呼ぶ声がする夜中、水木が目を覚ますと隣に寝かしつけたはずの鬼太郎が消えていた。
「また抜け出して…。」
墓から生まれ出て数えで3歳になる鬼太郎は夜の闇を恐れず、むしろ興味深そうに、赤子の頃から陽が落ちると灯りのない夜の闇を窓越しに見つめ、時折何かに話しかけるように口をぱくぱくさせたり、何かを掴むように手を動かしたりしていた。
歩き方がしっかりしてきたら、今度は夜中に布団を抜け出し、気が済むまで家の中をうろつくようになった。
ゆえに最近は寝る際には水木がガシッと抱え込んで布団に入っていた。鬼太郎はされるがままだが、幼い顔には不満があふれていたし、水木がぐっすりと眠り込んだらやっぱり抜け出してしまうのだった。
飽きたら布団に戻ってくれればいいものの、鬼太郎は夜闇で遊ぶのに満足すればそこらで寝落ちしてしまうから、起床した水木の母がそれを見つけると決まって朝から水木は説教されてしまう。
変なとこに落ちていて怖い、この子はやっぱり変だ、ほったらかして怪我したらどうするんだ、等等。
母は得体の知れない子を恐れ、同時にまっとうな優しさも向けてくれている、心底ありがたいと水木は思う。
「さて今夜はどこに行ったかな。」
すぅっと静かに襖を開けてまずは廊下を伺う。
廊下の奥、玄関の手前に小さな塊が置いてある。
ぺたっと床に尻をつけ、手を前に置いて座っている鬼太郎だ。
鬼太郎は玄関をじっと見つめながら座り込んでいる。
今日は近場にいたなと、丸く小さな背中に水木はそっと声をかけた。
「鬼太郎。」
いつもならチラッと一瞥ぐらいするのに、鬼太郎は微動だにせず玄関を見つめている。
玄関の戸、木枠に嵌め込まれた磨りガラスは一面の黒。夜闇以外に何も見えはしない。
虫の声も無く、随分と静かだ。
「これ、お布団に戻りなさい」
もう一度声をかけ抱きあげようとすると、
不意に鬼太郎は小さな指を外の方に向けた。
「きた。」
小さな呟きに、
何が?と問おうとした瞬間、玄関の戸越しに声が響いた。
「おーいみずきくーん」
聞き覚えのある声だった。
この声は、確か、
かつて担当していた製薬会社の社長だ。
仕事上の付き合いで、酒宴の際にはよく長々と自慢やら愚痴やら説教やらを一方的に耳に流し込まれた。
それに水木が調子良く相槌を打っていると社長は段々と気が良くなり、そして最後は「まあ頑張りたまえ!」などと大声で笑いながら背中をバシンバシンと叩くのだ。
正直嫌だった。
でも社長を務める者と話す機会は貴重だったし、嫌な奴だが話の端々にどこか泥臭い人間らしさを感じる憎めない奴でもあった。
「おーいみずきくーん」
おかしい。
そんな人物が、夜中も過ぎている時間にこんな場所に来るのも、
「おーいみずきくーん」
同じ文言、声音、抑揚で繰り返す声も、
「おーいみずきくーん」
何もかもがおかしいが、何よりも、
「おーいみずきくーん」
この人は3年前の夏の頃に、自宅がある村で起きた大火災に巻き込まれて亡くなったはずだ。
村中の死体も建物も全て炭化するほど燃え尽きたほどの火災で、水木はそれに巻き込まれた唯一の生存者だった。
当の水木は火災はおろか、どうしてその村に行ったのかすら、どうしても思い出せない。
「…う」
鼻腔内をどろりと熱い液体が伝う感覚を覚えるや赤い雫が廊下の床に滴る。
水木は3年前に生死を彷徨って以来、前触れもなく鼻血を出すことが多くなった。
髪が全て白くなったうえ生死を彷徨う程衰弱した原因もまた、いまだに思い出せない。
水木が、腕に抱いた鬼太郎に鼻血がかかっていないか視線を下ろすと、鬼太郎は義父の様子に構う事なく玄関を凝視している。
ふと、鬼太郎の日頃は閉じられている左目が薄く開いてるのに気がついた。
鬼太郎の左目は生まれつき無いはずだが、僅かに白い物が覗いている。
「おーいみずきくーん」
外からの呼びかけは続いているが日頃と違う養い子の様子の方が気に掛かり、
水木は、鬼太郎?と声をかけようとした。
き、と声を出す直前、
鬼太郎の左目から覗く白い物体がぬるっと動き、赤く光る円形がこちらを向いた。
(あ、目だ。)
眼窩に収まっているのが目以外にあるものか。目のはずだ。
しかし赤い光と対面し、何故か水木は直感した。
(でも、これは鬼太郎の目玉じゃない。)
再び声を出そうと水木がひゅっと息を吸った瞬間、
「これ、声を出してはならぬ。」
誰もいないはず。
誰もいないはずの後ろから声をかけられた。
若者とも老人ともとれる男の声だった。
「おーいみずきくーん」
前から、後ろから、おそらく人ではない何か、
その声がする。
だが何故か、
何故だろうか、後ろからかけられた声は、
知らないはずの男の声は、
心の内にするりと入り込み響くようで、
水木はひどく安堵した。
根拠もなく大丈夫だと思った。
自分はもちろん鬼太郎も大丈夫だと。
そう思えた。
鬼太郎が無事ならとそう思えることが何より安心した。
気持ちが落ち着いた水木は寝衣の袖で鼻を拭った。
思ったよりも出血は少なかった。
「おーいみずきくーん」
玄関の外では死んだはずの者が呼びかけてきている。
夜闇の中で揺れながら、壊れたレコードの針が何度も同じ場所の同じ音を出すように。
だがそれだけだ。
玄関の戸を叩くこともなく、音を出してるだけのようだ。
何者だと疑問が浮かぶが、関わらない事で家屋内にいる鬼太郎と母に手が及ばないのなら何よりだ。
立ち去るのを待つしかない。
「おーいみずきくーん」
「…。」
落ち着きを取り戻すと何だか腹が立ってきた。
(誰だか知らねえが何だてめぇは馬鹿の一つ覚えみてぇに同じことばかり喚きやがって!今何時だと思ってやがんだこんちきしょうめ!)
等と内心の罵倒を実際に言い返したい気持ちが湧いて来るが「声を出してはならぬ」に従い堪えた。
もう一度、鼻を拭うが鼻血はもう止まったようだ。
同時に、外からの呼びかけが止まった。
(…いなくなったか…?)
いや、間隔を開けただけかもしれぬ、
と水木は玄関の方の様子を伺う。
声は聞こえない。気配もない。
ふっと、潜めていた息を吐こうとした瞬間、
「さよもまってるぞー」
さよ
その言葉を聞いた瞬間、水木の鼻の奥から大量の熱が溢れ出た。
あっという間に床に赤い水溜りができた。
また鼻血だ。だが鼻血とはこんなに流れ出るものだったか。
たしか急に思いっきり鼻っ面を殴られるとこんなふうにドバドバ鼻血が出たなあ。
ああいやだ、思い出したくない。
血が、鬼太郎にはかかってないか?
鬼太郎の様子を見ようにも視界が歪む。
頭が揺れた拍子に体が倒れる。
こめかみが、心臓ができたようにドクドクと脈打つ。
耳の中で数多の音と声が響き渡る。
やめてくれ頭が割れそうだ。
鬼太郎だいじょうぶか?
鬼太郎!鬼太郎!
声に出てるのかどうなのかわからない。
鬼太郎!お前だけは守らないと!
せめて、せめてお前だけは!
自分の声が耳の中の音と混じる。
女の悲鳴が聞こえる。銃声が聞こえる。雨音が聞こえる。化け物が夜闇へ呼ぶ声が聞こえる。その奥でか細く、あの声が聞こえる。
知らないはずの男の声が、
悲痛な声で水木、水木と。
水木はかろうじて開けた目の端で鬼太郎を見た。
「……ろ…ぅ…。」
鬼太郎は玄関の方を向いたまま、左目だけでこちらを見ている。
その左目が不自然にぐりぐりと動きだした。
目線を動かすのとは違う不自然な動き、
もがくようにぐりぐりと動き、
瞼をこじ開けるように迫り出し、
ついに、左の目玉が鬼太郎の眼窩からこぼれ落ちた。
そこで水木の意識は落ちた。
落ちる直前、玄関の向こうの死者はこう言った。
「おーそこにいたのか」
水木がはたと目を覚まし、真っ先に目に映ったのは、廊下の暗い電球に照らされた、しくしくと泣く母親の姿だった。
座り込む水木の母の膝の上にはちょこんと座った鬼太郎がいる。その左目は閉じられていた。
水木が起きあがろうとすると顔と床がネチョッと音を立てた。
「…うげ。」
自分が転がっていた場所は、血をぶちまけ擦り付けと酷い汚れ方をしていた。水木の下敷きになっていた部分の血はまだ乾かず、電灯の光を受けて、てらてらとしている。
「この子が起こしに来たから何だと思ったら…何でこんな事になってんのよぅ。」
息子が廊下で大量の鼻血を流して失神している光景は、二度死にかけた子を持つ母には相当ショックだったのだろう。
「すいません、えーと、たぶん?転んだんじゃないですか?」
水木が気まずそうに笑いつつ、乾いた顔面の血をカリカリとかいたり払ったりする様子に問題ないと母は安堵したが、続いて怒りが湧いたようだ。
「まったくお前は心配ばかりかけて!私は片付けませんからね!」
母は膝の上の鬼太郎に向かい、
「お前も夜中にうろちょろしなさんな!子どもは夜は寝るんだよ!」
と一喝するとそのまま抱き上げ、自分の寝室に引き上げてしまった。
「あ、」
鬼太郎、と声をかけようとあげた手に、鬼太郎はバイバイと手を振った。
今日はおばあちゃんと寝ますということか。
「冷てえなあ。」
水木は床を拭く雑巾を取りに風呂場へ向かった。
途中、鏡で改めて自分の姿を見る。
顔の半分と寝衣のあちこちに血がべっとり、白い髪は掻きむしったのかぐちゃぐちゃで、所々血で固まっている。
「こりゃ見たら泣くわ…。」
母の心情を慮り、項垂れると鼻の奥に残っていた血がトロッと垂れてきた。
思わず、すんっと鼻を啜ると新鮮な血の匂いがする。
血の匂いに久しぶりだと思ってしまい、振り払う。
大丈夫。もう血は流れない。悲鳴も聞こえない。
朝になったら湯を沸かして髪を洗う。
いつもと違うのはそれだけだ。
3人で朝食を食べ、鬼太郎の身支度をしたら会社に行く。
社内で見捨てられたのをいい事に早めに帰り、3人で夕食を食べる。
毎日それを繰り返すはずだ。
水木は雑巾を固く絞ると、床に残る己の血を拭きにかかった。
血を拭った後もごしごしと何度もこする。ここで流れたもの何も残るなと祈るように拭きあげる。
しばらく後に水木は玄関先を見つめた。
呼ぶ声はもうしないが、最後の声が気にかかる。
「そこにいたのか」
だから何だと言うのだ。
俺がここにいたら悪いか。
心に残った不安を沈めるように、水木は桶に溜めた水に赤茶で汚れた雑巾を沈めた。
汚れた雑巾から赤が溢れ、先ほどまで澄んでいた水中に煙のように赤が伸び、染めていく。
それを見て水木は軽い目眩を起こしたが、それも無視した。
【終わり】