朝焼けのシンデレラマスカレイド
仮面に許されたる夜の戯れ
何もかも無くして、忘れて、奪って
ああ、なんて非道な夜
なんて甘美な夜
(まったく、視界が悪くてかなわんな)
隣国から来訪している貴婦人の警護の任にあたっているアルベールは、それでも場の雰囲気を壊さぬよう、自身も軽鎧ではなく銀の刺繍の入った葡萄酒色の燕尾服に身を包んでいる。剣もその身から離さぬ天雷剣ではなく、細身で繊細な彫り込みの入った華奢なレイピアを飾りと思える程度に腰に下げているのみだった。
他の夜会に比べ遅くまで行われる為、参加の条件も厳しく、また、会場の外の警護はいつも以上に厳重に行っている。故に、天雷剣を必ず持たねばならぬ程の戦闘は想定しておらず、むしろ騎士団長である自分が警護しているという事実──それがほぼ自分がここにいる意義であり、騎士団長の勤めなのであった。まあ、万が一何かしらの戦闘になった場合でも腰に下げた銀のレイピアで誰かに負けるような腕前な訳でもない。その気になれば若手の騎士見習いに与えられる最低限の剣でも、少なくとも自分に勝てる者はいない。それは奢りではなく、ただの真実だし、だからこそ自分は騎士団長なのだ。
付かず離れずの距離でさり気なく婦人に気を配りながら、なるべく自然に場に溶け込む事を意識する。
いつもの典礼等とはまったく別の態度を要求されて、妙な疲労感が時間と共に募っていく。
加えて、瞳の回りを隠す銀の仮面。重さこそないものの、視界が全体的に狭くなり、戦う事を人生に課せられたその身に備わってる本能がそれを酷く疎んでいるのをずっと感じていた。更には己の正体を知ってか知らずか、女性にやたらと声をかけられる。任務の為に離れられない等とは言えず、適当な言い訳で躱すのも、あまりに頻繁だと気疲れが凄い。こんな時アイツががいてくれたら……等と情けなく甘えた事を考えてしまうが、そのたびに胸がぐっと苦しくなる。彼を──ユリウスを国外へ追いやった国からそれでも離れられず、救われた自分だけが地位を失わず国民から慕われる日々に耐えられなくて、余暇があればどこまでも彼を探せど、見つける事はできなかった。そうして、もう半年が経過している。
今思えば、騎士団としての仕事を好ましく思わない彼が何故か異性の絡む大きな夜会などでは仕事を共に買って出てくれたのは、女性をあしらう事にいつまでも不慣れな自分を気遣ってのことだったのではないかと……今更気が付く。何故傍にいてくれた時にそれが分からなかったのだろう「たまたま研究の材料の到着待ちでね」などと毎度適当な言い訳で暇を装ってた事に今更気が付くなんて、自分は本当に愚かすぎる。
傷んだ胸をごまかすように細いグラスの中で気泡を細かく浮かせていたごく薄い緑色の液体をぐいと口に含む。口内から鼻腔に広がる華やかな香りと女性に好まれそうな豊かな甘みにごまかされるように強く後から主張するアルコールの存在に食道がじわりと熱くなるのを感じて、それをいなそうをゆっくりと息を吐いた時、護衛していた当の婦人が寄ってきて小さく耳打ちのように言葉を告げる。深紅の輝くドレスの肩のその背後には鈍く輝く銅色の仮面を付けた背の高い、上質の燕尾服に身を包んだ、明らかに高貴そうな男性が微笑んでいた。場所を変えますので、と、それだけ伝えられただけで意図を察して、では途中までお付きしますと手にしたグラスをテーブルに置くと、男性に肩を抱かれ歩み出す婦人の数歩後ろを歩き出した。
会場の奥へと続く廊下の途中まで歩いた所で婦人がチラリとアルベールを振り向き、それに頷き返すと自分の任務は一先ず仮終了となった。
もう夜もかなり更けている。恐らく二人はもう会場に戻ることもないだろう。かといって、低確率でも彼女が戻ってくる可能性を考えると、勝手な判断で撤収する訳にもいかず、朝までの何時間かを会場で過ごさなければならない。戻ればまた寄ってくるであろう女性達の事を考えると少し気が重くて、先ほど空腹に一気に流し込んだせいで少し悪さをしている酒気を冷まそうとバルコニーに向かう。何時間もそれとなく警護を続けてきたんだ、それくらいの休憩は許される筈だ。
誰かしらいるかもしれないと思っていたが、遅すぎる時間の為か、4つあるバルコニーのうちの一つ、三階東のバルコニーには誰もいなかった。ふう、と息を吐き、曲線を描くバルコニーの木の柵に肘をつき、手の上に顎を乗せる。遠くまで城下町を見晴らせば、そこはもう殆ど灯りをともしていなくて、うっすらと建物の輪郭を闇に浮かび上がらせていた。今は何時だろうか?明け方までの警備と分かっていたので昼間に若干の仮眠を取っていたものの、日頃が昼型のアルベールにこの時間はやはり少々応えるものがある。しかし、この気だるさはその為だけではない。痛みを誤魔化すために流し込んだ酒と、強く思い出してしまった、自分の立場の代償としてしまった……かけがえのない親友。こんな場所でいつも自分をからかいながらも守ってくれていた、優しく強く、そして誰よりも賢かった、自分の片割れ。よくこんな時間でも平気な顔で調べ物だの実験だのしていた、あの今は主のいない実験室の空気と、そこで飲んだ葡萄酒の味を思い出す。それにまつわる蘊蓄を語られてもさっぱり覚えられない自分だったが、彼が勧めてくれたものは間違いなく美味しかった。それに比べて先ほど口にしたものは、なんて即物的なのだろうと思う。ただの、アルコールだ。華やかな香りも、豊かな甘さも、ただの誤魔化しで、人を酔わせるだけの、そんなものだ。あの研究室で彼と飲んだものとは比較にもならない。
──ああ、静かだ。会場は夜会のホールはあんなにも華やかで賑やかなのに、ここはなんて静かなんだろう。風の音しか聞こえない。何故だろう、弦楽団の奏でる美しい調べも、つま弾かれる琴の音も聞こえない。二階下の喧噪は何処へ消えたのか。それとも自分が拒絶しているだけなのか。何故か揺れる視界の闇に心が迷い込んでしまったような気すらしてくる。これは……なんだ……?
「失礼、お一人で?」
虚ろになった心を静かな声が引き戻す。
振り返ると、そこには銀の長い髪を一つに緩く束ね、右肩から胸の下までゆるりと垂らした男が立っていた。スラリと高い背、年の頃はいかほどか……漆黒の仮面に目元を隠されている上、普通の男よりも白い肌をしているせいか、年齢が分からない。
「あ、ああ。一人だが」
女性には飽きるほど声をかけられたが男性から声をかけられることはなかったので少しばかり驚いた声でアルベールは短く返した。
「夜更けですが……夜食はいかがですか? 空腹に葡萄酒は少々身体に悪いですよ」
優しくゆっくりと告げられたその手の先、小物やグラスを置く為に備え付けられた小さな台には小皿に丁寧に盛られたサンドイッチとオリーブ、ハム等があった。
「……何故俺に?」
言われて空腹に気が付いたアルベールはそのサンドイッチに強く魅力を感じたが、それを見透かすかのような男の行動がふと気になり問いかける。
「いえ、自分の為にと思ったものが余ってしまっただけです。その腰の剣、装飾品のように見せかけてどうやら戦う為のものと思い……違ったら申し訳ありませんが、会場の内部を警護する騎士殿ではないかとお見受けしましたので、お仕事でお疲れではないかと」
「……! なんとそこまで気付かれていたとは……・。職務としては失態だな。貴殿のような来訪の方に見破られようとは」
「それに体つきを見れば分かりますよ。細めに見えるよう仕立てられていますが、戦う者の身体をしてらっしゃる。我々のような軟弱な貴族風情とは違う。身のこなしも独特の鋭さがあります」
「貴殿は騎士というものに詳しいようですね。失礼ですがどこからお越しで?」
「名も無き田舎の小貴族ですよ。名乗っても知る者も居ないほどの」
「いや、俺こそしがなく学のない騎士ですが……そのお召し物、相当よいものではないですか?」
闇夜の中、バルコニー上部とサイドに設置された灯籠から漏れる灯りに照らされた上品な深い紫の燕尾服は主張しすぎない程度に薄く輝いて……それがどんな素材かも分からないけれど、不思議な色に輝いていた。
「たまたま領地に良い生地が採れる森があるだけです。そんなことより、サンドイッチが乾いてしまいます、いかがですか?」
「ああ。ありがたくいただこう」
「どうぞ」
一歩台に歩み寄り、男の横でアルベールはサンドイッチを一口囓る。すると、会場にあったはずのものなのに、酷く何か懐かしい気がして……気が付けばそれを一切れ、二切れと黙々と食べてしまう。
「こちらも、よろしければ」
ちょうどパン生地が口の水分を奪ってきた頃に小ぶりのグラスを渡され、それをクイ、と飲めば、深く、それでもすっきりとした葡萄の味が口の中に広がる。
「──ああ、美味い。……この会場にこんな美味いものがあったのかと思う位美味い」
「それは良かった」
「俺は、サンドイッチが好きなんです」
最後の一切れのサンドイッチを食べ終わって、アルベールが再び葡萄酒のグラスの中身を半分ほど飲み下すと、一息吐いてからそのグラスに仮面越しの瞳を落としてそっと呟いた。
「どうりでとても美味しそうに食べて下さった訳ですね」
「はい。……それにこのサンドイッチも葡萄酒も、何故かとても懐かしい味がして。俺の思い出を形にしたような、そんな味がします」
「思い出?」
「ええ、俺の……友人と俺が仲良くなるきっかけになったのもサンドイッチで」
「ほう?」
「ああ、すみません、意味が分からないでしょう、突然」
「いえ、大丈夫ですよ。人生には色々なきっかけがあるものです」
「はい。……この葡萄酒も、アイツの……その友人の好んだもののような──俺は銘柄とか、そういうのにいつまでも疎くて、どれがどんな味だったから分からなくて、探しても、見つからなくて」
「探していた?」
「はい、少しは頑張ったんです。でも、全然見つからない。分からない。美味しくないんです。……でももしかすると──」
「もしかすると?」
「俺が美味しいと思っていたのは、あのサンドイッチがあって、アイツがいて、だからそれらが全て美味しくて、愛おしくて……」
くすんだルビー色の液体が残ったグラスをそっと瞳の前にかざせば、その向こうに透けるのは闇に閉ざされた街だけ。それでもバルコニーの灯りに光るそのグラスの中の赤は何故か鮮やかで。
「ならば、探しても……見つかるわけがない。あのサンドイッチは思い出に心が痛んで食べられなくなった。アイツは俺を救って遠くへ行ってしまった。いや、もう本当は──」
「本当は?」
「もう……どこにもいないのかも……しれない」
ふいに思うまい、思うまいとしてきた心の底に押しとどめてきた言葉が、アルベールの口をついて出た。
それと同時に、瞳を覆う仮面の裏に熱いものが溢れ、微かな仮面の圧迫から逃れて頬へと溢れ落ちていく。
「ああ、なんで……っ!」
アルベールが仮面の中に指を無理矢理滑り込ませると仮面は短く乾いた金属音を伴って足元へと落ちる。
「思ったら……だめなのに、それだけは、考えないように……、絶対にって……!」
絞り出すように発せられた悲痛な声は震えて、アルベールはバルコニーの柵に肘をつき、その上で上半身をぎゅっと縮こませた。
指の間からぼろぼろと涙は零れて、バルコニーの下の草むらに咲く大輪の花の花弁の露となる。
「ユリ、ウス……が、どこかで、独りで……死んでる、かもなんて、絶、対に……っ、考え、ない、ようにっ、て……俺は……っ」
切れ切れの禁句がアルベールの息を奪っていく。
華やかに彩られた夜の舞踏会、求め合う蝶達、流れる甘い調べ。
その艶めく光の上、漆黒の夜の帳を悲痛な声は嗚咽という名の湿度で悲しく濡らしていって。
「──アルベール」
静かに名を呼んで、じっとその声を聞いていた男が、背中からアルベールの上半身を強く抱きしめた。
いつの間にか消えたバルコニーの灯り、その中で漆黒に近い紫の燕尾服は何の光源も無しに淡く発光している。頭一つ分高いその腕に包まれても尚、アルベールの身体は自ら放った絶望の言葉のに震えたままだ。
「アルベール。泣く必要はないよ」
「……無理、だ……っ、もう……」
瞳を覆っていた手を外し、バルコニーの柵を力一杯掴み、アルベールは頭を振る。
その瞳を男は長い指で覆い隠して、そのまま強くその胸の中に頭ごと押しつけると、腕の中のアルベールはうっすらと甘く漂う葡萄の香りのベールに包まれる。
「死なないし、死ねない。──起こってない事を嘆き悲しむ必要はない。……生きている」
仮面と同時に落ちた筈のグラスを手にして、男はその中身を口に含むと仮面を取り払い、アルベールの瞳をもう片方の手で覆ったままその唇から唇へ、ゆっくりと禁断の実の酒を流し込む。
「……ラグリマ・レヴィンだ」
一度唇を離して囁く。
「あの日と同じ年代のものだよ」
言葉の最後で再び唇を重ねると、アルベールの身体から力という力がが抜け落ちて……その意識も身体も、全て男の手の中に委ねられた。
「どこかの空域に、日付の変更時間と共に姿が豪奢なドレス姿から小間使いの服に戻ってしまう少女の話が……あるらしいね」
腕の中で完全に意識を無くしているアルベールに小さな声で語りかけるその口調は、彼らしくない優しさを含んでいる。
ほんの少し白んできた空から微かに蒼白い光が滲む中、夜会の会場の中でも予備にしか使われない小さな部屋のベッドへアルベールをそっと降ろす。短い時間でも泣きじゃくった瞳に被さる瞼は少しばかり腫れていて、自分が癒やしの魔法類を使えない事を少し後悔した。
「──私もまた、この作り物の身体から……孤島の惨めな獣の姿に戻る時間のようだ」
アルベールから身を離し、束ねていた髪を解くと、微かに発光する銀のそれは光を失い、毛先から少しずつ薄い煉瓦色へと変化して──いや『戻って』いく。
「今はまだ……この世界から居なくなることはできない。だが──」
紫がかった瞳も芝色へと戻って、髪も半分以上が銀の輝きを無くした身体をゆっくりと折り曲げて、アルベールの頬をその指が撫でる。
「こんなに泣かれてしまっては……計画が狂ってしまいそうだ。どこかに記憶を改ざんする星晶獣がいるというが、その力を借りられないものかと思ってしまうよ、親友殿」
切ない笑みを浮かべると、まだ少し熱をもっている両の瞼に順番に唇を落とす。
「私は私の願いで命を散らす。だから……すまない。──けれども」
完全に戻った身体をアルベールの上に覆い被らせ、ユリウスは、本当のただのユリウスとしてアルベールに口付ける。
「ほんの少し……ほんの少しだけ、私を想ってくれる君の姿に胸を打たれてしまった私を──許して欲しい」
日が昇ればバルコニーの出来事は全て忘れる。霞のように、ふわりと、ラグリマ・レヴィンに含ませた薬で記憶は夢に溶ける。
きっと君の起き立ての気持ちは「任務を放棄してしまった!」──これに違いない。
生真面目に青ざめるその姿を想像すると、そんなアルベールをここで見続けていた日々が酷く遠くに思えて、おかしさと共に一気にこみ上げた愛しさが胸を焼く。ああ、こんなにも。
「愛しているよ。有り難う……、親友殿」
日が昇りかけている。夜会はもうすぐ撤収を始める。
朝焼けのシンデレラは何一つ残さないように、音もなくその部屋から去って行き、残された王子はただ幸せな夢を見て、短い眠りの中、友と酒を酌み交わす。
レヴィオンの嵐の再来まで、まだ時は少し。
最後の曲の演奏を終えた弦楽団のコンダクターは静かに指揮台を降りる。
終わりの前の短いプレリュードの曲終を知る者は、この島にはもう、いなかった。