重なティータイムの途中で「あ」と表情を曇らせたのは二日前のことだった。「ごめん、ちょっとまって」とタブレットで検索をはじめ、直ぐさま凛とした目元が泣きそうに下がっていく。事情を聞くと、昼から始まっていた予約合戦に負けたらしい。仕事をサボることも、誰かに頼むことも不器用なスイは、完売したリップのページを開いたままへなへなと脱力する。
「そこまで欲しかったものなら、歌姫さんにプレゼントしようか?」
「ううん、大丈夫……っていうか、多分無理だよ。公式店舗にも人の列だって」
ごめんね、せっかく会えたのにへこんじゃって。そうため息を吐きながら紅茶に砂糖を入れるスイを見て、ナデシコは微笑んだ。転売など最初から視野にない、善の塊。スイと別れた後真っ先に電話をかける。なりふり構わない人間の使い方には自信があった。
「チェズレイ。君にしか頼めないミッションがあるんだが……」
近くにいるので、と渡しに来たチェズレイは変わらず折り目正しき美形で、ナデシコにピン札や香水のムエットを連想させる。折り紙のような人間。モクマと並ぶとより面白いのだが、今日は不在だった。
チェズレイは小さな封筒も差し出す。ナデシコはワイングラスを片手に受け取ると、視線で問いかけた。
「念のためレシートもこちらに。スイ嬢が不安になると申し訳ありませんので」
「定価で確保したかは気にするだろうからな。いい気遣いだ」
「正規店で購入したという保証でもあります。横流しする悪党の手に触れたものなど彼女にはふさわしくない」
「本当にそうだな。助かったよ、どこで売っていた?」
「東に新しい分店がありまして。同時発売の予定がトラブルで遅れていたらしく、ストックが少し……まぁ、容易に手に入りましたよ」
チェズレイはそう言葉を濁す。情報網と部下を使って、遠方まで探索してくれたのだろう。炭酸水を飲み、優雅な仕草でグラスを置いたチェズレイは、手品のようにもう一つのショッパーバッグを取り出す。
「それからこちらはあなたに。同じシリーズのローズです」
「ほう? 気が利くじゃないか」
ナデシコは受け取ると中を覗き込む。きれいに梱包された小箱は確かに、リップ程度の大きさに見える。しかし、その細身の小箱は二つあった。
「よく似合うと思ったので。些細なおまけも付けさせていただきました」
おまけ。チェズレイのことだから、ミカグラに潜む悪党の最新情報だろう。何らかのデータが化粧品のふりをして添えられている。物騒さと親切さに、ナデシコは顔を綻ばせる。おまけには触れずに、リップの箱を持ち上げた。コトリ、と小さな音がする。
「おそろいのリップか。歌姫さんも喜ぶな」
「ええ。大切な友人との思い出になるかと」
チェズレイは微かに頷く。友人という言葉を、ナデシコは繰り返した。
「友人か」
「間違っているでしょうか?」
いいや、とナデシコは首を振る。友人だ。親子ほど年齢が離れていても、それは間違いない。けれど彼女に似合うのはシアーピーチで、私にはローズだ。年上として、権力を持つ者として、支え、導きたいと思う――その気持ちを、友人であるスイに悟られたくないとも思う。
もっと頼ってほしい。そう言われても、可愛い雛鳥を私は友人として見ることができているのだろうか。肩をすくめて、グラスを空ける。チェズレイに視線を送った。
「年齢が離れていることなど、君は気にしないだろうな」
「ええ。私も、スイ嬢も気にしませんとも」
よく出来た後輩は、心を読んだかのような返事をする。
食後のデザートはソルベだった。微かな酔いに火照る体に、梨の香りが心地よい。
「モクマとはうまくやっているか? そちらも一回り近く年が違うが」
少し意地悪をするつもりで、ナデシコはスプーンをチェズレイに向ける。チェズレイはわざとらしくため息を吐き、ソルベに飾られたベリーを掬い上げる。
「それなりに。大雑把なことは変わりませんが、休肝日を設けているなど心がけは殊勝ですよ」
「そうか。酒びたりが成長したものだ」
「ええ。人間ドックの脅しが効いたようです」
「数値が大変なことになりそうな飲み方をしていたからな」
チェズレイがベリーを食べている、僅かな沈黙。ナデシコが目を閉じると、黒髪の精悍な男が過る。生真面目そうで、息苦しそうで、消えたがっていた男。
「酒なんて飲みそうになかった男が……」
口にするつもりのなかった言葉が、吐息のように漏れる。思った以上にその言葉ははっきりと響き、チェズレイの手が止まった。
「二十年前のお話でしょうか」
「……ああ。同居していた時に一度、」
最後の夜に。
「無理に酒を飲ませたことがある。私もあいつも飲み慣れていなくてな、ビールの飲み方もわかっていなくて――心も開けなかった」
自嘲する。乾き物を用意して、先輩ぶって、苦しいことがあるなら飲めと言った。モクマは驚いていたが、それでも拒みはしなかった。なんでも話せと私は言って、モクマ以上に飲んだ。本当は酔っ払いたかった。
チェズレイはうつむき、スプーンでソルベに添えられたソースを混ぜる。溶けかけのソルベの白と、ベリーの赤が混ざっていく。ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……酒飲み本性を違わず。あなたも彼も、暴く仮面がなかったのでしょう」
詐欺師が提出したのは、優しい嘘だった。あの時の私たちは、大きな本心を隠したままだったのだから。
デザートを終え、思い出したようにチェズレイに聞く。
「今日はどうした。守り手は」
「ああ。急なミッションでしたので、置いてきました。部下と一緒に移動中かと」
悪戯そうな瞳で、チェズレイは言う。
「ハハハ。今頃泣いてるんじゃないのか? ヴィンウェイの事件のように追いかけてくるぞ」
「また叱られるのも一興です。きちんとメッセージを送ってありますので、大丈夫かと」
言いながらチェズレイはタブレットの通知を確認する。失礼、と言って文字入力を始めたあたり、相手はモクマなのかもしれなかった。
ナデシコちゃん。へらりと笑って、冷酷になりきれない私を慰めに来た男。悪どい言い回しをする私に、優しかった男。
叱られるのは、どんな気分なのだろう。相手を変えたいと、そうモクマに思われるのは、どんな気分なのだろうか。
私たちはなんの打ち合わせもせず、チェズレイの支払いで店を出る。お互い金は余っていたから、手続きの省略のようなものだ。夜の空気は程よく涼しく、爽やかだ。コートを羽織り直すと、私は言った。
「よし。シメにいくぞ」
「シメ、というと」
聞き返したチェズレイの背中を叩きかけて、寸前で止める。そのまま指を立てた。
「ラーメンだ、ラーメン。奢ってやろう。チャーシューも海苔もトッピングだ」
「……酒が入ると塩辛いものが欲しくなると聞いてはいましたが、このような時間から? それも、ラーメン屋に?」
困惑し、首を傾げるチェズレイに、私はにやにやと視線を向ける。わざと声を大きくし、尋ねた。
「なんだ、モクマとまだラーメン屋に行ってはいないのか」
「ええ。初めての経験です」
私は吹き出す。あの男は、相棒とどのような食事をしているのだろうか。まさか毎食、健康的に作ってやっている訳でもないだろうに。
「フフ。しっかりリードしてやろう」
「おねがいいたします、ナデシコ嬢」
素直についてくるチェズレイが面白い。比較的きれいなラーメン屋を思い出し、チェズレイに暖簾をくぐらせた。
カウンターに並んで座ると、チェズレイがアーロン並の長身であることを思い出す。威圧感のなさと、優雅な物腰で身長より小さく見えていた。私は壁のメニューを指差し、チェズレイに言う。
「ライスも頼んで汁と食べる。ここまでこなすのがマナーだな」
「あぁ……食べきれるでしょうか」
既に疲れた表情を見せたチェズレイは、大げさに言う。好奇心はあるのか、奥で煮えるスープ鍋に視線を向けていた。
「頑張れ、若者。ここの麺は旨いぞ」
どん、と目の前にラーメンどんぶりが来る。ライスもだ。海苔にほうれん草、厚切りチャーシューが乗っている。豚骨醤油の食欲をそそる香りに負けじとニンニクを投入し、チェズレイにも勧める。チェズレイも一匙だけニンニクを追加した。
「よく混ぜて食べろ」
チェズレイは頷く。ヘアゴムで素早く髪をくくり、箸を手に取った。
「わかりました」
覚悟をきめたチェズレイが「頂きます」というのを、私は見る。愉快な場面に、思い出すことがあった。
私は、髪を伸ばしていた。チェズレイほどの長さではなかったが、一つにまとめて縛っていた。ショートヘアは手入れが面倒で、伸ばしたほうが楽だったからだ。伸ばしていたことに深い理由はなくて――切ったことには、浅い理由があった。
モクマだ。モクマが私の揺れる髪を見て、誰かを思い出していたから。目を細めて、誰かのことを眩しく思っていたから。モクマを追い出した後に切った。鮮烈な感情が当時はあって、悲壮な決意のもとに切って、今では角が取れた曖昧な記憶になっている。
ふふっ、と一人でわらう。もう、伸ばしてもいいのかもしれないな、と思った。
チェズレイと並んで麺をすする。すすり慣れていないチェズレイは、レンゲを上手に使い一口一口食べていく。私がふやけた海苔をライスに乗せて食べていると、囁き声が聞こえた。
「すごい美人だ」
「お前声かけろよ」
「無理だって、あんなの」
「高嶺の花すぎる……」
「どういう関係なんだ?」
肘でお互いを突きあう二人組。シャツにジーンズ姿の彼らのほうが、なるほどこの店のドレスコードには合っていた。話しかけて来たら隣に座らせてやってもいいが、と視線を送ると怯えたように逃げていく。
今の若者、面白かったなとチェズレイに話をふろうと振り返る。チェズレイは賢明に私の真似をし、海苔を乗せたライスを作成していた。几帳面に、汁の一滴も零さないように。
「……なるほど。チェズレイに食事をさせるというのも面白い」
「ボスのように面白いリアクションなどできかねますが」
「はは。この歳になると、若者の食事風景だけで飯が食えるのさ」
そういうものですかねェ、と不思議そうに、チェズレイはレンゲを口に運んだ。
店から出て、角を曲がるまでは背筋を伸ばしていたチェズレイが、がくっと項垂れる。特濃豚骨醤油味はパンチが強すぎたようだった。ニンニク臭を消すためのラムネ菓子を渡すと、大人しく口の中で溶かす。
「はぁ……三日は食事を摂らなくてもよさそうだ」
「モクマが心配するぞ」
「させておけばいいでしょう」
ぶっきらぼうに言うチェズレイに、私は思わず吹き出す。指にスイへの贈り物を下げたまま、夜風を楽しんで歩いた。タクシーも停まっていたが、まだ別れるには早い気がした。
「そういえばチェズレイ、宿はどこにとったんだ」
チェズレイを振り返る。答えようとしたチェズレイの前に、するりと見知らぬ男が割って入った。マリン系の香水が強い、派手な男。私とチェズレイを交互に見比べ、ぽんと手をたたく。
「美人さんたち。デートかい?」
私とチェズレイは顔を見合わせる。走る緊張感に気付かない男はぺらぺらと、自分の魅力をプレゼンし始める。身の程知らずで、恐れ知らずなところは確かに美徳かもしれない。
「俺そういうのおおらかだからさ、スワッピングでも三人でも」
「あいにく、心に決めた相手がおりますので……」
チェズレイが頬に手を当てる。男は言葉を遮られて、え、と眉を持ち上げた。
「だ、そうだ。フられたな」
「ご健闘をお祈りしますね」
私は男にひらひらと手を振る。男はしぶとく手を伸ばしたが、追いかけるほどの気概はないようだった。
眠らない街、ミカグラ。こんな時間も昼のように明るい。空港の近くのショッピングモールは、観光客がいつも多かった。私は自動販売機で水を買い、飲み下した後吹き出した。立ち止まり、タブレットを取り出していたチェズレイに声をかける。
「ずいぶん勇気のある男だったな。このバディに声をかけるとは」
「ええ、本当に――」
何かを連想したチェズレイの目が光る。意図がわかって、私は声を揃えた。
「モクマとは違って」
「モクマさんとは違って」
二人でニヤリと笑う。本心からナンパができる男という時点で、モクマより勇敢だ。
タブレットの操作を終えたチェズレイは、ちらりと空を見上げる。
「モクマさんはもう空港についているようです。最終便に間に合いましたね」
私は時刻を確認する。空港のバーで一杯やるぐらいの余地はあった。チェズレイに頷いて、意地悪く目を細めた。
「よし、行くか。モクマの悪口でも言いながら」
「そんな議題でよろしいのでしょうか」
「不満はないのか?」
「あの人への悪口なんて」
チェズレイは指を折る。ひとつ、ふたつ、みっつ。手を開いて、ひらひらと振った。
「夜が明けるほどありますよ」
「……かわいい後輩だ」