MCアフターに寄せて、あるいは天使墜落「名乗らなくていい」
ニコルズ様はそう仰られた。母国で犯罪を繰り返し二十でヴィンウェイに逃げ込んだ私のことを、紫水晶の如き瞳で一瞥して。ビスクドールのように表情を変えず、金糸の髪のみを僅かに揺らし。
「名前を覚えられたければ――相応の働きを」
玉座めいた椅子に抱きしめられ座る、彼はまだ十五歳だった。
産まれながらにして知的犯罪の天才。美貌、頭脳、人心掌握、神があらゆる才能を与えた暗黒の奇跡。ニコルズ様は噂されるそれらの「伝説」を上回る、生きた芸術作品だった。彼の采配で全てが変わる。あらゆる暗殺者を近づけなかったフリオ・ファミリーのドンをたった一人の田舎者で殺し、表の新聞社と繋がったゲオルギウス派を情報戦で乗っ取り、金の亡者である豹牙組を経済戦で下す。
私の五つ下ともなれば、精神が不安定な少年期のはずだ。その頃の私は荒れ、悪い仲間と共に残虐な遊びに手を出していた。しかしニコルズ様は、無駄な破滅を好まない。僅かな余暇は芸術と読書に勤しむ。美術館を貸し切り、天使像の前に佇む細い姿は肉体を得た天使のようだ。何を思うのか、表情を変えない彼の横顔を盗み見る。私の視線に気付いていながら、褒美のように盗みを許すニコルズ様は、慈悲深い天使そのものかもしれない。
新しい拠点の装飾を任された私は、小さな天使の大理石像を買い付けた。薔薇の花を従えて、芸術家に天啓を与える。急ぎ飾り付ける私に、同朋から皮肉な声が飛ぶ。
「天使様を置いてご機嫌とりか? 美術館で御執心だったものか」
「……お喜びになるかと」
ハッ、とその男は短く笑う。罰で岩を運ぶシーシュポスを目にしたように、呆れ果て。
「父親でさえ殺したんだ。もうニコルズ様が誰かに心を許すことなどないだろう。狙っても無駄だ」
――厭な気分になった。ニコルズ様を獲物のように見るこの男も、微かに、僅かに「狙って」いた自分のことも。私は、引きつった唇で虚勢を張る。
「どうでしょう。賭けをしませんか」
「賭け?」
「ニコルズ様が、心を許す相手ができるか」
「ははっ、争奪戦に参加するってことかい? お前が、その運命の相手だと」
「……そんなことは思っていません。ただ、誰かに出会うこともあるかと」
天使のように美しいニコルズ様が、誰かを導き天啓を与える守護天使になる。その光景は非現実的で、幻想的でさえあって、私の厭な気分を払拭するに値するものだった。
「どうだか。賭けにもなりはしない」
去っていく同朋も私も、予想していなかった。あの男――コードネーム・ファントムの来訪を。
ニコルズ様の懐にするりと入り込み、優れた実力と彼にさえ歯向かう勇気を持って、出世していくファントム。冬に現れた男は、春を迎えるヴィンウェイのようにニコルズ様の氷を溶かしていく。我々への対応も、油断すれば旧知の親友だと思わされてしまう人当たりの良いもの。こんなに都合の良い存在は危険だと進言した部下は、根拠を問われ破滅。
ファントムという宝石に傷はない。けれど、それまでのニコルズ様という芸術作品を知ると、どうしてもその輝きがふさわしくないと思えてしまう。ニコルズ様には、あのような瞳など不要だ。彼を部屋に誘う媚びた視線など。揃った部下から不安げにファントムを探す視線など――
「私の誕生日だが、護衛は任せられない」
ニコルズ様の成人記念を祝すパーティの警備から、私は外された。理由はわかっている。嫉妬と、執着だ。
あれほど天使の祝福を願っておりながら、人間を選んだ天使に失望する。私の崇拝は、矮小で、卑怯なものだった。
私は大人しく頭を下げる。部屋を去る寸前、甘やかな声が聞こえる。
「次の拠点の装飾も期待している」
ニコルズ様の美しい姿を最後に、十年の苦痛が始まった。
誕生会が殺し合いによって血塗られ、ニコルズ様の生死も杳として知られず。情報屋がそう話した時、私は崩れ落ちた。これからもニコルズ様のお側で、羨望と嫉妬に苦しみながら、あの美しい命を拝めると思っていた。
そこからの十年は、砂の城を作り続けるように空虚だった。あれほど好きだった美術館にも行けず、その場しのぎの犯罪で日々を埋める。
なぜ、嫉妬をしてしまったのか。天使に選ばれたいと思ってしまったのか。その邪な心さえなければ、今もきっとニコルズ様の傍らに居られただろうに。
ニコルズ様の行き先が冥府であってもいい。天使の導きであれば、彼の逝く先であれば、私は。
私はいつからか、彼の傍で死ぬことができた血塗られた誕生会の犠牲者たちを妬むようになっていた。
「今、裏社会を震撼させているチェズレイ・ニコルズを名乗るものは、どうやら本人らしい」
そんな噂が届いた時は、恐怖と恍惚で気を失いかけた。無敵の武人なる男と組み、世界を我が物にしていくという。
また、誰かの隣にいる。天使が祝福を、人間に与えている。心臓を細い指で握られているような恐怖。
また、彼の前に跪くことができる。あの声で命令を聴ける。心臓を細い指で擽られるような恍惚。
私がしたことは、爆弾を準備することだった。
空港で、ニコルズ様が乗るという飛行機を探し出す。賄賂を渡し、小さな荷物を運び込ませておく。爆薬は飛行機を傾かせ墜落させるにふさわしいものだ。翼を失った天使の死因にもっともふさわしい。遠隔で爆破するためのスイッチを手に、私はニコルズ様の姿を探した。探すまでもない。美しい髪、輝く立ち姿、どれも馴染んだあの日のものだ。違っている点は、独特なメイクと杖か。どこかお体が悪いのか、杖に預けた立ち方が違う。そして。
「モクマさん、少しお土産を持っていてください。私にはあと一つ仕事があるので」
「えっ? いいけど。俺も行くよ」
隣に立つのは、中年の小柄な男だった。黄色い民族衣装と、ちぐはぐな防寒着の腑抜けたファッション。総白髪で老けて見えるが、腕や背中にはがっしりと鍛えられた筋肉がある。その点も、肉体を感じて許せなかった。
天使が祝福を与えた相手。それがあの男。
許せない。スイッチを握った手が、震える。飛行機が飛んだら、あの天使を殺す。天に送り返す。愛を知ってしまった天使を、清らかに戻す。
「あなたですね」
震える私の前に、影が落ちる。空港の無機質で明るい照明を背後に、微笑む。
「私達がこれから乗る飛行機に、爆弾を仕掛けたのは」
「……はい」
いざ、その姿を前にすると、言い逃れの一つも浮かばなくなる。
「そのとおりです。ニコルズ様」
チェズレイ・ニコルズは自分を殺そうとした私にゆっくりと唇を開く。私を処罰する。銃で一息に? それとも、部下を使って? その手で殺してくださるような、慈悲はないのか? 天使に殺されたい私の願望を透かしたように、彼は言った。
「許します」
「――ッ?」
「だって、ねェ? あなたはまだご存知ではないかもしれませんが、今は不殺なのですよ。それに、旅路を血で染めるような野暮はしたくない」
甘ったるい声。誰かの事を考えて、弾む声。天使にあるまじき、揺れる声。
極めつけに、知らない顔を作る。
「私――どうやら、幸せなようで」
はにかみ、喜びを噛みしめる――人間の顔を。
私は彼の靴に跪き、触れて接吻する寸前で止まる。許可なく触れていい人間じゃない。
彼は、彼の愛する人間と生きていくのだ。人間として。支え合いながら。その事を理解させる顔だった。言葉よりも雄弁な、笑顔が花開いた。
同朋に賭けを持ちかけた時の、純粋な気持ちが今になって蘇る。
私は、彼に人間になって欲しかったのだ。
「もう大丈夫かい?」
ニコルズ様に愛された男が、私を覗き込む。
「大丈夫ですよ。もう彼に危険なことはできません」
ニコルズ様は、そう言うと少し考える。私に、笑いかける。
「覚えています。彼はいいセンスの持ち主ですよ」