理想と現実 学校であったことは、その日の夕食中の話題になることが多かった。だが、確かその日は、父の帰りが遅くなるという連絡があって、夕食が別々になった。
だからその日聞いてみたかった話は、翌日の土曜、明るい光の射す朝の食卓での話題になったのだ。
「あのさ、父さん。刑務所って行ったことある?」
焼きたてのトーストの皿をルークの前に置いた途端問われた言葉に、エドワードは目を丸くした。トーストにバターを塗りながら、エドワードは答える。
「ああ、あるとも。捜査で、受刑者に面会する必要があったりするからな。急にどうした?」
「昨日、社会の授業でやったんだ。どんなところなんだろう……怖い?」
「うーん。刑務官は厳格な人達だが、お前の考えてるようなおっかないところじゃないかもな。俺も、面会室くらいまでしか入ってはないが」
ルークはどこか不安そうな顔だった。エドワードはコーヒーを一口含んでから続けた。
「刑務官は、収容された受刑者に無闇にいばりちらしたり、乱暴したりしない。収容者との間には、歴然とした権力の差があるからな。権力を傘に着てそんなことをしていたら人道的にも問題だし、そんな姿勢だと刑務所の本来の役割が果たせなくなっちまう」
「本当の役割?」
「受刑者の更生だよ。刑務所は罪を犯した人が罪を償うための場所だが、償いを終えて社会に戻ってから、犯罪を繰り返さずに生きていけるようにするための施設でもあるんだ。服役中に仕事になる技術を身につけて、出所後にちゃんと生活出来るようにしたり、社会で他の人と上手くやっていけるように、心の持ち方の指導や相談をしたりすることもある」
ルークが感嘆のため息をついた。たっぷりバターとはちみつを塗ったパンを齧りもせず、真剣にエドワードの話を聞いている。
「そうなんだ……」
「まだ、ちょっと怖がってるな?」
ルークの席から遠かった温かいココアのカップを手元に押してやり、エドワードは尋ねた。
「だって、そこで働いている人たちは、犯人だったひとたちを監視するんでしょ。やっぱり、すごく厳しいんじゃ」
「そりゃ、厳しいさ。志を持って難しい立場の職を選んだ人たちで、彼らは受刑者のために、誇りをもって仕事をしているからな。だが、決して横柄や横暴にはなっちゃいけない。狭い場所で他の人より強い権力を持つと、力を振りかざしたくなる誘惑にさらされるもんだが、刑務官はそういう心の歪みに打ち勝つ厳しい訓練もするんだ。……ただ、受刑者にも色々いて、素直に言うことを聞くやつばかりじゃないから、身体と心の強さはもちろん必要だけどな」
「それは、そうか」
「まあ、知らない場所だから判らなくて不安かもな。図書館があったり、気の合う受刑者同士でスポーツのクラブを作ったりするって聞くし、厳しいばかりの雰囲気じゃないかも知れない。人が色んな思いを抱えて生きているって意味じゃ、刑務所の塀の外も中も同じかも知れない。お前があそこの世話になることはないだろうから……いつかお前が刑事になった時に、自分の目で確かめてみる機会があったら、案外、楽しそうな笑い声なんかも聞こえるかも知れないぞ?」
「うん」
ルークは甘い香りのココアに口をつけた。温かく喉を落ちていくココアとエドワードの言葉が、緊張をゆっくり溶かしていく。
ふと、キッチンのシンクを水滴が小さく叩いた。少し間を空けてもう一回、もう一回と立て続けに落ちる水滴に、エドワードが腰を上げた。
「おっと。しっかり閉めてなかったか」
エドワードが呟いた。席を立ち、ルークに背を向けてシンクに向かう。窓から射す朝の光を肩に受け、エドワードが水道に手を伸ばした時、また水滴がひとつ、ステンレスのシンクで弾けた。
*
まだ、水滴が落ちる音がする。
静かに眠らせてほしいのに、わざと眠りを妨げるように音は止まらない。水音に意識を少しずつ現実に引きずり戻される中、腐った水に色々な悪臭がまざった澱んだ空気を嗅いだ。
力なく壁によりかかった身体中の関節が軋んでいる。血は融けた鉛でも混ざったように重く、身体全体が熱く浮腫んだ感触がある。ところどころ疼痛があり、思い出したように響く激痛で横になることも出来ず、寄りかかって眠った壁や床の石が、冬の気候のせいで氷のように固く冷たい。
水音に、遠くから響く靴音が混ざったのが聞こえた。今にもスキップでも始めそうなくらい軽やかでいながら、湿った重さのある音だった。靴音を追いかけて、暗闇に鼻歌が反響する。
音も歌も、次第にこちらに近づいてくる。どうか通りすぎてくれないかと一瞬考えてしまい、ルークの口の中に血の味が薄く広がった。
「……父さん……」
数えきれないほど殴られ、傷が塞がるそばから何度も切れて腫れぼったくなった唇から無意識に息が漏れる。
ここに来てから何度も、日の当たる家の夢を見ている。思い出の中の父はいつでも、本当は厳しさを伴う現実を、その時々の年齢の自分が受け止められるように噛み砕き、嘘がないように教えてくれていた。
だから、よりによってこの場所に、こんな悪意が存在するなどと知らなかったのかも知れない。看守と収監者の絶望的な権力差。それにより起こる全く意味のない暴力と看守たちが楽しいだけの拷問。いくら無実を訴えても嘲笑され、苦しさに耐え兼ねて情報を吐けば、あとは生きた玩具にされるだけの立場。
痛い、苦しい、嫌だ、つらい、悲しい、情けない、怖い。
気力や体力がわずかに回復すれば、何処へも行きようのないそんな思いが渦を巻き、焦燥と共に胸を掻く。こんな感情がもしなくなれば、いつ終わるか判らない拷問にも、生きて出られるかも判らないこの不安にも絶望しなくなって、楽になれるのだろうか。でも、それでは、と虚ろの中でも戸惑った思考に、やたらはっきりした靴音が割り込む。
閉じた扉のすぐ向こうで、靴音が止まった。錠を開ける音に、楽しそうな笑い声が重なった。