ガストが居心地のいい地下室でくつろいでいると、扉の向こうから階段を降りてくる音がした。
キビキビした靴音はもちろんマリオンだ。他は誰もこの屋敷にいない。会いに来てくれたのか、と待ちきれずガストは扉を開いて出迎えた。
「マリオン!」
「うわっ、いきなり開けるな!」
ガストは謝りながらマリオンを部屋へ迎え入れた。
いろいろあって先日、ガストはマリオンからこの地下室を宛がわれ住んでよいことになった。日が沈んでからマリオンへ会いに、夜な夜な屋敷へ通っていたガストにはマリオンの申し出が有難かった。雨の日でもマリオンに会うことができるし、昼間こうしてマリオンから来てくれることもある。
マリオンは手燭をテーブルの端に置いた。
「知らせがある。この階段の上の辺り、廊下の窓を目張りしてやった。日が入らなければオマエも少しは出歩けるだろ」
「それは有難ぇけど、マリオンが困るんじゃないか? 暗いだろ」
「ボクはこの屋敷に住んで長いから、多少視界が悪いくらいどうってことない。それに、屋敷じゅう全部が暗いわけでもないし」
感謝しろ、とばかりにマリオンが胸を張るので、ガストは笑って礼を言った。
マリオンは意地の悪いことや無茶を言うこともあるが、ガストにとてもよくしてくれた。こうしてガストが暮らすのによいよう計らってくれるし、定期的に血をくれる。対価としてガストは屋敷のある森の外の話をマリオンに聞かせてやっていた。
血に関しては、催淫効果云々で一悶着あったものの今後も吸わせてもらえる、ということになっている。あれ以来ガストはまだ腹が空いていないので、実際どうなるかはまだわからない。
マリオンが顔を見せてくれたこと、それにガストが少しでも出歩けるように対応してくれたことが嬉しくて、綻ぶ顔でガストはマリオンにソファを勧めた。柔らかいソファに絨毯に、上品な調度品を地下室へ揃えてくれたのもマリオンだ。
「ガスト。吸血鬼は、バラを好むって聞いた。……いや、オマエために調べたんじゃないからな。たまたま、ちょうど知っただけだ」
「え? バラ? 花としちゃ俺も好きだけど、精気を吸えるかどうかは個人差があるな」
「なんだ、そうなのか」
マリオンは手にしていたバラを見下ろして残念そうに言った。手燭と逆の手に一輪持っていたようだ。
バラから精気を吸えるのは、吸血鬼の中でもごく一部だ。吸えるかどうかは本人の経験による。バラを吸う吸血鬼は「他者への愛を知る者」であるとかで、要は恋やらをしたことがあるかどうかだ。
吸血鬼はガスト含め、自分本位のヤツが多い。だからかバラから精気を得られる吸血鬼は全体でいうと少数派だった。
これまでろくに異性と関われていないガストは、もちろん多数の方にあたる。
「あ、いや、好きか嫌いかでいったら、俺は好きだぜ。精気を吸えないってだけでさ。華やかでかわいいもんな」
ガストはマリオンの手からバラを取った。マリオンをがっかりさせたくなかったからだ。
バラに触れるのが得意なわけではないが、触ったところで日の光みたいに身体を侵すわけでもない。眺めている分には好き、と言ったのも本当だった。
「……もしかして、バラで食いつなげるならもう血をやらなくて済む、って考えたのか?」
「は? バラは吸血鬼にとって、おやつみたいなものなんじゃないのか?」
「はは、おやつって……まぁそんなところだな」
血をやらない、とはマリオンは微塵も考えていなかったらしい。マリオンがバラを持ってきたのは、純粋にガストを喜ばせるためだったみたいだ。
血を与えるのをマリオンが嫌がるようなら、出ていくべきかとガストは頭に過ったのだ。定期的に血をもらえる環境なんて本来滅多にない。ガストはマリオンを気に入っているから、迷惑になるくらいなら出ていった方がいい。
マリオンからすれば、バラは飼い主としてガストにおやつを与えてやろうか、程度だったのかもしれない。バラを受け取ったガストを見上げて、マリオンの顔は心なしか嬉しそうだった。
マリオンに拾われ、雨の日以外毎晩会いに通って、これまでも今も昼間はマリオンのことばかり考えている気がする。今夜は何の話を聞かせてやろうかとか、どんなリアクションを見せてくれるだろうとか、まだ知り合って数ヶ月だというのにガストはマリオンのことを一番親しく思う。
眺めていて、ふとバラがマリオンに似て見えた。目を引く華やかさに加え、たおやかに見えながら力強いところ、トゲがキツいのまで含めてそれらしい。淡く香った匂いを求めて、ガストはバラを顔へ寄せた。
途端、バラが色あせて生気を失った。
「へ?」
「食べられるんじゃないか」
精気を得ることは果たして食べると表すのか。いや、そんなことよりも、自分はバラから精気を吸えてしまった。
マリオンが笑う。
「食べられるなら、庭園からもう少し摘んできてやってもいい。待ってろ」
「いや!! あぁいや、今はいいよ。せっかく来てくれたんだし、ゆっくりしてってくれ」
「なんだ、急に大声で」
大声にもなる。だって、いつの間に自分は「恋した」というのか。
たしかに今まで、マリオンのことばかり考えていたのは事実だ。マリオンが喜んでくれるのは嬉しいし、マリオンの様子がいつもと違えば腹の底から心配だった。でもこれは友情の範疇なのだとガストは思っていたのだ。いいや、恋も友情も似たようなものなのか?
マリオンに見つめられて胸がそわつく。もともと似たような感覚はあったが、これは恋に分類されるものだったのか。
「バラは、あとで鳥にでも摘んでくるように言いつけるか」
「へっ、へぇ、鳥もマリオンの言うこと聞くんだな」
このあいだ、オオカミをけしかけられそうになったときは驚いた。マリオンは自身の血が特別なのだと言っていたが、マリオンの血がおいしいのも関係あるんだろうか。
動揺しているのを落ち着けたくて、ガストは頭に余計なことばかり思い浮かぶ。
「あぁ。場所を指定してやれば、鳥だって花くらい摘んできてくれる。そうだオマエ、バラは好きなんだったな? 夜なら庭園を案内してやらなくもない。花は閉じてしまうけど」
「そ、それなら、お願いしようかなー! このバラもそこから摘んできたんだろ? 綺麗でいいな」
「当たり前だ」
マリオンは褒められて誇らしげなのに、どことなく照れたような気配で返事した。
「あぁ、好きだ」
「さっきのバラ、そんなにおいしかったのか?」
「えっ? わっ、あぁっ、いや」
「庭園のバラを食べ尽くすなよ」
声に出てしまっていたのをガストが取り繕う前に、勘違いしてくれたマリオンがイタズラっぽく笑った。「好きだ」ともう一回、今度は心の中で言う。
バラから精気を吸えるようになって気づくとは逆のような気もするが、気づこうと気づくまいと、ガストの気持ちが変わったわけじゃない。
ただ、血をもらうとき、もっと優しく今以上大事に扱おうとガストは心に決めた。
「一体なんなんだ、オマエは。また変な顔して……お腹が減ったのか」
「え、えぇーっと! いや、別にそんな! アッでも、もらえるなら、今夜にでも」
「おい。大声で、うるさいぞ」
厳しく言ったが、マリオンは「それなら今夜は、血をやってから庭園に出ることにする」とガストを見上げて言葉を続けた。
初めてデートの約束をしてしまった。といっても屋敷の敷地内だが、マリオンと出歩くなら楽しいに違いない。
テーブルの上、色あせたバラを見やる。今夜はとびきり優しく血をいただこう、とガストは胸の中のくすぐったさを押さえて一人頷いた。
了