夕刻、パトロールの最中にマリオンはよろけてしまった。そうして支えようとしたガストに手を握られた。
よろけたのは決してマリオンの体幹が弱かったからでなく、ファンを名乗る女性らがマリオンへ押し寄せたからだ。ファンを押し返して退けるわけにはゆかず、また彼女らも別の市民らに後ろから圧迫された故なだれ込んだのであり、マリオンは押されるままよろめいた。
「うおっ! 大丈夫か、マリオン」
「当たり前だ、この程度のこと」
「ははっ、ならよかっ――て、悪りィ!」
ガストはマリオンの手を握ったことに今さら慌てて謝罪した。
マリオンが握り返しているので、ガストも振り払いこそしない。が、マリオンへ許可なく触れるのはまずいと思っているのか、ガストの顔は真っ青だ。一体オマエはボクのこと、何だと思っている。
「市民を巻き込まずに済んだのはよかった。いちいち青褪めるな」
「お、おう」
「……触れたければ、触れていい」
最後の言葉は小声で返したので、周りの市民らには聞こえなかったようだ。なだれ込んだ女性らはすでにマリオンから離れていて、マリオンへの謝罪を口にしている。
気にすることはない、とマリオンが微笑んで言い返すと、周りの女性らは一息に沸いた。
いくつか【サブスタンス】の回収をしたのみで、今日のパトロールはどうということもなく終わりを迎えた。マリオンにとっては張り合いのない任務となったが、動けば腹は空くものだ。
マリオンはタワーへ戻り、司令への報告を簡単に終えた。軽く何か食べようか、と考えながら部屋へ戻ると、部屋のキッチンから食欲をそそる匂いがしていた。この香りはミートソースだ。
「報告お疲れさん。マリオンも要るか? ミートソースのパスタを作ったんだ。トレーニング行く前に、少し食っておきたくてさ」
「……もらう」
「よかった。ちょうど出来上がったところだ」
ガストはマリオンの返事へ嬉しそうな顔して、棚から皿をもう一枚取り出した。
この男はヒトの世話を焼くのが好きなのか、こちらがガストの申し出を受け入れると妙にうきうきした顔になる。ガストはダイニングテーブルへ、出来立てを盛った皿の二つを並べた。そしてマリオンに席へ着くよう促す。
「街中を動き回ると、腹へるよな。どうぞ、召し上がれ。味の保証はしないが」
「オマエの料理の腕前に期待なんかしてない。『いただきます』」
マリオンが言うと、何故かガストはマリオンに意外そうな目を向けた。不審に思ってマリオンは視線を返したが、ガストは慌てて目を逸らした。逸らした先は料理の皿だ。ガストは「いただきます」を言ってマリオンの正面で先に食べ始めた。
心なしかガストは嬉しそうな顔をしている。何なんだ。
「美味いか?」
「……わ、」
「悪くないだろ」
悪くはない、と返そうとしたマリオンと被って、ガストが先に同じことを言った。改めて言ってやるのもおかしなことなので、ふんと息をついてマリオンは食べ進めた。
フードプロセッサーにぶち込んだ材料を肉と炒めて、後はワインとトマト缶、など訊いてもいない料理の手順をガストは身振り手振り話したり、マリオンはこんなモンでも上品に食う、と大口でパスタを頬張りながらこちらを眺めたり、知ってはいたが食事中でもヘラヘラとよく喋るヤツだった。
ガストがマリオンの食べ方を真剣に見つめるので、マリオンは仕方なくパスタの食べ方をレクチャーしてやった。ガストは真似して大人しく二口ほど食べたが、「俺には合わないみたいだ」と肩を竦めてすぐに元の食べ方に戻った。
「……おい」
「あっ、すまん。じっと見つめるのはダメだったな」
わかっていて、どうしてコイツはいつも「血の掟」を破るだろう。鞭打ちの回数を増やしてやろうか、と思いをめぐらしつつマリオンはパスタを食べ進める。
大口で食べていれば食べきるのも早く、ガストの皿はいつの間にかすっかり空になっていた。食べ方こそガサツだが、口を拭う程度のマナーはわきまえているらしい、ガストの手はナプキンを置いた。
ガストは手持ち無沙汰で、マリオンのことを眺めてでもいるだろう。ガストは再びマリオンに視線を向けていた。暇つぶしに見つめられているなんて我慢がならない、とマリオンが口を開く直前に、先にガストが言った。
「あの、さっき、マリオンが言った件なんだけどさ」
「は? パスタの食べ方なら、何度も教える気はない。ボクの手を煩わせるな」
「違う違う! そうじゃなくて、パトロールの最中に言ったやつだよ。『触れていい』って」
「それが、どうした」
ガストが一度で理解ができなかったと言うなら、「血の掟」に反する。口元を拭き終えて、マリオンはテーブルへ手を置いた。
二人の間に恋慕の情のあることを認め合ったのは、つい先日のことだ。詳細を思い起こすことはしないが、手を握られるのが嫌でない程度には、マリオンもガストのことを受け入れている。
ガストの乾いた大きな手が、マリオンの手の甲に重なった。
「なっ、なんだ! ボクは、『触れたければ』、触れていいと言ったんだ。無駄にボクを拘束しようとするな」
「ちょっ、拘束って……触れたいって思ったから、触ってるんだよ。いやあの、マリオンがあんなふうに言うなんて、意外だったっつうか」
ガストの手が、マリオンの手を甲から淡く握った。
マリオンの胸がドッとおかしな音をたてた。血の沸き立つ、あの嫌な昂りとは全然違うのに身体が熱い感覚がする。走って逃げだしたい気持ちなのに、手を振りほどいてしまうのは惜しい心地だ。いや、惜しいとは、どういうことだ。自分はガストに触れられていたいのか。
「うわっ、怒らないでくれ! 当たり前だが、馬鹿にする意図なんてないんだ。俺が近づくのをお前が許した感じがして、嬉しくてさ」
「オマエはそんなことが嬉しいのか」
「嬉しいよ。悪かったな、経験が浅くて」
ガストはいじけたような声を出して、マリオンの手から手を退けようとした。
自分に過去の交際経験がないことをかなり気にしているらしい、ガストは珍しくマリオンに拗ねて見せた。ガストの態度と、手の熱が離れゆくことにマリオンは変に気が急いた。
離れようとする乾いた手へ、マリオンは指の背をとんと当てた。
「ん?」
「……そんなに嬉しかったなら、もう少し許してやってもいい」
マリオンの言葉へ、ガストは間抜け面になった。
普段ヘラヘラしている顔が忙しくまばたきを繰り返し、まだ触れていてよいということか、それとも別の触れ方をしてよいというのか、など言って焦る。次いでガストは、マリオンへ無駄な問いをぶつけたと思ったらしく、「待ってくれ! しばかないでくれ!」と慌て始めた。
「うるさいぞ」
「悪りィ! あークソッ、スマートにいかねぇ。マリオン、えっと、じゃあ、えっと……キスをしても、いいか?」
「きす」
マリオンはガストの握るままいる手がぴくっと動いてしまった。
お前が嫌ならいい!などとガストがまた大騒ぎしたら今度こそ鞭で打ってやろうと思ったが、ガストは神妙な顔つきでマリオンの手をそうっと握っていた。ふざけた気配はなく、いつもの馬鹿らしい振る舞いでもない。急な申し出ではあるが、二人の関係を考えれば不躾とは言い難い。
恋仲になったとあれば、いずれはガストとそういった行為をすることがあるのだろうか、とマリオンも漠然と考えてはいた。何でもない日常の延長で、こうして直面すると思っていなかっただけのことだ。
未知のこと故、腹立たしくもほんの少しだけ気持ちが動揺してしまったが、心細そうな目でマリオンを見つめるこの男を拒む理由はなかった。
「……許す」
「マジで。あー、あーっと、うん、そっち行くわ」
ガストはテーブルに膝をぶつけながら立ち上がって、妙に険しい表情でマリオンのわきへ移動した。マリオンが申し出を受けてやったのに、ガストはいつもみたいに喜ぶんじゃないのか。ガストはかしこまった雰囲気で、マリオンへ向かって身を屈める。
キスといったらサウスの街中やらでカップルが交わしているアレで、映画の中でも見ることは多い。行為としては見知ったものだが、果たして自分はどう構えればよいのか。目は閉じるのか。
マリオンが速い鼓動を持て余しながら考えているうち、屈んだガストは丁寧にマリオンの手を取った。ガストの手はマリオンよりも硬くて温かい。コイツはヒトの手を握るのが好きなんだろうか。嫌ではないので、好きにさせておいてやる。
「えっと、じゃあ」
言ってガストは、ごく軽い仕種でマリオンへ顔を寄せた。直前までテーブルに膝をぶつけるほど慌てていたくせに、浮薄とまではいわないがガストは少し余裕が見える。こっちはどうしていたらいいか、心臓を早鐘打たせながら考えてやっているというのに――とマリオンが腹を立てている間に、ガストはうやうやしく口づけた。マリオンの指に。
「は?」
「っ、ダメだったか!? 許すって言ったよな!!?」
「そ、そんなところにキスされるなんて、思うはずがないだろう!」
マリオンが叱咤すると、ガストは「いきなり口は、嫌かと思って!」と言った。嫌なわけがないだろうが。あんなふうに申し出られたら、唇にキスされると思うに決まっている。
考えて、マリオンは自分の思考に顔を思い切り歪めた。「嫌なわけがない」などと、自然に思い浮かんでしまったことに苛立つ。ガストのせいだ。
「お、おぉ、嫌なわけじゃないんだな」
「は? なんだ」
「いや、今マリオンが自分で言っただろ、『嫌なわけがない』って」
口に出ていたらしい。マリオンは忘れろ、とガストへ怒鳴った。
自分のことをこんなに煩わせるなんて、今のガストは十分以上鞭で打つに値する。能力を発動するべくマリオンは椅子から立ち上がった。
しかし懲罰対象を見据えてやった途端、マリオンは両頬をガストの手に包まれた。振り払う間もなく、ガストが唇をマリオンの唇に上から重ねる。
「うわ、柔らけ……痛ってぇ! 悪かった! 俺が悪かったよ、もうしないって!!」
「なっ、もうするなとは言っていない!」
「じゃあなんで鞭で打つんだよ!」
ガストが大慌てで身を守りながら、照れ隠しか?と的外れなことを言うので、マリオンは鞭打つ回数を倍にした。
「おい、洗い物をしておけ。ジャックたちの手を煩わせるな」
「痛ってて……あぁ、わかってるよ。ちゃんと洗っとく。それで、その、これからもキスするのは、いいんだよな?」
「…………ふん」
「え、どっち」
顔を覗き込もうとするガストをマリオンは思い切り鞭で打った。
「痛てぇって!」
「否定してないんだから、わかるだろ!」
言う必要のなかったことを言わされたので、マリオンはガストにもうひと打ち鞭をくれてやった。打たれてガストは痛そうにしながら、テーブルの上の皿を片付け始める。
ガストは皿をシンクへ置くと、ため息をつくマリオンへふと視線を向けた。鞭で打たれて反省したかと思いきや、マリオンと目が合ったガストが吐息で笑う。
「後で、もう一回したい」
「っ、は? いいから、早く洗いものを片付けろよ」
ガストは「さっさと済ますよ」と答えて洗いものを進めた。違う、別に自分は、早く皿を洗い終えてキスをしろ、というつもりで返事したんじゃない。
ぐっ、とマリオンは唇を引き結んだ。もしもガストが勘違いをしていたなら、また鞭で打ってやる。マリオンは熱くなった頬を持て余しながら心に決めた。
了