背脂という名の星屑と 店が決まらない。
星を散りばめたような華やかな劇場街には、飲食店はそれこそ星の数ほどあるはずだった。しかしどの店にも入れないまま次を探すことを繰り返し、かれこれ40分ほどが経過している。所轄署で情報提供や状況の整理を手伝っていた時間も含めれば、普段夕飯を摂る頃合いから3時間近くが経過していることになる。
「お腹、空いたなあ……」
大通り沿いをとぼとぼと歩きながら、ルークは肩を落とした。
オフィスに帰って自炊するか、食べて帰るか。警察署を出て、すっかり更けた夜空に悩んだ末に後者を選んで一通りさまよったが、劇場街の店はどこも美味しそうで、そしてそれに見合った値段設定だった。味とサービスは保証されているとは言え、この時間でのひとりの食事にどうにもそこまで支払う踏ん切りがつかないまま、決めかねたままふらふらとして時間を無駄にしてしまった。
手頃な価格の入りやすい店や、気になってチェックしていた店は劇場の終演時間前にラストオーダーを迎えているか、あるいは観劇帰りの客たちで満員になっていて、どうにも間が悪い。暖かな気候の島なので、2月の夜に彷徨っていてもそこまで寒さはつらくないことだけが救いだった。
ミカグラの街は22時近くなっても人も車も多く、イルミネーションも華やかなままで、そのせいで却ってひとりが沁みる。もはやこれまでと、ルークはオフィスまでのコンビニエンスストアで何か買って戻ることにした。こういう時に笑って付き合ってくれるモクマは、まだ入院中だった。
「止まれ」
不意に、冷ややかな声が耳を打った。喧騒の中でもはっきりと自分に向けられた声に、ルークは固い表情で足を止める。いつのまにか、黒いセダンがルークの傍らに滑るように近づいて来ていた。
「振り向くな」
「っ……」
声は、ルークの行動を予測するようなタイミングで釘を差して来る。
落ち着いて呼吸をひとつ、それから周囲を窺う。DISCARDの残党だろうか。車のフロント部分を見るからに高級車だったが、こんな目立つ車に尾行されていたのだろうか。だとしたらいつから。アクションを起こした場合、周囲の人に影響はあるか。
数秒の間にあらゆる考えを巡らせながら、ルークは視線だけを慎重に動かした。助手席のガラスはわずかな隙間が開いていたが、スモークフィルムで加工されており、車内の様子は分からなかった。
「犯罪組織をひとつ潰しておいて、不用心にもひとりそぞろ歩きとはな」
ルークは唇を引き結んだ。何かで口元を抑えたようにくぐもった声の主は、自分をよく知っているような口ぶりだった。
「だがむしろ逆に、安全とも言える。DISCARD一斉検挙の立役者が、そんななりでしょんぼり歩いている地味な青年だとは、まさか思うまい」
「……ナデシコさん!」
自分で演技していて、耐えきれなくなったらしい。吹き出すような笑い声が重なった言葉に、ルークは悲しげな顔で窓ガラスの隙間に訴えた。
「脅かさないでください」
「すまなかったな。意気消沈を絵に描いたような背中だったものだから、つい発破をかけたくなった」
車の前方ガラスがするすると降りていく。黒塗りの高級車の窓から、ゆったりと微笑むナデシコの姿が見え、ルークはほっと息をついた。
「しかし、不用心なのは間違いないぞ。こんな時間に何をしていたんだ?」
「劇場街で、トラブルに遭遇しまして。その対応をしていたら、いつのまにか警察沙汰になってしまい……事情を話していたら解放されるまで時間がかかって、食事ができるお店を探していました」
「こんな時間までか。キミも大概、トラブルを呼び込む体質だな」
「いやいや、僕が原因なわけではないんですが……ナデシコさんこそ、今お帰りですか」
「ああ。私は、ちょっとしたパーティの帰りでね。正直それどころではないんだが、どうしても出ないわけにはいかない席でな。君も職業柄、経験があるだろう?」
「生憎と、そういう世界は皆目ですね……」
「そういうものか」
いっそう肩を落とすルークに、ナデシコが疲れたように自身の眉間を揉みほぐす。
「パーティとはいうものの挨拶の対応や話してばかりであまり食べられず、久々に行きつけの店に寄っていこうかと思っていたところだったんだが、夕飯を食いっぱぐれているなら君もどうだ」
「え! いいんですか」
ルークの顔がぱっと輝く。食事にありつけるという嬉しさもだったが、ナデシコの行きつけというその一点に興味があった。
「決まりだな。では、乗りなさい。給油していこう」
ナデシコが助手席のドアを開けた。
給油してまでとは、夜のガソリンスタンドにわざわざ寄ってから行くような距離なのだろうか。不思議に思いながらも、ルークはナデシコに手招きされるまま車に乗り込んだ。
運転席では、ナデシコが優雅に長い足を組んで座っている。長い脚を組み替えると、深い夜の闇の色をしたイブニングドレスの裾がさらさらと揺れた。
「舌を噛むなよ」
「安全運転でお願いします! ……あれ? この道、見覚えが……?」
滑るように走り出した数分後、フロントガラス越しに風景を眺めていたルークがふと口にした。
「ああ。君にとっては、来た道を引き返す形になってしまったな」
「ですよね、ミカグラ警察……? こんなところに、ガソリンスタンドありましたっけ?」
「……ん? それは、もう少し先だが……ああ、なるほど」
ナデシコが得心したように息をついたが、それ以上は何も言わなかった。大通りに面した警察署のエントランスを通り過ぎ、裏通りに入る道の少し手前で車を停める。ルークが車外に出ると、ナデシコはドアをロックして、襟に豊かなファーを飾ったロングコートを翻しながらながら颯爽と裏道へ向かった。表通りの華やかさとは違い、街灯も少なく質素な雰囲気の通りに、ルークがごくりと喉を鳴らす。
「良かった。まだやっていたな」
ヒールの音が止まる。振り返ったナデシコの端整な顔を、黄色い看板が照らす。のれんの掛かった入り口横のダクトから、小麦が茹だる香りがした。
「こ、ここって」
「私が巡査時代から通っていた店だよ」
「え」
「こんばんは。お邪魔するよ」
ナデシコの細い指先が、朱の色あせた暖簾をくぐる。残されたままの高級車が気になったが、ルークも慌ててナデシコを追いかけた。格子に曇りガラスがはめ込まれた古い引き戸を閉め、こぢんまりとした店に入ると、威勢のいい掛け声に出迎えられた。
「らっしゃい!」
「おおお……!ノスタルジック……‼」
ルークの口から、思わず感嘆の声が漏れる。
もとは白かったのだろうか、壁紙や天井は長年かけてスープの香りと色を吸い込んだように変色している。建材も最近あまり見ないタイプの建材で、壁には手書きのメニューが貼られていた。ところどころほころびた赤いクッションの丸いスツールがカウンターの前に間隔を開けて並べられていて、いったい今まで何千人の客を出迎えてきたのか、厨房の仕切りを兼ねたカウンターは濃い飴色の光沢を放っている。
「このタイプのラーメン屋さん、初めて入りました……!」
「なんだ、モクマあたりに連れて行かれたことはなかったか。目抜き通りの方は、ラーメン店でもおしゃれな店が多いからな。カウンターでいいね」
ルークに尋ねながらも、ナデシコはつかつかとカウンターの奥に向かう。異論が有るはずもなく、ルークも壁際のナデシコの隣に座った。
時間のせいか客の姿はまばらだったが、そのうちの何人かの客からぎょっとした気配が伝わってくる。正直気持ちはわかる、と思いながら、ルークはナデシコが無造作に畳んでカウンター下に突っ込んだファー襟のコートが床に落ちる前に入れ直した。
「なんだか見られていますね。その……お客さんたちに」
「そうか? まあ、女がこういう店に来るのは珍しがられるものだよ。だが、今見られているのはどちらかというと」
「僕……ですよね。たぶん」
視線だけでも、どんな関係か勘ぐられているのが伝わってくる。好奇心というより探るような気配に、ルークは思わずちらりと左の席を見た。ドレス姿のナデシコは機嫌の良さそうな様子で、カウンターの薄いメニュー表を眺めている。
実際のところ、もしDISCARDの犯罪に巻き込まれることなどないままリカルド共和国で国家警察官を続けていたなら、こんなふうにナデシコと並んで食事をする機会などまずあり得なかっただろう。表の顔とも、裏の顔とも。それどころか、出会う縁すらなかったかも知れない。
改めて、とんでもない立場の人とともに戦ってきたのだと思い知る。
「まあ、この店の客は警察関係者も多いから、見ない顔に探りを入れたくなるのは習い性というやつだ。──君は大盛りでいいか?」
尋ねられ、ルークは我に返った。
カウンターの前の厨房で煮立つ大鍋からは、豚肉の脂の匂いが濃く立ち上っている。癖はあるが食欲を刺激するこってりとした香りに、緊張で忘れていた空腹がにわかに思い出された。
「い、いえ、まずはナデシコさんと同じで」
「そうか? では、豚骨醤油チャーシュー味玉スペシャル麺固め背脂多めをふたつで」
「なにかの呪文だろうか……」
「君だってカフェでドリンクをカスタマイズするだろう。あと、ビールを大ジョッキでひとつ」
「ナデシコさん、車ですよね?」
「帰りは君が運転してくれるんだろう? 解放してくれ。これでもパーティでは一滴も飲んでいないんだ」
ナデシコが唇を尖らせる。水のグラスを運んできた厨房のスタッフが注文を繰り返し、すぐになみなみとビールの注がれた冷たいジョッキを持ってきた。若いスタッフがひとつだけのビールの置き場所に迷う前に、ナデシコが手を伸ばして礼を言う。
「お先にいただくよ。──ああ。生き返る」
嬉しそうにジョッキの白い泡ごとビールを啜るナデシコの傍らで、ルークは改めて店内を見回した。巡査時代からの常連ということだったが、店の内装は比較的きれいだった。古さは明らかだが、清潔に保たれているのがよくわかる。何度かリフォームしたのかも知れないが、なおこの場所で続けられるほど、地元の人達に長く愛されている店なのかも知れない。
うずうずと胸が踊るのが感じられる。これは、味も期待できそうだった。
「ラーメン店が珍しいか」
「はい。エリントンには、あまりラーメンのお店がないもので……この島で何回か食べましたが、いつも気になっちゃって」
「ミカグラの麺類は、独自進化を遂げている部類の文化だからね。観光客向けの店と、こういった昔ながらの店もだいぶ雰囲気が違う。麺やスープの種類やトッピングの組み合わせも、様々な流派がある」
「奥が深いな……。ナデシコさんは、ここがお好きなんですか?」
「行きつけと言いながら何だが、来るのはしばらくぶりだよ。仕事をしていると時折ここの味が恋しくなるんだが、どうにも忙しくて、足が遠のいていた」
ジョッキに口をつけながら、ナデシコが微笑んだ。
「ここにはよく、同僚や先輩たちと来たものだよ。職場から近いし、夜中までやっていてとてもありがたかった。部長になってからも、たまに部下を連れて食べに来た」
「思い出のお店なんですね」
「そうかも知れない。君にはそういう店はあるのか?」
「僕は……あまり、同僚や上司と食事に行ったりはしなかったもので」
「そうか」
ナデシコが短く答え、ジョッキを傾ける。麺が茹で上がったのか、厨房から電子音の合図がした。忙しなく動いているスタッフが鍋に向かったのを眺めながら、ナデシコは口を開いた。
「やはり、君はエリントンに帰るのか?」
「……そうですね」
「今の君には、辛い思い出も多いだろう」
「はい。でも、あそこには僕にとって大事な思い出も、目指してきた夢もあります。大切な出会いも……」
ルークが少しだけ俯いた。
「なによりこの二ヶ月で、僕がリカルド共和国で、国家警察でやるべきことが定まりました。守りたいんです。僕が、代わりに」
誰の、とはルークは言わなかった。ナデシコは苦笑しながら、ジョッキを置いて腕を組んだ。
「やれやれ。決意は固いか。──君の不当除籍の件は、私も手を貸そう。この島での君の功績を思えば、吹けば飛ぶような偽装だが」
「あ……。有難うございます!」
声を震わせるルークに、ナデシコは目を伏せた。テーブルで結露するジョッキを伝う雫を、白い指が撫でる。
「残念だ。君が残ってくれれば、私ももう少しは楽が出来そうなものなのだが」
「──ナデシコさん」
「はい、お待ちどうさん」
ルークの呼びかけを、掛け声と目の前に置かれた朱色の丼が遮った。ナデシコの前にも、別のスタッフが同時に同じ丼を置いている。
「おお……」
にわかに漂ってきた濃厚な香りに、空腹で沈みそうだった思考が一気に覚醒した。
クリーミーな茶色に濁ったこってりとした豚骨醤油スープの表面を埋め尽くすほどに、無数の背脂の粒が白く浮いていた。渦模様を描く厚切りのチャーシューが何枚も丼を覆うその横で、半分に割られたふたつの煮卵の黄身が橙色の宝石のようにつやつやとスープを飾っている。細かく刻まれた緑の葱と、筍を細切りにして煮付けたものが、丼の端で湯気に揺れる海苔のそばでアクセントになっていた。これでもかと盛り付けられた具の隙間に、麺がほんのわずかに顔を出している。
「麺が見えない……!」
「ああ、盛り付けも昔のままだ。懐かしいな。──いただきます」
「……いただきます!」
ルークが木の箸を割り、音を立てて手を合わせる。どこから食べるべきか少し迷ってから、ラーメン店特有の形をした匙を手に取り、湯気の立つスープを掬って含む。
「」
冷たい水で喉を潤してから、ルークはスープに箸を差し入れた。現れた卵色の麺を箸で掬い上げ、ふうふうと吹き、啜る。背脂の絡んだ熱々の麺を頬張り、大きな仕草で飲み込んだ。一気に内臓が温まり、上がった体温で熱くなった息を思い切り吐き、ルークはナデシコに振り返った。
「ナデシコさん! こ、このラーメン……あまりにも、美味しいです‼」
翠の瞳が見開かれ、ルークはチャーシューや煮玉子に次々箸を伸ばしていった。
「湯がいた固形の脂身をスープにトッピングしながらも、スープ自体にも背脂を溶かし込んでいる……」
「ほう。よくわかったな」
「よくわかりました……! だから、『給油』なんですね! クラッシュゼリーのようにぷるっと舌で踊る脂身の粒が舌で潰した途端とろけて力強いコクを生み出し、澄み切っていながら目視できるほどの油膜がラーメンをいつまでも熱々に保っていて……スープは豚の甘みとわずかな酸味のある醤油とがお互い殴り合うような暴力的な存在感を放ちつつも喉を通る頃には手を取り合うせいで喉越しはなめらかで、何時間も煮込んだであろう染み込んだ味わいと噛みごたえのバランスを計算しつくしたようなチャーシューと絡むと深い肉の旨味がスープによって引き出され、そこにしゃっきり新鮮な刻みネギの香味が後味をスッキリさせて脂っこいだけには終わらせない。ちぢれの少ないストレートな太めの麺を持ち上げれば絡んで釣られてくる無数の脂身はまるで星のようで、空腹に流れるようにカロリーが染み渡る様はまさに背脂のミルキーウェイ……!」
「聞きしに勝るというか、君の味覚の解像度と言語化能力は、なかなか面白いな。モクマじゃないが、確かに食べさせ甲斐がある」
語彙の限りを尽くして感想を並べ立てるルークに、ナデシコが目を丸くする。ナデシコは箸を止め、真剣な様子で考え込んだ。
「捜査の役に立てられそうなものだが──ああ、違うな。観察力と言語化は十分役立てている。難があるのは推理力の方か」
「難、ありますかね……」
「発想力と表現力が豊かなことはいいことだよ。時に、突拍子もない発想が活路を開くこともある」
「活路、開けますかね……」
「そんな日が来るといいな。君の長所は、思考を丁寧に、誠実に積み重ねていくところだよ。君自身の善性ももちろんあるが、人の気持ちを推し量る時も、そういう知性が思いやりの根拠なのだろう。自信を持ちなさい」
ナデシコがたおやかに首をかしげる。ルークは釈然としない悲しそうな顔をしながらも、自分の丼を着実に減らしている。ルークの食べっぷりに感心しながら、ナデシコも箸を進めた。
夜が更けてなお、活気のある返事が厨房に飛び交っている。コンロに強火が点き、鍋を振る音が聞こえてくる。肉の脂が焦げる香ばしさの中、新しい客の注文した麺が茹でられ、湯気が大鍋を覆い尽くしていた。
ダクトがあるために湯気や煙が店内を満たすことはないはずだが、ほんの少しだけ、カウンターが曇った気がした。
「美味しいですねえ、ナデシコさん!」
気のせいかと思うほどうっすらと霞む視界の中、ルークが無邪気にナデシコに言う。半分以上食べてもなお湯気の立つ丼を前にはしゃぐ姿に、思わずナデシコは瞳を細めていた。眩しいものを見るような形を作った瞳には、かつて映っていた風景が蘇っていた。ルークに気取られないように、頷くふりでナデシコはスープを口に含む。記憶よりも濃い塩気が、喉に絡んで落ちていく。
この店の味は、ナデシコにとって不遇の中でも腹を満たし、戦う気力を支えた味だった。島特有の歴史や文化が作り上げた意識に阻まれ、十全に警察官としての職責を全う出来なかった日々にありながらも、それでも、警察の誇りをともに掲げた同僚や部下たちがここで一緒に苦境や苦悩を共有してくれていた。同じ釜の飯を食べた仲、とはよく言ったものだと思う。
だが、ここまで辿り着く間、その多くを失った。ナデシコが警察組織という峻険に血を流しながら爪を立てて登り、公安部長の立場を勝ち取ってもなお、零れ落ちるものは──落とされるものは多かった。
彼らの仇であったDISCARDの首魁は崩壊する電波塔とともに消え、逮捕には至らなかった。今やナデシコは彼がルークの養父であったことを知り、彼がルークにとってどのような存在であったかも知っている。ファントムがミカグラの海に消え、ルーク・ウィリアムズという青年がどんな思いを抱えているかを、知っている。
だからナデシコは、今はただ思う。この立場になってもなおしがらみに倦む中で、懐かしさが今ここにある何かに重なりそうになったとしても。
彼らはもうここにいないのだ、という事実だけを想うのだと。
「君は生きろよ」
「へ?」
麺を口いっぱいに頬張っていたルークが聞き返す。ナデシコは箸を置き、カウンターの箱からティッシュを二枚取った。一枚をルークに渡し、もう一枚で自分の丼の外側に纏わりつく油分を大雑把に拭く。
「聞き逃したか? チャーシュー丼も旨いぞ、と言ったんだ」
「チャーシュー丼……え、今そんな話をし」
「このチャーシューを厚めの角切りにして少し炒めて焦げ目をつけ、熱い丼飯の上に山盛りにして特製のタレをたっぷりかけたここの名物だよ。米の熱さで脂がとろけてタレと混ざり合って米に染み込むのがまた、麺とは違う味わいでうまいんだ」
ルークの言葉を絶妙な呼吸で遮り、ナデシコは厨房を視線だけで示す。別の客がオーダーしたのか、ちょうど出来上がったばかりのチャーシュー丼が運ばれていくところだった。
「な、なるほど……気になります……! あ、でも、さすがにちょっと今日はお腹いっぱいになりそうで……すみません。思ったより、麺が増殖していて……」
「油膜で熱が保たれるから、早く食べないとどんどんのびて嵩が増すぞ。──では、丼は次の機会にしよう。いつかまた、付き合いたまえ」
ナデシコの手が、具も麺も残っていない丼を両手でそっと包む。それからいくつもの白い背脂が揺れる残りのスープを、大盃のように呷った。