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この頃SNSで流行りのJ-POPを口ずさみながら尻ポケットから鍵を引っ張りだした。リングに通された鍵は二つ。一つは土屋が借りている、会社から徒歩5分の場所に建つマンションの鍵。そしてもう一方は土屋の恋人、諸星大の住むマンションの鍵だ。
やたらと嵩張る荷物たちを左手に纏め、去年の誕生日ようやく貰えた合鍵を鍵穴へと差し込んでくるりと回す。玄関で土屋を真っ先に迎え入れるのはすっかり嗅ぎ慣れた、諸星お気に入りのアロマの匂い。初めてこの部屋を訪れた時は随分洒落た男だなと、今まで周囲にいたが雑で野暮ったい男たちとの違いに驚いたものだ。しかしまさか友人から恋人に昇格するなんて、当時の土屋が知ればもっと——それこそひっくり返るほどに驚くことだろう。
「ただいまぁ」
「おかえり」
勝手知ったる態度で廊下を抜けリビングに入ると、ソファに腰掛け雑誌を眺める恋人の姿。土屋の来訪に気付くなり柔い笑みを浮かべ、ひらりと手を挙げた。
諸星と同棲はしていない。まだ、というだけで土屋の中ではいつか二人の職場の間あたりで一緒に住むという計画ではあるが。しかし相手は合鍵をくれるまでにも随分と時間を要した、意外にも慎重派らしい諸星。急いては事を仕損じる。提案するならば入念に、しっかりと外堀を埋めてからだ。
それでもこの家に会いにくる時、土屋は『お邪魔します』ではなく『ただいま』と言う。それは諸星はそっちの方がいいからと言ったからだ。恋人となって初めてここを訪れた日、ソファに並んで座る土屋の小指を弄りながら『恋人同士なのに他人行儀で、なんか嫌じゃん』と、可愛らしく頬を染めて。あの日の諸星の可愛さは1時間や2時間では語り尽くせぬほどであった。
当然好きだから恋人になったわけだが、あの日から土屋は諸星にゾッコンだ。諸星と付き合う前、数名の女性と交際したこともあるがこんなに入れ込むなど初めての経験。きっとかつての恋人たちが今の土屋を見ようものなら驚くことだろう。なにせ土屋自身、そんな己の変化に戸惑い続ける毎日なのだから。
「外寒かったろ。暖房入れるか?」
「いや、入れんでええよ。すぐシャワー浴びるし」
「そうか」
さりげない優しさ、そしてしつこく食い下がることはしない引き際の良さ、こういうところが一緒にいていたく心地よくて好きだなぁと実感する。こういったことができる者も土屋の周りではあまりいなかったため関東と関西とではこうも違うのかとも思ったが、決してそうではないのだと東京の本社へ異動してすぐに嫌というほど思い知らされた。単に諸星個人の気質なのだろう。
ガサリと手荷物たちをテーブルの上へ置くと、その物音に反応したのか形の良いアーモンドアイがこちらを見る。すると途端にキュッと眉を寄せ、分かりやすく不満を瞳に映す諸星。しかしすぐに視線は雑誌へと逆戻りしてしまう。
「おーおー、今年もまたすげえなぁ」
「あぁコレ?せやけどほとんど義理やで」
「ほとんどねぇ‥」
雑誌から顔もあげずに無感情に言い放つ諸星へ一手仕掛ける。コレは駆け引きだ。土屋が大量に持ち帰った荷物——バレンタインのチョコレートを目にして、明確に嫉妬しながらも素知らぬフリを貫く恋人との真剣勝負。恋人の可愛い姿を引き出したい、あわよくば恋人からチョコレートが欲しい。だから土屋は毎年負けず嫌いの恋人を刺激しようと敢えてチョコレートは断らず、わざわざそれらを片手に諸星の自宅を訪ねるのだ。
諸星の寛大さに甘えている自覚はある。それでも恋人にヤキモチを焼かせたいという思いは消えず、それどころか年々大きく膨らんでいく。しかし今年も惨敗のようだ。諸星は妙に含みのある言葉を呟いたのみで、それっきり何も言わなくなってしまった。
悔しい。勝負に負けたことも、袖にされたことも。土屋はいよいよ我慢ならなくなり、コートを適当に椅子に引っ掛けるとソファに腰掛ける諸星に一直線で向かった。
「なぁ、なんも思わへんの?」
「‥なんもって?」
「いや、その‥‥チョコレート」
ソファに横並びに座り揺さぶりをかけるも、思わぬオウム返しに逆に狼狽する。らしくない、土屋は己の失態に唇を噛んだ。なぜだか諸星の前ではいつも自分を見失ってしまう。今まではいつだって、誰の前だってスマートに振る舞えていたはずなのに。
今だってそうだ。子どものようにムキになるのも、見え透いた挑発にまんまとのせられてしまうのも、相手が諸星でなければあり得ないこと。そんな土屋の戸惑いに目敏く気付いた男が片眉のみを器用にあげ、ニヤリと笑う。そんな姿にどうしようもなく心が掻き乱された。
「なに、お前オレが嫉妬すると思ってんの」
「ッ‥‥まあ」
「残念。オレもこう見えて結構貰ってんのよ。ほとんど職場で消費してっからお前は知らねえだろうけど」
何を言うのかと思えばあまりに見当違いな答え。ボール球どころかデッドボールだ。フフンと得意げに言い放つ諸星に、土屋は思わずガクッとソファからずれ落ちた。
察しの良さとそれに伴う思慮深さ、しかしそんなお行儀の良さから大きくかけ離れた突拍子のない言動は諸星の魅力の一つである。面白い男だ、一緒にいて居心地が良くてそれでいて飽きない。それでも今ばかりは正直勘弁してくれと、尚ペラペラと喋り続ける諸星の肩をガシリと掴んだ。
「そうやなくて。ボクが女の子にチョコ貰うん、諸星クンは何も思わんの」
「‥‥」
「それに、ボクはずぅっっと諸星クンからのチョコ待っとるんやけど。そのカバンの中の、今年も牧クンか森重クンの口に入ってまうん?」
「ッッ、お、まえッ‥そこまで知っててんなことしてんのかよ、趣味悪いぞ」
みっともないし、敗北宣言極まりないがそれでもこれ以上は耐えられなくて胸の内を晒す。誠実さには誠実さを、本音には本音を、そんな鏡のような人だ。先ほどまでの余裕のある表情があっという間に崩れ、黒い瞳が目に見えて揺らいだ。そして最後の切り札、諸星が隠し通せていると思い込んでいるであろう秘密を突きつけると揺らぐ瞳が大きく見開いた。
シャワーを済ませ、後は寝るだけのはずの諸星の足元になぜか置かれたままの通勤カバン。そこに隠された諸星の思いのカケラ、逃した場合それが誰の口に入ってしまうのかなんて考えたくもない。分かりやすく羞恥と憤りを宿す眼を小首を傾げて覗き上げ、むくれる頬に触れた。
「諸星クンの性格的に、こうしたら対抗心出してくるんちゃうかなって思うてたんやけど」
「あのなぁ、バスケじゃねーんだぞ‥第一手作りと高級チョコの山見て、その辺で適当に買ってきたチョコなんか出せるかよバカ」
(バカ‥)
明らかに照れ隠しで吐かれた悪態に、土屋は思わず目を瞬いた。節々から育ちの良さが垣間見える諸星であるが、長年体育会系のコミュニティに属していたこともあり相応の粗暴さを時折覗かせる。しかしそれは大半が森重や岸本を相手にしている時。土屋に対してはいつも落ち着いていて、荒っぽい姿などインカレで対戦した際しつこくシュートコースを塞いでやったときの舌打ちくらいだろうか。
だからこそ"バカ"という悪口に面食らった。よもや聞き間違いか、そう思い呆然と諸星を見つめると赤い顔がグッと顰められる。森重たちに向けられるような、しかしそれよりも多分に甘さを含んだ表情に土屋の胸はキュンと、この状況に不相応なほどに高鳴った。
「いや、どういう感情だよその顔。変態か」
「えぇー、変態て酷いわ諸星クン。なぁ、それよりもボク諸星クンのチョコがいっちゃん欲しいんやけど。ダメ?」
「う゛ッ。いや、でも‥ほんと、適当に買ったやつだから」
「ええてそんなの。高級とか手作りとか別にどうでもええし」
「それは女の子たちに失礼だろ」
中々うんと首を縦に振らない諸星。しかしここまでくればもはや駆け引きなどいらない、押しの一手だ。
一層熱を帯びる頬を優しく撫でる。抵抗はない、それを確かめて今度は唇を寄せた。頬、目尻、そして耳元。唇で辿り、甘えるように『ダメ?』『なぁ』『諸星クン』と熱い吐息をのせながら何度も思いを吹き込む。すると目元までもが可愛く染まり、ついに観念したのか諸星は徐にカバンの中を漁り始めた。
「別にいいけど等価交換な。お前どうせ用意してねえだろうし、お前が貰ったチョコ寄越せ。ほら、お前の部下に可愛い子いたろ」
「え」
「え、じゃねえよ。どうせ貰ってんだろ、本命。オレが食うから。ほら、コレやる」
ドキリとした。土屋同様元々は異性愛者、それも共通の友人である牧の話によるとかなり遊んでいたらしい諸星。もしや土屋の職場のマドンナ中川さんのことを、ちょっとイイナと思っているのではないか。土屋という恋人がいながらそのような不貞行為あり得ない——こともないのだ、悲しいことに。なにせ以前飲み会終わりの土屋を迎えにきた諸星は彼女を見るなり、名前を教えろだの紹介しろだのそれはそれはしつこかったのだ。脳内を巡る嫌な想像に嫉妬と不快感でいっぱいになる。
しかしドンと、胸元に走る衝撃に思考は遮られる。慌てて手を添えれば、そこにはちょこんとオリーブ色の包装紙を纏う小さな箱が乗っていた。チョコレートだ、分かってはいたけれど本当に用意してくれたなんてと胸がじんわりと熱を帯びる。しかしそんな感動を邪魔する無粋な手が、早く寄越せと言わんばかりに土屋の眼前に差し出された。
諸星らしくもない、いやにぶっきらぼうな態度。そして一向にこちらを向かない黒い瞳に宿るなにやら複雑な色。それを見て土屋は気付いてしまった。チョコレートと同じく欲しくてたまらなかった、引き出したかった可愛さが尻尾を出していることに。
「ははは、残念やったね諸星クン。あの子は諸星クンと同じようにヤキモチ焼きの彼氏がおってなぁ、本命どころか義理もくれんのよ」
「ッッ、だっ、誰がヤキモチ焼きだッ‥!!」
「チョコ、ありがとう諸星クン。でもごめんな。ボク、チョコよりも欲しいものできてもうて」
「お、おいッ‥なにっ、押し倒してんだッ‥ンぅ、んん‥」
チョコレートを丁重にソファ横のラックに置き、諸星をゆっくりとソファに押し倒す。今後の展開などある程度予見できていただろうに大きな抵抗もなくソファに沈んでいく体、触れ合う寸前自ら閉ざされた瞼、求められているとさえ取れる反応に土屋はたまらなくなり愛しさのままに食らいついた。グイグイと唇を押し付け、酸素を求めて開いた僅かな隙間も逃さず舌を捩じ込む。おそらく諸星も土屋が帰宅するまでチョコを食べていたのだろう、絡めとった舌先や混じり合った唾液からは甘い味がした。
諸星のくれたチョコレートも甘いだろうか。中々素直になれない、土屋が把握しているだけでも3回はチョコレートを渡すのを諦めてしまった諸星。それでも今年も用意してくれた。本人は適当に買ったなんて言っていたけれど、きっと土屋のことを考えて選んでくれたに違いない。それはどんな手作りチョコよりも、高級チョコよりも甘美であろう。
ようやく嫌がる演技をやめ、気持ちよさそうに舌を合わせる諸星からゆっくりと体を起こす。すると名残惜しそうに舌が伸びてきて、嫉妬が消え愛しさに濡れる黒曜石が煌めいた。どうしてやめるんだ、そう言わんばかりの素直でいじらしい眼差し。そして焦ったそうに『あつし』と、肌を合わせる時にしか使わぬ名で呼ぶ舌ったらずな声。これにはたまらず破顔し、土屋はそんな諸星に応えるように『好きやで』と甘く囁いた。
嬉しそうに、満足そうに眇められる瞳。それは先ほど感じたチョコレートの甘みよりもずっとずっと甘やかで、土屋はうっとりと微笑みながら愛しい恋人に再び覆い被さった。