旅するもの 思えば、どうしてこの男と今まで普通に話せていたのだろう。
「元気そうで何よりだよ。AAA」
目の前の男は、最後に会った時とまるで変わらない柔らかな笑みを湛えながら、アクリル板越しにシキと向かい合っている。面会室の独特な空気に気圧され、不安に駆られているシキを宥めるようにさえ感じられてしまう居住まいの穏やかさに、シキは膝の上に置いた手をぐっと握り締めた。
『ファントム』がミカグラ刑務所に収監された日から、丸二年が経とうとしている。今なお心理面にほとんど変化が見えない男に一石を投じられないかとナデシコが思案しているのを見て、少しでも役に立てそうならと、ゴンゾウの反対を押し切ってシキは自らこの役割を志願した。
家族を殺された被害者でありながら同時にファントムの最大の共犯者でもあり、警察とも協力関係にあるシキは、他の誰にもない立場だった。警察としても複雑な扱いになったらしく、セラピストによる面会後のケアなども含め様々な手続きを経て申請した面会申し入れだったが、意外にもファントムはあっさりと承諾したという。彼に事件後も唯一手紙を出し続け、折りに触れ面会を申し入れているルークからの呼びかけには一切応じていないという話だったので身構えていたが、拍子抜けしてしまった。
そうして、会うところまで漕ぎ着けはした。でも、とシキの頬に力がこもる。シキがここを訪れた思惑は、ファントムにはきっと透けて見えているのだろう。そして同時に、こちらもまた当然そのはずだという想定の上でここにいる。そこまで考えて、シキはゆっくりと深呼吸した。下手に小細工などせず、ただ話をすればいいのだと、ようやく腹を括る。
そもそも、他人の心中を探る任務などにまったく適性がないことは、自分以上にあの上司の方がよく判っているのだ。それでも、「世間話のひとつでも出来れば上出来だ。意味はある」と、任せて送り出してくれた。世間話も得意な方ではないが、心強くはあった。
「久しぶり、ファントム……。あなたも、変わりないみたいだ」
「ここでは変わりようもないからね。──俺と話をしに来たんだろう?」
「! あ……う。うん」
「時間も限られていることだし、進めようか。もっとも、聞かれたことには大抵答えてしまっているから、あまり目新しい話題もないんだが」
「その……尋問に来たわけじゃ、ないから……」
「なら、君のしたい話をしようか。君さえ良ければ、雑談でも構わないよ」
シキは俯いた。助け船を出されたような気分になってしまったが、しかしこれはきっかけだった。
「じゃあ……」
シキは思わず口を開きかけ、そして一瞬で閉じた。彼の口からルークのことを聞きたいと思ったが、それを聞いた途端にこの面会は終わるのだと、瞬時に予感した。
「じゃ、……じゃあ……、あの。え、と……旅の、話、とか……」
「旅?」
しどろもどろになりながら話題の転換を図るシキに、ファントムが首を傾げた。
「う、……うん。……ルークと会うより前は、世界中色んな国に行ってた、って聞いた。詳しくは、聞いたことなかったけど……」
「そういえばこれまで、その頃の話はあまりしたことがなかったかな。かと言って、任務の話が聞きたいわけではなさそうだが」
「ボクは、旅なんか、アナタに連れられていた頃くらいしか、したことないから……ガコンさんとか、他にもきっかけがあって……旅の話に、ちょっと興味が沸いた。実際にその場所に行った人の話じゃないと、ネットで調べるだけじゃ、判らないことだって、あると思うから」
「なるほど。──確かに、旅先でさまざまな風景を見てきた、と言えるかな」
ファントムは首の後ろに手を当てた。何から話そうか、シキがどんな話を聞きたいかを考えているようにも見えた。
「政情の不安定な国に入り込むために、緩衝地帯から国境を越え、テロリストの巣食う山岳地帯を通り抜けたことがある。山頂から雲海を見たのは、その時だったかな」
「雲海……」
「山の麓を覆い尽くす、一面の雲だよ。現象としては、そう珍しいものでもないが……そうだな。他には、何があったかな」
ファントムは記憶を呼び起こすように目を閉じ、それからゆっくりと続けた。
極北の天を覆って揺らめくオーロラ。磨き上げた鏡のような水面が続く塩の湖。エメラルドグリーンのグラデーションを描く海。暗色の青を閉じ込めた氷の洞窟。儚い燐火の土蛍が舞う洞窟。奇跡の確率で月の光がかけた虹を纏う夜の大滝。この世すべての白と青を集めて固めたような石灰棚。標高4000メートルの冴えた大気の下で見上げた、天に満ちる無数の星。世界有数の高層ビルから見下ろす、極彩色の夜景。
呼吸も忘れて、シキはファントムの口から語られる数々の絶景の話に聞き入った。はじめはファントムの目に映った風景を、その裏にある感覚をなんとか理解しようと思ってのことだったが、それ以上に、語られる言葉から思い浮かんだ風景に引き込まれた。面会室の分厚いアクリルに阻まれた声は少しくぐもって聞き取りづらいはずなのに、これまで共にいた彼とまるで変わらない声音で淡々と語られる世界の風景は、脳裏に簡単に思い描けるほど鮮明に感じられた。
「まるで、世界の果てのようだった──と、当時の任務の同行者が言っていたな」
「……アナタの感想じゃ、ないんだ……」
「そうでもない。俺も、そういうものを人並みに『美しい』とは思うよ。任務に必要だったから、審美眼もある程度鍛えられているのだと思うしね」
「それは……判断じゃ……」
「はは。その通りだよ」
「じゃ、じゃあ……アナタが、今までで一番、きれいだと思った風景は……?」
「そうだな。なので、まあ──どれも、さして変わることはないかな」
ファントムはゆったりと答えた。
「稀有な自然現象だなと思ったり、雄大だな、と感じたりはしたよ」
「そ、……それだけ……?」
「そうだな。……ああ」
ふと、ファントムが言葉を止めた。流水のように常に滑らかな思考の流れが不意に遮られた様子に、シキは訝しみながらファントムを見つめた。
やがて、シキは紫の瞳を大きく見開いた。ファントムは、シキが彼と一緒に行動している間ですら、一度も見たことのない表情を浮かべていた。
だが、その理由を探る術がない。ファントム相手に小細工を弄しても仕方がないと、シキは思ったままに尋ねることにした。
「……どうしたの。ファントム」
ほんの一瞬の間があった。しかしそう感じたこと自体がシキの錯覚であったかのように、ファントムは何の変化もないまま続けた。
「印象に残っているものもないわけではないな、と。──緊張は解けたようだね。AAA」
「! ……う、うん。おかげさま、で……」
シキは息を詰まらせた。指摘されるまで自覚がなかったが、いつのまにか、最初の緊張を忘れて以前と同じように彼と会話していた。話題のせいか、話術のせいかは判らなかった。
「それは、何よりだ。だが、面会時間はもう終わりらしい」
気づけば、面会時間の終了予定だった四時きっかりの時刻だった。面会を終えた囚人を独房に連れ帰るべく、ファントムにひとりの刑務官が近づく。躊躇なく席を立ったファントムの姿に、シキはパーカーの裾を握った手に力を込めた。
自分も退席すべきなのだとは思いつつも、それよりも何を言うべきかを逡巡する。そして、シキは思わず声を出していた。
「あの……ファントム」
「何だい」
「ずっと前のことだけど……闇カジノで働いていた時、ちょっと難しい場所に隠されてたデータを偶然見つけたことがある。出てきたのは、……昔の写真、だった。クリスマスごろの、アナタの……」
名前は敢えて出さなかったが、ファントムにはきっといつ頃の写真か伝わっただろう。だが、ファントムは眉一つ動かさなかった。
調べていくうちに、十五年ほど昔の記録であることが判明した。だがDISCARDで見つかる画像や映像のほとんどが陰惨な犯罪の記録である中、それは少し風変わりな画像だった。
イルミネーションの暖かな光にあふれた真冬の街。無数の電飾を纏い、街の中心に聳えるクリスマスツリー。目映くライトアップされたツリーの天辺、夜の中でも青く輝くクリスマスの星を見上げ、幼い子供と父親が互いに笑顔を向けている。よく似た金色の髪の親子は、人混みでも決して離れないように、大きさのまるで違うふたつの手のひらを、しっかりと繋いでいて──
それは、エドワード・ウィリアムズの『殉職』より数年前に撮られた写真だった。犯罪の証拠でも何でもなく、二人きりの家族が紡ぐ、目映く暖かな時間の写真だった。おそらくは犯罪組織とまったく関わりのないカメラマンが、ありふれたホリデーシーズンの景色の一枚として、たまたまレンズを向けた先にあった風景だったのだろう。
──そんな写真がなぜ、DISCARDのサーバーの奥深くに保存されていたのかは、定かではなかったが。
「……目の前の風景が、どう、見えるかは……受け取り方、なんだと思う。いつ、どんな時に、誰と見るか、どんな気持ちで見るか……」
親子の写真を見つけた時は、『小さなルーク・ウィリアムズは、幸せそうだな』と他人事のように思ったのだ。だが──今は、違う感想を抱いている。
心に頼りなく浮かぶ言葉を、シキは懸命に繋ぎ合わせる。ファントムに少しでも届く言葉は何かと頭を全力で回転させているうちに、結局空回りしている気になってきて、シキは次第に押し黙ってしまった。
「AAA──いや。シキ」
「な……なに……?」
ファントムが振り返っていた。語りかけるその声が奇妙に穏やかに聞こえ、シキは顔を上げた。
「君の見る景色は、君の名前の通りに、本当の意味でカラフルになったようだ。だが、俺にとっては、どんな雄大な風景にも感じることは本当に変わらないんだ。夜景でも、星空でも」
そうして、ファントムは口元をほんの僅かに緩めた。
「ただ。──夕焼けなら、俺にも少しは判るような気がするよ」
それからシキに口を挟ませる間も与えず、ファントムは刑務官に付き添われ、刑務所に続く扉を潜っていってしまった。
シキは腹の底から、大きく息を吐いた。急に、心臓の鼓動を大きく感じた。握り締め続けていた手が冷たいことにも今更気付いた。緊張が一気に襲ってきて、ふっと気が遠くなりそうなところを頑張って堪える。
夕焼け、と彼は言った。夕焼けの風景なら、彼の心を動かすことが出来るのだろうか。さっきの一瞬の沈黙で、彼はその風景を思い浮かべていたのだろうか。だが、いくつも語られた絶景の中に、夕焼けの話はなかった気がする。理由を考えようとして、思わずシキの口元から吐息が漏れた。
おそらく、そこを足がかりに外部から彼の心に波を立てることは出来ないと直感した。そんなことをすれば、今度こそ彼は世界に対してすべての扉を閉ざすだろう。情報として有効に使えない以上、結局、この面会で警察として得るものはなかったと言えるのかも知れない。しかし長年彼とともに行動して来て、少なからずファントムという人物をそばで見てきたシキには感じるところがあった。
稀有な現象でもない。普遍的な風景でもない。けれど彼にとってたぶん特別だった、いつかの時間。演技ですらあんな表情を見せたクリスマスの風景のことかと思っていたが、それよりもずっと、彼の目に焼き付いた風景がある。
今の彼にそれが『ある』のが判ったこと自体が、ひどく重要なことのような気がした。
シキはゆっくり椅子を引いた。警護に当たってくれていた刑務官たちにおどおどと礼をして、面会室の外に出る。密閉されたような面会室から出てもう一度深呼吸すると、新鮮な空気のお陰でようやく心に落ち着きが戻ってきた。
「まず、報告書……出さなきゃ……あと、ナデシコさんに、許可も申請……」
ひとりつぶやきながら、シキは歩き始めた。するべきことをまとめているうちに、シキの歩みが少しずつ早くなる。刑務所の出入り口の門をくぐると、外は既に日没の光で朱に染まっていて、角度の深い日の目映さにシキは思わず手を掲げた。
報告を済ませたら、ナデシコに許可を得て、あのデータを送りたいと思った。シキの見た写真はファントムの心には響かなくとも、ルークの覚悟を支えるささやかな一枚になってくれる予感がした。たとえ心の伴わない笑顔の幻だったとしても、あのクリスマスの景色を父と慕った家族と一緒に見た記憶が、その時ルーク自身が感じたことが、迷いに揺れた時に少しでもルークの心を守ってくれるように。
一瞬の思い出だけでも、彼のもとに返すのだ。あの輝くようなホリデーシーズンの去ったエリントンへと、夕焼けの海を越えて。