(今日も遅くなっちまったな‥さっさと鍵返して帰ろう‥)
すっかり日の沈んだ空を窓ガラス越しに見つめながらシンと静まり返った廊下を足早に歩く。12月ともなると日が落ちるのもぐんと早くなり、校内は既に真っ暗で生徒も教師も見当たらない。
1人自主練習に没頭していた魚住であったが、切り上げるタイミングを見失いついついこんな時間になってしまった。昨日も一昨日も同じ過ちをおかしているのだから我ながらいい加減学習しろよと思うがまだまだ未熟な身、やるべきことは山積みなのだから仕方がない。幸い辺りは暗いが時間自体はそこまで遅いわけではない、今から帰宅して夕食と風呂を済ませてもゆっくり体を休めるだけの時間は確保できるだろう。
「いて゛ッッ‥!」
(!?なんの音だッ‥!?)
下駄箱を通り過ぎた頃、背後から"ドン"という鈍い音と痛みを訴える人の声。もしかしたらこの暗闇で何かに躓いて転んだのかもしれない。街灯がある場所まで誘導しよう、自分はこの暗闇に目がだいぶ慣れてきているので力になれるはずだ。そう思い魚住は物音のする方向へと足を向けた。
「大丈夫です、か‥?」
「あれ、その声‥もしかして魚住さんですか?」
「仙道?お前、どうしたんだ。こんなところに蹲って」
「あはは、ちょっとこの柱にぶつかっちまって‥」
床は蹲っている人影へと駆け寄るとなんとバスケ部の後輩であり、そして魚住が密かに恋心を寄せる男、仙道彰であった。それなりの勢いでぶつけたのだろう、両手で額を押さえており、目尻にキラリと涙が光るのを暗闇の中でも確認できた。
突然訪れた思い人との遭遇に魚住の小さな心臓はドキリと跳ね、トクトクトクと拍動は徐々に速まっていく。練習が終わってすぐに越野たちと一緒に帰ったものと思っていたのだが、一体何の用事で1人残っていたのだろうか。まさか告白、そう思った瞬間胸がギュッと締め付けられるがすぐに頭を振った。仙道がモテるのは今に始まった話ではない、いちいち気にしていてはキリがないではないか。
「魚住さんは自主練っすか?」
「あ、あぁ」
「遅くまでお疲れ様です」
「あ、ありがとう‥。その、お前はどうしたんだ?越野たちと帰ったのかと思ったぞ」
「先生に呼び止められちゃって」
未だ床に蹲ったままの仙道に手を差し出すと、「ありがとうございます」という柔らかな声と共に想像よりも幾分か温かな手が差し出される。すっかり芯から冷えてしまった体にはそんな温もりも心地良い。しかしそこで自分が自主練習を終えたばかり、しかもフットワークで汗をたくさんかいたことを思い出してしまった。
汗なんて普段練習中や試合中に滝のようにかいているし、それを仙道にだって見られているというのにそれでも恥ずかしくてたまらない。とはいえ今手を引っ込めようものなら仙道が転んでしまうかもしれない。しかし思い人に手汗まみれの手を触らせるのは、そうグルグルと思考を巡らせていると突然仙道が魚住の無骨な手を上下から包み込んだ。
「なッ‥」
「魚住さんの手ってやっぱり大きいっすね‥かっけえな‥」
「‥‥て、手汗かいてるから‥あんまり触るな‥」
「全然気にしないっすよ。それに魚住さんが練習頑張った証拠でしょ」
「ッッ‥‥い、いいからさっさと立ち上がらんか」
「あは、すみません」
落ち着いたテノールが紡ぐ言葉にぶわりと全身が燃えるように熱くなる。仙道は本当に罪な男で、こういうことをさらりと言えてしまうのだ。優しすぎるのも考えものだなと、仙道にそんなつもりはないと分かっていながら毎度勘違いしてしまいそうになる自分を棚に上げてそう思った。
仙道は魚住の手を借りながら、そして柱に反対の手をつきながらゆっくり立ち上がる。普段と違って覚束ない所作に何故だか一向に合わない目線、もしや仙道はこの暗闇のせいで周囲があまりよく見えていないのだろうか。そうだとすれば柱にぶつかってしまったのも納得がいく。
「お前、もしかして見えてないのか?」
「え?あぁ、オレ鳥目みたいで」
「鳥目‥」
「意外ですか?」
「あ、あぁ‥‥お前は鳥というより猫っぽいからな」
「え」
神がかったバスケセンスに端正な顔立ち、おまけに性格良しと無敵とも思える仙道の意外な弱点。いや、弱点と言えるほどのことでもないが部活動などで遅くまで学校に残ることが多い仙道からすれば鳥目というのは不便が多いことだろう。
それに仙道を猫のような男だと常々思っている魚住にとって鳥目だというのは正直言って意外であった。しかし仙道はそんな魚住の発言に驚きパッと目を見開き、そしてすぐに破顔した。
「あははは!オレのこと猫みてえなんて言うの魚住さんくらいですよ」
「そ、そうか‥?」
「よくて大型犬っすね。あとはライオンとか熊とか」
「猛獣ばっかりじゃないか」
「ね、ひどいでしょ」
そう言いながらも大して気にしてはいないのだろう、ケラケラ笑う仙道にキュンと胸が高鳴り頬が熱くなる。柔らかな笑みを浮かべる姿が印象深いしそんな仙道も魅力的だと思うが、しかし歯を見せ声を上げる年相応の笑い方もいたく可愛らしい。不便しているだろうに悪いが仙道が鳥目で助かった、そうでなければ不自然に頬を染めた理由を問い詰められかねない。
それにしてもライオンに熊、魚住としてはどちらも仙道のイメージではない。友人たちはおそらく仙道の体の大きさからしてそう言ったのだろうが、ライオンも熊もどちらかといえば海南の牧や宿敵赤木のような男たちの方が相応しいだろう。仙道は上背は高いがそこまでガッチリしているとは思わないし、あのしなやかに躍動する体躯はライオンというよりはトラやヒョウの方が近いか。いや、しかしやはり。
「魚住さんはなんでオレのこと猫っぽいって思うんです?」
これだ。こういうところが猫っぽいのだ。暗闇で距離感も掴めないのか、唇が触れてしまいそうなほどに寄せられた仙道の顔に自分の認識の正しさを再確認した。
撫でてくれと擦り寄り膝に乗ってきたかと思えばするりと逃げていく猫。彼らと同じように仙道はこうして突然体を寄せ、時には触れてきて、しかしながらその本心は決して悟らせてはくれない。しかも誰に対してもそうというわけではないらしく、少なくとも池上は仙道にそんなことをされた記憶はないとのことらしい。そんなところも実に猫らしいなと思うのだ。
「そ、そういうところだ‥」
「??どーいうところです?」
「そうやって、その‥急に距離を詰めてきたり触れてきたり‥その気がないのにそういうことをするな‥いつか女に刺されても知らんぞ」
「‥‥あはは、なるほど。魚住さんはオレのことそう思ってたんすね」
微妙に目線の合わない深い青がスーッと三日月状に細められる。それはまさに猫が時折見せる仕草そのもので。確か意味があった気がしたが、どういった時に見せる仕草だったかはハッキリとは思い出せなかった。
というよりは思い出せる余裕がない、という表現の方が正しいだろうか。というのも魚住は仙道の発した言葉に焦燥感を覚え、手足が冷えていく感覚に陥っていたのだ。理由はよく分からないがどうやら仙道に不快感を与えてしまったらしい。説教じみた真似が気に食わなかったのだろうか、それとも大して親しくもない魚住が猫みたいだなんだと考えを述べたことが気持ち悪かったのだろうか。どちらにせよ早く謝らねば、そう思うのに口は少しも動いてくれない。このままでは仙道に嫌われてしまう、そう思っていると突然仙道ががばりと抱きついてきて魚住の頭は一瞬で真っ白になった。
「‥魚住さんにしかしねえから刺されたりしません。安心してください」
「ッ‥‥‥あぁ‥」
「ふふ。魚住さん、ちゃんと意味分かってます?」
分からないはずもない、魚住とてここまでハッキリと示されて理解できぬほど鈍感ではない。しかし理解していることとこの状況が飲み込めているということはイコールではなく、決して離れていくことのない温かな体に魚住の脳内は混乱を極めていた。
仙道を猫のような気まぐれな男だと思っていた。だから思わせぶりな態度を取るのだと、仙道彰とはそういう男なのだと、だから勘違いしてはいけないと、そう思い込んでいたのだ。しかしながら実際はそうではなく、あれは仙道なりのアプローチだったということらしい。そこでふと池上に仙道の話をした時の生温い目を思い出した。まさかあれは魚住の恋心を、そして仙道の行動の意図も全て分かっていたからだったのだろうか。そう思うととてつもない羞恥心が襲ってきて、今すぐ穴に埋まりたくなった。
「‥‥魚住さん‥す、すみません‥オレなんか、勘違いしてたみたいで‥はは、はっず‥」
「ちっ、違うッ‥!や、違くない、その〜〜ッッ‥と、とにかく待ってくれッ‥!」
「わッ、分かりましたからそのッ‥!い、一旦、離してくだ」
「ダメだ‥離したらお前、逃げるだろう‥」
単に衝撃と羞恥でフリーズしていただけなのだが、結果的に仙道のアプローチに対して無言無反応を貫いてしまったために仙道の体がそろそろと離れていく。待ってくれ。途端に消えていく温もりに、魚住は慌てて言い訳とも言えない言葉を叫びながら仙道を抱きしめた。今このまま仙道を帰してしまえば金輪際あの距離感を許してくれなくなるだろう、そんなのは絶対に嫌だ。
逃げられないように腕に力を込めると、仙道の首筋から整髪剤の匂いに紛れて僅かに汗の匂いがした。ということは魚住の汗の匂いも同じように仙道に伝わってしまっていることだろう。しかしそれでも構わないと思えた。否、自分の汗の匂いなど気にする余裕もないほどに必死であったし、なにより魚住は興奮していたのである。今までは例え部活の最中であろうと仙道からここまで汗の匂いを感じたことはない。つまり今はそれだけ、汗の匂いを感じてしまうほどに仙道が近くにいるということに他ならない。
「‥‥魚住さん、すげえ心臓バクバクいってる‥」
「あ、たり前だろう‥すッ、好きなやつと抱きしめ合ってんだ」
「え」
「‥‥す、きだ‥‥お前が好きだ、仙道‥」
言ってやった。言ってしまった、もう後戻りはできない。意を決して仙道に思いを伝えたはいいものの臆病風に吹かれ、腕の中の仙道の様子をこそっと盗み見る。すると暗闇でも分かるほどに、首まで赤く染めた仙道がこの上なく幸せそうな笑みを浮かべて魚住の胸板に頬を寄せていて、そんな仙道のいじらしさがたまらなくなった。胸が詰まるほどの幸福感、そして優しく棉で包み込んでやりたい慈悲の心とこの男の全てを余さず手に入れたいとと思う激情と。一言ではとても言い表せない、アンバランスで不細工で、しかし何よりも美しくて尊くて。きっとこれが愛なのだろう。
魚住が恋に落ちるのはこれが初めてではない。幼稚園の先生に幼馴染の花ちゃん、どれも実を結ぶことはなかったけれどそれでも人並みに恋というものを経験してきた。けれども17年生きてきて、いくつもの恋を経験してきて、今初めて愛の形を知った。仙道に恋をして、仙道の思いに触れ、仙道と抱きしめ合って初めて。
「‥‥お前は、そんなに可愛い顔をするんだな」
「かッ‥!?そ、そんなの‥初めて言われました、けど‥」
「そうか‥それは、なんだ‥‥悪くないな‥」
「ッッ‥‥て、いうか‥魚住さん、もしかしてオレの顔見えてます‥?」
「ん?あぁ、まあぼんやりとは」
正直に白状すると仙道の瞳に映る自分の赤い顔が見えるくらいにはハッキリ見えているが、らしくなく狼狽える仙道にありのまま伝えるのは躊躇われて少しだけボカした。が、仙道はそれでもたまらなく恥ずかしいのか魚住の体にへばりつき、赤く染まった頬も、羞恥で濡れた瞳も、へにゃりと下がった眉も全て隠してしまった。
「仙道、好きだ‥顔、見せてくれないか‥?」
「ぅぅッ‥‥魚住さん、オレも好きです‥大好き‥」
「せ、んどうッ‥」
相変わらず微妙に目線は合わないけれど、伏せていた顔をしっかりとあげ好きだと、大好きだと真摯に伝えてくる愛しい男に胸がいっぱいになった。自分と同じ思いを返してもらえることがこんなに幸せでたまらないなんて、魚住は今まで知らなかった。
好きだ。この男が好きで好きでたまらない。募る愛しさのままに仙道の体に回した腕に力を込めると、仙道は幸せそうに目を細め、それからぼすんと魚住の肩に顔を埋めた。魚住よりも一回り小さな体、勿論抱きしめるのなんて初めてなのにどうしてだろう、すごくしっくりくる。ピッタリと重なってはまり合って、まるで元からこうだったかのような、このままずっとこうしていたいと思えるような。
「‥ねえ魚住さん‥キス、してほしいです」
「キッッ‥!?」
「本当はオレからしたいんすけどほら、暗くて魚住さんの唇がどこか分かんねえから」
前言撤回だ、この男とずっとこうしていては心臓が持ちそうにない。ピッタリと抱き合ったまま耳元でキスしてほしいと囁く仙道に、ようやく落ち着きかけていた心臓は再びバクバクと激しく鼓動を始め、ついでにあらぬところまで反応しかけてしまい慌てて仙道の体を引っ剥がした。
魚住の反応は予想通りだったのだろう、強引に引き離されても仙道はよろめくことはなく、そればかりかニンマリと目を細めていた。魚住を揶揄う少し意地の悪い三日月の瞳はやはり猫のようで。魚住に気を持たせるような思わせぶりな行動は仙道なりのアプローチであったようだが、この様子ではやはり揶揄いの意図も1割2割くらいはあったのではと疑ってしまう。
それでも自分にだけ見せる姿だと思えばこうして翻弄されるのもそう悪くないなと思ってしまうのは思いを通じ合わせて浮かれてしまっているのか、はたまたこれが惚れた弱みというものなのか。意を決して仙道の白い頬に触れる、すると魚住の手に仙道の手が重なった。そのときふと、ここは学校の廊下であることを思い出した。しかし今この状況でやめるなんてことはできなくて、どうか今日だけは許してくれと、この暗闇が隠してくれるはずだと、そう脳内で言い訳やら懇願やらを並べた。そして健気に魚住を待つ愛しい男の唇にゆっくりと顔を寄せた。