海原と坂東光の差し込まない暗い部屋。殺風景で灰色に満ちた床にそれは横たわっていた。
「あ」
砕けたパネル。鮮やかな青はくすみと消え、色のついた木片がそこかしこに散らばっている。
「あ、ああ・・・」
長いこと、忘れていた。家では日常茶飯事だったこの光景。もう、逃げられたと、逃げ出せたのだと思っていたのに。
ただ黙って背中を向けている坂東が見つめているものが何であるかを理解したが否や、海原の体は膝から崩れ落ちた。
その小さなパネルはかつて実習室の隅にちょこんと飾られていた。
きらきらと銀色が煌めく水面と深く淀む海の底。その間を悠々と泳いでいる一頭のイルカの影だけが白く浮いた砂の原にぼんやりと映り込んでいた。
恐らく習作のひとつなのだろう、他にも似たような主題の絵がそこかしこに置いてある。
されど、そのイルカの絵は数々の習作を差し置いて、海原の目を奪ったのだった。
まだその書き手と出会ったことの無い頃に見た、あの絵と同じ。
「──・・・」
今日の講義はほぼ終了しており、坂東ひとりだけが実習室に居残っていた。海原が部屋に入ってきても、ただ黙々と床に置いた大きなパネルに向かっていた坂東は動かぬ訪ね人の気配にやっとそちらを振り返る。
「それ、気に入ったのか?」
「・・・ん?ああ、そうだな。君にしては珍しい絵だと思ったんだ」
「ほぅ、どんな風に」
「いつもはこう、もっと抽象的な絵を描いているじゃないか。書道にも近いような、黒がはっきりと目立つそんな絵を」
「よく見ている」
ふん、と気のなさそうな表情のまま再び筆をとって坂東は背を向けた。
パネルの上に備え付けられたスライダーに皿を乗せ、体勢を度々変えては器用に筆先で和紙をなぞる。
「右手が少しは動くようになったからな。リハビリがてらモチーフを変えてみるかと挑戦したまでだが・・・まぁ、少々心境の変化はあったかもしれん」
「変化、か」
海原の目が坂東の右腕に向かう。時たま震えてはいるものの、状態は良好のようで、筆をしっかりと握っていた。
「・・・おまえが来たということは五限は終わったらしいな」
時刻は19時前。季節は冬に差し掛かり、外はもう日が暮れて久しい。
おもむろに水場へ赴き、膠を流し始めた坂東だったが、不意にその眼差しが小さなパネルの方へと向いた。
「どうかしたのか?」
「そのパネル、欲しいなら持っていっても構わないぞ」
ぐっと海原は息を詰めた。
「い、いや・・・制作の参考にしたりするだろう?そんな、貰う訳には」
惹き付けられた絵を持って帰っていいと言われて喜ばなかったといえば嘘になる。海原は坂東の絵が好きだ。それこそ、他の学部だと言うのに時たま訪れて見に来るくらいには彼の世界観を気に入っている。それを知っているから坂東は絵を貰って良いなどと言ったのだろう。
でも、流石にそれは。
「その絵は練習で描いたものだ。まだ必要ならそもそも許可など出さない。要らんのならそれでいいが。・・・ああ、無償であることを気にしているのなら、パネルの代金を出して貰えれば助かる。画材はいくらあっても足りないからな」
海原はいつになく熟考した。鷹揚としてあまり動じることの無い男がこの時ばかりは眉を寄せて腕組みなどして考え込んだ。
坂東が帰る支度を終えるまで、数分の沈黙の後。
「いくらだ」
「800円」
――そうしてイルカの絵はアパートの奥の部屋の棚の上に宝物のように飾られることになった、はずだった。
「──大成」
「ッ・・・!」
横からぬっと突き出されたエナジーバーに我に返る。
ばっと顔をあげれば常と変わらず感情の見えない表情のままで坂東は佇んでいた。
「チョコレートがあれば良かったのだが。まぁ、俺の手持ちといえばこのくらいのものだ。少し糖分を取るといい」
海原は坂東のように、好んで栄養食品を食べることはしない。
いつもなら丁重に断るそれも今は救いのように見えて、言われるがままに口にする。
「どうだ」
もそもそと口内の水分を吸っていくような食感は気になるものの、噛みごたえはそこそこあって、腹の奥が少し満たされた心地になった。
「・・・悪くは、ない」
そう答えると、ふふんと機嫌が良さそうに男は笑って上着のポケットを軽く叩いた。彼が示したそこには常日頃のように栄養食品が入っているのだろう。
「そうだろう、そうだろう。できる限り完全食に近付けているらしいからな。望むならもう少し分けたって――」
「完全食というならおれは鍋の方がいい」
そこだけは譲れない。
「・・・そうか」
上がりかけていた眉と口角を下げ、少ししょげた坂東を他所に海原は床を見下ろした。つられて坂東もまたそちらを向く。
フローリングの上に散らばった木片は、海原が坂東から貰った絵の成れ果てだ。
「わるい・・・君の絵を、壊してしまった」
帰ってきた時にはこうだった。額にも入れて大事に飾っていたのに自然に倒れるなんてことはありえない。だから――これは人為的なもの。
「なに、おまえがやったんじゃないんだろう。むしろ、おまえは私物を勝手に破壊されたことに関して憤るべきだ。被害は絵だけじゃない。場合によっては通報すべき事態だろう」
坂東の言う通りだった。
同じく棚に置いていた細々とした小物も壊されている。雑誌も散り散りに破かれて、元の表紙がなんだったのかも分からなくなっていた。
勝手知ったる他人の家。すたすたと奥のキッチンの方に向かった坂東はそのままぐるりと検分しながら部屋を回って居間に戻ってきた。
「空き巣にしては標的が絞られているな。冷蔵庫なども漁った形跡はない。・・・やった人物に心当たりは?」
「・・・通報は、しないで欲しい」
言えない。もちろん海原には犯人が誰であるのか分かっている。もちろん空き巣ではない。合鍵の正当な所有権を持つ人物――。
一言告げて黙り込んだ彼を問い詰めるでもなく、坂東はパネルの欠片の前に膝を着いた。
「少し借りる。大きい欠片を新しいパネルに継ぎ足して修復することはできるかもしれない」
海原は白い指先が木片で傷つかないように器用に集めて袋に放り込んでいくのをぼうっと眺めていた。
彼には坂東の行動がいまいち理解できていなかった。
壊れればそれはゴミだ。どれだけ素敵なものでも、宝物はすぐ壊れて取り返しのつかない残骸になってしまう。
だから、なくさないように見つからないように閉まっておかなくてはならなかった。
海原にとっての『もの』とはそういうものだった。
しかし、坂東は修復を試みるという。
「海原・・・俺はここに初めて訪れた時にこうも『何もない』理由を少しは考えるべきだったな。すまない、配慮が足りなかった」
海原は絵を鑑賞することが好きだ。
絵を描いているさまを見ることが好きだ。
芸術に関する話題が好きだ。
学科外の講義をひっそりと受けに来るほどに。
音楽も好んで聞く。
レコードもCDも持たないけれど、気に入った曲はスマホに入れていつでも聴けるようにするくらいには。
けれども、彼の部屋はいつも薄暗くて、色彩のあるものなど何ひとつありはしなかった。
坂東はその理由を悟ったのだろう。
「いや、君は悪くない。悪くないんだ。去年は気を付けていたのに、気を緩めてしまったから・・・・・・。こうやって目立つところに置いていたおれが・・・」
「いいや、悪くない」
彼にしては珍しくきっぱりと言い放った坂東に気圧されて、大柄な体がびくりと揺れる。
散らばった最後の欠片に触れた坂東は、珍しい表情をしていた。目を伏せて懐かしく思うようなそんな顔。
「どんなに素晴らしい絵だって、目を奪うのは一瞬だ。対外的な価値ではない、自分自身が気に入ったからという理由でこうしていつでも見える場所に飾ってくれる客は得難いものだよ。・・・・・・大事に扱ってくれたこと、感謝する」
その口元にうっすらと笑みが浮かぶ。じわりと滲み出て、空気に溶け込むようなそんな微笑みだった。
しかし、袋を抱えて立ち上がった頃には、その物憂げな雰囲気は消え去っていた。
いつだって坂東の言動は唐突だ。
「ああ、そうだ海原」
固まっている男に構わず、彼は更に畳み掛ける。
「泊まりの用意をしてこい。一日なら宿の融通はできる。アトリエのソファーで良ければ、だが」
唐突な一言に目が丸くなる。
「・・・なんで?」
「ここ寝室だろ。おまえは確か布団で寝ていたな。今夜こんな有様でできるとでも?」
「なんとか物をどけて敷けば・・・」
「心は。納得しているのか」
「・・・」
そうだ、とは言い難い。
自分ひとりではなかったこと、少しでも糖分を得たおかげで落ち着いてはいられるが、まだどこかぼんやりとして現実味がない。大きなショックを受けていることには間違いなかった。
「明日は講義がないだろう。俺も手伝うから、今日は早く休んでしまえ」
袖を引っ張られて、やっとこくりと海原は頷いて動き出した。
絵画に持てる全てを費やして、生活の術というものをどこぞに忘れてしまった友人に対して、いつもなら海原があれやこれや世話を焼く方だと言うのに、今日のこの様子は一体どうしたことか。
まるで弟でも扱うようにほいほいと流されて。
・・・そうさせるほどに、海原が本調子ではないということなのだろうけれど。
「鍋の具材はいるか・・・?大根・・・」
「好きにしろ。うちにカセットコンロはない。使うならここから持っていけ。大根はない。人参と豆腐はある」
「きのこと肉・・・途中でスーパーに寄っても?」
「ああ、鶏が食べたい気分だ」
いつも通り、変わらぬ坂東の有り方。声を荒らげることも無く、さりとて、放っておくこともせず。淡々とした態度のままであることが海原にとって一番の救いだった。