イケメン仏頂面上司が女子高生みたいな告白をしてきた件について2 次の日から、ルシフェルとのお付き合い? が始まった。
会社では何も変わらない。席も離れているし、直属の上司ではないため、顔を合わせることすらない。その点に関しては、少しだけほっとしていた。
しかし、プライベートでは、よく連絡が来るようになった。朝と夜には何回かメッセージが来るし、そのうち、たまにではあるが、昼休みにも来るようになった。
その日も、お風呂から上がると、携帯がメッセージの受信を告げていた。チェックしてみると、ルシフェルからだ。
「君の今日の夕食はスパゲッティだと聞いたので私もスパゲッティにした。これで、同じものを食べているのだから実質一緒に夕食を取っていると言っても過言ではないだろう。君と夕食を共にしていると思うと、とても気分が高揚してくる」
「……」
そんな、反応に困るメッセージが来ていた。
(連絡しているのはあの部長なのだろうか……)
メッセージを見ていつも思うのはそれだ。
「君のご飯を頬張る姿はとても愛らしかった。まるで小さくて愛らしい小動物を彷彿とさせる。ずっと見ていても飽きない」
「おはよう、昨日はよく眠れただろうか? 私は君のことを考えていたら、いつのまにか朝だった。愛している」
「同じ会社に勤めているのに、君の姿すら見られず辛い……いつも持ち歩いている、君が入社したときの社内報に掲載されていた、新入社員紹介の君の写真を見て我慢しよう」
「午前中、たまたま用事があって、君のデスクの近くまで行ったら、君は一生懸命パソコンに向かっていた。とても一生懸命で、その愛らしさに心打たれた。午後も頑張れそうだ」
ものすごく火力が強めの愛の言葉がいくつも送られてくる。最初はちょっと怖い、そんな感想さえ抱いてしまっていたが、最近は怖いを通り越して、すごいとすら思い始めている。
(そんなに私って魅力的なのかな……)
ふと、そんな自惚れをしてしまいそうになる。
メッセージのやり取りを始めて一ヶ月程経った頃か。新しい年度が始まり少し経った頃だ。その日も、いつもどおりメッセージのやり取りしていた。
「よければ、今度休日を一緒に過ごしたい。羽目をはずすようなことはしないからどうだろうか」
いつものメッセージの他に、そんなメッセージが届いた。
(確かに、すごく会いたい感はいつものメッセージから伝わってる……)
たまに廊下で一瞬すれ違うことはあるものの、あのベリアルに呼ばれた食事会以来、会っていないという表現が正しい。
(確かにお互いを知る上でも、直接会った方がいいよね)
メッセージを通じて、いろいろ彼のことは知ることができてきている気がする。予想外の言動は置いておくとして、彼は真面目で誠実で一途、その印象が強い。ただ、メッセージのやり取りだけでは気がつけないことも当然あるだろう。ジータは迷うことなく承諾の返事をした。
次の土曜日、いろいろな店舗の入った大きめの商業施設で、映画を見てご飯を食べることにした。商業施設の定番の待ち合わせスポットで待ち合わせをした。
当日、待ち合わせの五分ほど前に待ち合わせ場所に行くと、何人かの待ち合わせだろう人に紛れ、ルシフェルは既にジータを待っていた。
(黙っていれば完璧だよね)
待たせてしまったと思うよりも前に、そんなことを思ってしまった。それなりに待っている人はいたが彼の輝かしい容姿はよく目立っていた。整った容姿に清潔感のある上品な私服。ジータを待っている間の暇つぶしなのか、携帯を触っているが、そんな些細な仕草ですら絵になる。思わず二度見する人さえいる。こんな完璧な容姿のうえ、それなりの規模の会社の部長を務めるほど優秀な人間だとは誰も思うまい。
(そして、この人にプロポーズされているとは、にわかに信じがたい)
もしかして、夢でも見てるのだろうか……そう思っていたら、あちらがジータに気がついた。手を振られる。
「待たせてしまってごめんなさい」
ジータは少し小走りで彼に駆け寄った。
「待ち合わせの時間前だから何も問題ない。私こそ楽しみすぎて大幅に早く来てしまった」
彼は嬉しそうにニコニコと笑っている。職場の仏頂面が嘘のようだ。
「いえ、それでも待たせてしまったことには変わりないので……」
「大丈夫だ。君とやりとりしたメッセージを読み直していた。時間もあっという間に過ぎてしまうんだ。君らしい愛くるしいメッセージは、毎日読み返しても全く飽きない。今度製本しようかとも思っている」
「……」
「フフ、私服、可愛らしいな。写真を撮ってもよいだろうか?」
「は……はい」
反応に困って固まっていたため、何を聞かれたのかよく考えず、曖昧な返事をしてしまった。何に対して「はい」と言ったのか把握したときはもう遅かった。結局、一枚かと思いきやいろいろな角度から何枚も写真を撮られ、許可を出したことを後悔したことは言うまでもない。
何枚もパシャパシャと写真を撮られたあと、なんとか気持ちを立て直し、映画館に移動した。
(ずっと、見られてる……)
その間、ずっと痛いほど見られていた気がした。気がした、というのは実際に見たわけではないから。でも、事実を確かめたくても怖くて顔をあげられなかった。だから、少し足早に移動した。
映画館に着くと、たくさんの映画があった。その中から、上映時刻が近く、それなりに外れのなさそうな、今話題のアクション系ハリウッド映画にした。
「これでよかったですか?」
「君と一緒であれば、どんな映画でも忘れられない最高の映画になるから、心配しなくていい」
「そ、そうですか……」
それならば安心したと言うべきか困るところだ。
「何か飲み物や食べ物は?」
「あ、そうですね」
「買ってこよう。何がいい?」
「いえ、自分の分は自分で買ってくるので大丈夫です!」
「フフ、君のそのような慎ましい性格も好ましく思うが、ここは私に花を持たせてくれないか? ……いつもの通りであれば、アイスレモンティーとキャラメルポップコーンかな?」
「あ、はい……」
「買ってこよう、少しここで待っていてくれ」
ルシフェルはジータを休憩用の椅子に座らせ、売店へと向かった。プライベートで出かけたのはこれが初めてなのに、どうして一般常識のようにジータの欲しいものがわかったのか不思議に思うと同時に少しだけ怖くなった。何故かこの人は、最近知り合ったばかりのはずなのに、よく自分のことを知っている。
(このくらいのリサーチ力じゃないと、若くして部長まで行けないよね……)
だから、そう言い聞かせた。何も理由にはなっていないがそう言い聞かせた。
ジータにはアイスレモンティーとキャラメルポップコーン、自分にはホットコーヒーを買ってきたらしい。
「ひざ掛けも借りてきた。映画館は冷えることがあるから必要あれば使ってほしい」
本当に何から何までいたれりつくせりだ。スパダリとは彼のための言葉かもしれない。
指定のシアターに入り、並びの席に座る。少しだけポップコーンをつまんだところで、周りが暗くなった。どうやら、映画本編前の予告が始まったようだ。
最初は、この映画面白そうだとか、続きが気になるなとか、そんなことを考えていた。しかし、ジータはだんだん目の前のスクリーンに集中できなくなってきた。
(……)
横を向いたわけではない。でもわかる。きっとルシフェルはスクリーンよりずっとジータを見てる。映画館まで来るときもそうだ。彼は痛いほどの視線を感じるほど、ずっとジータを見ている。
(私なんて見て楽しいのかな……)
容姿はごく一般的なものだし、面白いことをするわけでもない。彼は一体ジータの何をそんなに好ましく思い、じっと見ているのか全然わからない。
だから、余計に思うのだ。
(どうして、この人は私を好きになったのかな)
実はずっと、それこそプロポーズをされたときから気になっていた。一番聞きたかったものの、聞けずにいる質問にぶつかり、なんとも言えない気持ちになった。
「映画、面白かったな」
映画館を出ると彼はジータにそう話しかけてきた。
「そうですね」
「最後のアクションシーンは迫力があった。あの大迫力は、さすがハリウッドと言うべきだろうか」
あ、映画もしっかり見てたんだ……そう思ったが口には出さなかった。
「今まで見た映画で一番心に残る映画となった。何回も見直すために、ブルーレイが発売されたら購入しよう」
もし、この先もまた別の映画を一緒に見たら、その数だけブルーレイが増えていきそうだな、と思わず思った。
「少し遅いが、昼食にしようか」
「あ、はい」
「何がいい? いろいろな系統のお店があるようだ」
「なんでも食べますので、空いていそうなお店で大丈夫です。あ、部長は食後の珈琲が飲めそうなお店がいいですよね?」
珈琲が好きだと言っていたことを思い出し、そう振ると、ルシフェルは頬を赤らめ口を手で押さえてしまった。
「あの……どうかしました?」
「いや、私のことを知ってくれていたのだと思うと嬉しくて……」
「そ、そうですか……あ、あのカフェっぽいお店はどうですか? 軽食もありそうです……!」
話題を反らしたかったのもあり、注意をそちらに向けた。
それからは、食事の間ずっと……いや、向かい合わせの席に案内され、座ってからずっと見られていたことを除くと、特に何もなくデート? は終了した。
「君のことがまた詳しくなった」
そう彼は嬉しそうにしていた。しかし、それに関してはジータも同様だ。こうして出かけたことで、彼のことを少しでも知れた気がしていた。すなわち、あのメッセージの重い愛情は彼が送ってきたものだと再認識した。
「そろそろ夕方だ。マンションまで送ろう」
「暗いわけでもないですし、大丈夫ですよ!」
「いや、何かあったら大変だ」
「そんなこと言ったら、来るときだって同じですよ。だから大丈夫です!」
「そうか、それは盲点だった。次からはマンションまで迎えに行こう。車を出したほうがいいな」
余計なことを言ってしまった……そう思ったことは否定できない。
そして、彼の発言通り、マンションの自室前まで送られることになってしまった。
「部屋に入って鍵をかけたのを確認したら帰ろう」
「え、大丈夫ですよ……」
「……」
「わかりました。では、また……」
そして、パタンと玄関の扉をしめ、カチャリと鍵をかける。すると扉の向こうから遠ざかっていく足音が聞こえ、ようやく一息ついた。
(すごい過保護……)
子供じゃないのにな……とは少しだけ思った。
それから、しばらくこのような関係を続けていた。実は、徐々にルシフェルの熱も冷めるかと思っていたがそんなことはなかった。
「君への好きが強くなった。会えない時間が辛い。君を常に間近で見ていたい」
そんなことさえ言われてしまった。
(アプローチが結構独特なんだよね……)
過保護だし、愛情表現は重めだし、びっくりすることばかりだ。彼とのプライベートでのやりとりは困惑することも多い。
しかし。それとは別の意味で困惑してしまうときがある。
「前期の目標達成率を踏まえると、今期、我が部の方針としては……」
四月の中旬に部長のルシフェルによる部の方針説明会があった。参加者には当然部下のジータも含まれている。大人数を収容できる会議室に集められ、多く並べられた椅子の一つに座り、他の参加者と同様に彼の言葉に耳を傾けている。ルシフェルはデータに基づいた理論的かつわかりやすいプレゼンを行っている。言葉を綴るルシフェルからは、あまり表情を読み取ることができない。流れるように完璧なプレゼンを、淡々と感情を挟むことなく皆の前で披露している。
「以上だ。質問を受け付けよう」
その言葉でプレゼンが終わったのだとはっとした。ジータは無意識に説明よりもルシフェルに目が行ってしまっていた。あの輝かしい美貌も手伝い、彼のプレゼンはどこか迫力さえあると感じていた。それと同時に。
(同一人物とは思えない)
もし、あのメッセージのやりとりを、隣で一緒に聞いている先輩に見せたら、きっと同名の別人と言うだろう。そんなことをぼんやりと考えていると、質問者が出てきた。
「質問です。前回の目標では、コストに力を入れるために、施策として……」
「確かに君の言うことももっともだろう。しかし、会社の方針として新たに追加された項目に対しては……」
質問に対しても、淡々と完璧な納得できる回答をしている。あの、やや的外れとも思える暑苦しいアプローチをしている人とはやはり思えない。
そんな彼を見ると、なんとも言えない感情が浮かび上がることに気がつく。ジータはうまく説明できない。少しだけドキドキするような、ゾクゾクとするような、なんとも言い難い感情だ。
(なんとなくはわかる……けど……)
あれだ。人と秘密を共有したときに抱く感情に似ている。自分だけが知っているという特別感や優越感というのか。ルシフェルはジータとの関係を秘密にしているわけではないだろうが、ジータにとってはどこか二人っきりの秘密を抱えているように思えていた。
(私……部長のこと、結構意識してきてるんだろうな……)
そこから、客観的に自分をそのように分析する。自分は恐らくルシフェルを特別意識しているから、そんなことを思うのだ。
ジータはわかっている。的はずれなことも多いが、ルシフェルはいつも真剣なのだ。真剣にジータを愛してくれている。それが痛いほど伝わっている。誠実に真っ直ぐなアプローチでジータに振り向いてもらおうとしている。その姿に好感を覚えないわけがない。こう考えると、彼の押してだめなら更に押せ、とも言うべき態度が効いているのかもしれない。そんなことをふと思った。
(私のどこがそんなに好きなのかな……)
だからいつも不思議なのだ。彼ほどの人物がどうしてここまで自分を好きになったのか。聞いてみたいと思うが、まるでうぬぼれのようでなかなか聞けずにいる。こうなると、なんとなく、もやもやとした気持ちになり、困惑してしまう。そんな自分が少しだけじれったくもあり、彼への接し方を悩んでしまうことがある。
とはいえ、「今日の説明会、君と四回ほど目が合って嬉しかった」というメッセージを受け取り、意識している気持ちは幻だったかもしれない……そんなことをふと思ってしまうのも確かだ。
それは、五月末頃だ。ルシフェルに職場の帰りに誘われて飲みに行くことになった。普段は休日に会うのだが、部の大きなプロジェクトが一段落ついたらしく、ご褒美にどうしても一緒に食事をしたいと熱望され、承諾した。人の目もあるので、半個室の居酒屋を予約してもらった。
「会社で待ち合わせてもよかったと思うが」
予約したお店で顔を合わせるとルシフェルはそう声をかけてきた。今日は居酒屋に現地集合だった。
「誰かに会ったら、何と言っていいかわからないので……」
まさか、プロポーズされたものの、よくお互いを知らないので、知るための期間中です、と言うわけにもいくまい。
「私は未来の妻と紹介するつもりだが」
「もう、まだ返事してませんよ! ……それより、何食べます?」
「それより……と言われると、少し切ないな」
そのお店は海鮮が美味しいと評判のお店だった。お刺身や、焼きものはもちろん、オリジナル料理まで種類が豊富だ。
「へー、お寿司まであるんですね」
「前に来たときはネタがとても新鮮で、美味しかった」
「そうなんですね! 頼んじゃおうかな」
そんな会話を普通に交わす。ルシフェルと顔を合わせるのも慣れてきた気がした。最初はガチガチに緊張していたが、今ではそこまでの緊張もない。相変わらず良く自分を見ているが、その視線にも慣れた。
アルコールといくつか食事を頼み、いつもどおり他愛もない会話をしていると、先にアルコールが運ばれてきた。
(あ、アルコール強いかも)
お店のオリジナルカクテルを頼んだのだが、乾杯をしてアルコールを口に含み、いつもより喉が熱いことに気がついた。口当たりはよく、飲みやすいお酒だったことは幸いか。少しずつ飲めば大丈夫だろうと判断した。
しかし、お腹に食べ物を入れていなかったせいか、いつもより酔いが早く回ってきた。気分が悪くなったり、物事が考えられなくなったり、そんなことはない。しかし、少しだけいつもよりふんわりとした感覚に陥る。
(なんか、いつもよりふわふわして楽しいかも……)
いつもとは少しだけ違う気分で、お酒や食事、ルシフェルとの会話を楽しんでいた。
「……ジータ」
「はい?」
ジータが箸を置いたときだ。タイミングをはかっていたかのように、少し硬い声で名前を呼ばれた。
「君と交流を始めて三ヶ月ほどが経った。私のことを知ってもらえただろうか?」
どこかいつもよりかしこまった態度でそんなことを聞かれる。
「は、はい。それはもちろん」
ジータもかしこまってそう答えると、ルシフェルは続けた。
「……私は、君にプロポーズを受けてもらえる見込みがあると思っていいのだろうか?」
突然そんなことを聞かれる。ドキッとする。
「……もし、『見込みはないです』って言ったとしたら、どうするんですか?」
酔った少しだけふわふわとした頭で考え、そう回答する。
「アプローチの仕方を変更する。見込みがあると言ってくれるまで、何度でもアプローチする」
「……諦める、って選択肢はないんですか?」
「ない。私には君以外いない」
ルシフェルははっきりと、ジータをまっすぐ見て言った。普段は、対応に困り曖昧に流すことも多いが、今回は曖昧にしてはいけない気がした。自分も誠実に答えなくては、そう思うが酔った頭のせいかうまくまとまらない。
「……どこが」
「?」
「私のどこがそんなに好きなんですか?」
代わりに、こぼれたのはそんな疑問。彼はどうしてこんなにジータを好いてくれるのか。
「そもそも……好きになったきっかけって何ですか? 私の記憶だと、部長に直接会ったのは配属されたときの挨拶くらいだと思ったんですけど……」
ずっと不思議に思っていた。彼はいつ自分を見初めたのか。どこがそんなに好きなのか。
「あぁ、君は覚えていないかもしれないが、君とは運命の出会いを果たしたんだ。あれは二年ほど前か」
「二年……?」
おかしい。自分がこの会社に入ったのは一年ほど前だ。眉をしかめると、ニコリと笑われる。
「眉をしかめていても可愛い」
「そ、それはいいですから!」
「フフ……その日は出張の帰りだった。少しだけ混んだ電車に揺られ、次は会社最寄り駅だといったころで、車内に痴漢が出たと騒ぎがあった」
「二年前……痴漢……あ、もしかして……」
「思い出しただろうか?」
「……はい」
二年前、あれは忘れもしない、今の会社の説明会の日だった。就職活動真っ最中で、緊張でガチガチのジータは、電車に揺られていた。普段であれば、息苦しいと感じる程度には人が乗っていたが、緊張でそれどころではなかった。
とはいえ、緊張しているジータとは関係なく、電車はどんどん進んでいく。そして、次の駅が会社の最寄駅、降りなければ、そう思っていたときだ。
「……」
目の前の女の子……きっと自分と同じくらいか。その子の様子がおかしいことに気がつく。体を震わせ下を向いている。まるで息を押し殺すかのように、身を固くしている。満員電車で気分が悪くなったのかと思い、声をかけるべきか迷っていたときだ。
「……」
女の子は突然携帯を触りだした。何かを操作したあと、まるでジータ……正確に言えば自分の後ろにいるだろう人に、携帯の画面を見せるように、ゆっくりと携帯を持つ手を上げた。
(え……)
思わず画面を見てしまいどきりとした。そこには「痴漢されています、助けてください」と書かれていた。思わず目を疑ったが、間違いない。
(ど、どうしよう……)
人と人とに多少の隙間はある。少し体をよじれば下が見えそうだ。ジータは、女の子と自分の間にカバンを挟んで距離を稼ぎ、下を見た。すると、そこには女の子が訴えた通りの光景があった。女の子のスカートをまくりあげ、中に手を忍ばせていた。スカートの中に手を入れているのだ、間違いない。
(……抵抗できない相手に許せない)
元々正義感の強い性格だったことも手伝い、何が何でも捕まえてやろう、そう心に決めた。
(相手は男の人だから取り逃がしちゃうかも)
何か動かぬ証拠……そうだ動画がいい。そっと携帯のカメラを起動し、動画の撮影を始めようとスタートボタンを押す。その瞬間、ピピ、という機械音が小さくなった。犯人に気が付かれたかもしれないと心配していたが、電車の走行音にうまく紛れたらしい。ある程度証拠を撮り終えたところで、ジータは声を上げた。
「やめてください……! 犯罪ですよ!」
「!」
咄嗟に男が女の子から手を離す。その行動はもちろん、男の顔や全体をすかさず動画に写す。
「この人、痴漢です!」
ジータがそう叫ぶと、周りの注目が集まる。
「な、何言ってんだよ!」
「私見てました!」
「見間違いだろ!? 冤罪だ!」
男はそう強気でそう言うが。
「み、見間違いなんかじゃないです……! 私、この人に、ずっと触られてました!」
ジータから勇気をもらったのか、痴漢にあっていた女の子は涙混じりの声でそう叫んだ。
「証拠の動画もあります!」
「ちっ、この野郎……! よこせ……!」
犯人がジータの携帯をとっさに奪い取ろうと大きく動こうとしたとき、周りの男性が取り押さえてくれた。
「うっ、うっ……ありがとうございます……ありがとうございます」
「大丈夫大丈夫、怖かったね……もう大丈夫だからね」
ポロポロ大泣きしている女の子の背中をさすってあげた。ちょうど次の駅に到着し、逃げられぬよう複数の男性に捕まえられたまま痴漢は降ろされた。ジータも女の子に付き添うようにして降りる。
ジータは女の子に寄り添ってあげていたため、詳しくは見ていなかったが、駅員が慌しく対応していた。女の子は怖さが抜けないのか、まだ小刻みに震えて泣いていた。ジータは支えるように抱きしめてあげた。
「怖かったね……よく頑張った」
(結局、家族の人が来るまで付き添ったら、会社説明会の開始時間ギリギリになっちゃったんだよね……)
証拠の動画と連絡先を女の子と家族に渡し、慌てて改札を出て、普段は節約のために絶対に乗らないタクシーに飛び乗ったことを思い出した。遅れたら心象が悪くなると慌てており、ギリギリ間に合ったときはホッとして嬉しかった。
「もしかして、あのとき……」
「あぁ。同じ電車に乗っていた。他にもいたが、犯人を取り押さえた一人だ」
ジータは女の子に寄り添うことに必死で気が付かなかった。
「ごめんなさい、全然覚えていなくて」
「あの状況だ、無理もない。そのとき私は、名も知らぬ君の勇気と優しさに惹かれてしまった。とても美しいと思った」
ジータとしては当たり前のことをしただけだ。しかし、そこまで言われると照れくさくも嬉しくもあった。
「そう……なんですね。でも、その私がたまたま同じ会社に入った、というのもすごい確率ですよね」
「あぁ、そうだ」
すると、彼は、どこか高揚したような口ぶりに変わった。
「……普通はそこで終わりなのだろう。しかし、会社に戻って驚いた。なぜか君が社内にいたから」
「ご存知だと思いますが会社説明会ですね……」
「あぁ。そのとき、とても驚いたと同時に、今まで感じたことのない感情に囚われた。そのときはうまく表現できなかったのだが、今ならわかる。君に運命を感じたんだ」
「確かにすごい偶然ですけれど……」
「きっと私は、小さく愛らしいながらも勇敢でたくましい君という存在を守るために生まれてきたのだと、そう確信した」
この人が何歳かはよくわかっていないが、この年までよほど出会いがなかったのだろうか……そんなことを現実逃避のようにぼんやりと感じてしまったが、彼は真剣そのものだ。
「そんなことないですよ、当たり前のことを……」
「君のそのような謙虚なところも魅力的だ。きっかけこそ突発的な事象だったが、君のことを知れば知るほどより好きになっていった。ジータの努力家なところも、誰よりも優しいところも、実は正義感溢れていて気が強いところも、とても輝いて見える」
彼の発言はジータをいつもムズムズとした、よくわからない感情に陥れる。でも、その感情は居心地の悪いものではなかった。
(そっか……きちんと私のことを見て、好きになってくれたんだな……)
つまり、悪い気はしない。むしろ、ここまで知った上で好きになってくれたのだと嬉しくなった。
「さっきの答えですけれど……」
ジータは、そこまで言葉を綴ると、一度止めた。少しだけ呼吸を整え、その後の言葉を続けた。
「……見込みがないことはない……です」
ジータはそれだけ告げた。恥ずかしくて顔が見られない。恋愛経験が浅いジータの精一杯の答えだった。
「そうか、ならば安心した」
ルシフェルは、そんなジータを察してくれたのか、短く穏やかな口調でそれだけ告げた。
「ぎゃ、逆に、ぶ、部長は、私のことを知って、イメージと違った……とかはないんですか?」
恥ずかしかったジータは話題をそらすように、逆にそんな質問をする。
「君は、私の想像以上に愛らしい。君のことを考えると、夜眠れないことさえあるくらいだ」
「……寝てください」
行き過ぎた愛情に少しだけ眉をしかめ、ジータはそう答えた。
「ジータ、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ、少しだけ頭がふわふわしているだけです」
帰り道、少しだけ飲みすぎたジータにルシフェルはそう声をかける。声はかけるが、ジータに触れるようなことは一切ない。適切な……それこそジータが転びそうになったら手を差し出せるだろう距離を保っている。
「……私のこと、好きなのに全然触れないですよね」
彼はいつもそうだ。だから、なんとなく、酔っていたこともあり、そんな言葉が出てきた。
「触れたいが、我慢している。好きな女性に触れたくないわけがない」
少しだけ、絞り出すような、落ち着いた声でそう答えられた。
「本当は触れてみたい。柔らかな頬や綺麗な髪に触れてみたい。しかし、まだそこまで君に許してもらえていない気がしている。私は君が許してくれるまで触れない」
こういうところだ。彼のこういう誠実なところが、ジータは良いと思っているのだ。
「……触れて、いいですよ?」
酔っていて大胆になっていたこともあった。我慢させている自覚もあった。自分のどこがそんなに好きなのか知ることができ嬉しかったのもあった。だから、自然とそんな言葉が出てきた。
「……」
「ちょっとなら、恥ずかしいですけれど、大丈夫です」
触れやすいように、少しだけ顔を近づけると、戸惑いがちに、ルシフェルの指先がゆっくりと伸びてきた。最初こそ目を開けていたが恥ずかしくなり目を閉じてしまった。その直後、指先が頬に触れた。目をつぶっているため敏感に感じる。とても温かい指だ。まるで壊れ物を扱うように優しく、少しだけ頬を撫でられた。寒くもないはずなのに何故か、指先は少しだけ震えているように思えた。
「髪……も、いいだろうか」
「どうぞ」
ゆっくりと指が頬から髪に移動し、手ぐしで梳かすように髪を撫でられる。自分でも毎日触っている髪だが、自分で触るときとは全然違った。優しく何回かその動作を繰り返される。
(恥ずかしい……けど)
異性にこうして触られたことはなかった。当然恥ずかしい。でも、悪い気はしなかった。彼の指は温かくて優しい。その指先が愛おしく感じる。
「ここまで……だな」
そんなことを考えていると、彼はゆっくりと指を離した。
「……」
言葉にさえ出さなかったものの、優しく触る指が名残惜しいと思ってしまった自分に、少しの恥じらいを覚えた。
(きっと、酔ってるから)
だから、そう言い聞かせた。